#4
「念のために聞くけど、引っかかっているのはどの部分だい?」
櫻井先輩が、沼田刑事にそう尋ねた。
「そりゃあ、お前、最初の部分だろ」
「最初の部分ですか?」
と私は聞き返す。
「そう、一番最初、あの女は何であの部屋に入ったんだ?」
沼田刑事がそういったのを聞いて、すこしかわいそうな気分になった。
この人はあまり話を聞いていなかったらしい。もしかすると、聞いていたけれど、話が長かったので、最初のほうは忘れてしまったのかもしれない。
きっと頭のなかまで筋肉になってしまっているのだろう。そういうひとも、実際にいるのだ。
「あの女性は、空き巣ですよ?」
「そうだが……! どうやって入った!」
憮然とした表情で、沼田刑事が言った。いちおう私には気を使ってくれているらしい。怒鳴るのをこらえているような態度だった。
「それは、ドアから入ったんでしょう」
「入れない! オートロックだ!」
「はい? ……あっ」
南さんの部屋はオートロックだ。たまたま鍵が開いているということはない。
そうか、と私は思った。確かに沼田刑事の言うとおりだった。鍵がかかっていれば部屋に入ることはできない。それともあの女性は鍵を開ける技術を持っていたのだろうか。
「どうやって入ったかは想像になるけどね……まず君が見た手紙についてなんだけど、折り曲げたり何かにはさんだような跡はあったかな?」
「あ、はい。折り曲げた跡はありましたけど……」
「うん、そうか。手紙の内容は覚えているかな?」
「えっと……『おかあさんはやくかえってきてね』っていうことが書いてあったと思います」
「そうだね。助けてとは書いていなかったよね」
「はい、そうですね」
「餓死して死にそうなんだ。助けてとか、苦しいとか、殺されるとか、書かないものなんだろうか」
「それは……」
「そういうことは書かなかった。だとしたら、あの子は本当にお母さんに早く帰ってきてほしかったんじゃないかな」
「そうかもしれませんけど……」
「おなかがすいていたというのもあるだろうけど、なによりあの子は早くお母さんに会いたかったんだ」
そうかもしれない。どんなにひどい仕打ちを受けても、あの子にとっては大好きなお母さんだったのかもしれない。
早く帰ってきてねと願いながら餓えて死んでしまったのかと思うと、言葉が出てこなかった。
「想像してごらん。お母さんに早く会いたい、そう思っている子供は家のどこでお母さんを待つだろう?」
「玄関ですか?」
「遺体は玄関付近で見つかったな」
沼田刑事も頷く。
「ただ玄関で待つだけだと、少しタイムロスがあるね」
母親が帰ってくるときの様子を想像してみる。ドアを開けて、母親が玄関へ入ってくる。子供がそこへ飛びついている。
――タイムロス……いったいなんだろう。
「ここでもオートロックか……」
沼田刑事がつぶやいた。
「そう、オートロックだから、絶対に鍵がかかっている。鍵を開けようとガチャガチャしている時間は、あの子にとってはタイムロスだったんだろう。だから、少しでも早くお母さんに会えるように、オートロックがかからないようにした。
手紙をドアに挟むか、自分の体をドアに寄りかからせて閉まらないようにしたか、両方かもしれない。すぐにドアを開けられるようにして、ずっと待っていたんだ」
「……だから、あの女性が入れたんですね」
オートロックがかからないようにしていたから、あの空き巣の女性はドアを開けることができた。
空き巣に入ろうとドアを開けた瞬間、寄りかかった姿勢で亡くなっていた子供の遺体が倒れかかってくる。慌てて抱きかかえると、子供の体は冷たい。空き巣の自分には、警察への通報はできない。遺体を玄関の中に横たえて、どうしようかと見回すと、ドアの隙間に挟んであった手紙が落ちている。
これだ。この手紙が届いたということにして、第一発見者になればいい。手紙が届いたら、気になって見に来ることもあるだろう。怪しまれることもない。
そうして、私が見かけた場面になる。
いままでの話に、これでぴたりと当てはまる。
「あの子は、お母さんを待っていたんですね……」
佐々木さんがうつむきながら言った。
「そうですね。でも、結局お母さんは帰ってこなかったですね。あの子が生きているあいだには」
櫻井先輩がぽつりと言って、それ以上、誰もなにも言わなかった。
***
子供を置いて、長期間旅行に出かける。
食事の用意もしないで。
そんな母親が、実際にいる。
考えても、わからない。
なぜそんなことをするのだろうか。理解もできない。
――いったい、どんな人間なんだろう。
それは人間ではないのかもしれない。
自分のことを母親と慕う子供の気持ち。それを平然と踏みにじり、食べものがなくて死んでしまってからも、きっと何とも思わないのだ。
――そんな人間が、いるんだ。
でも、私はどうだろう、と思った。
自分は違う。この母親は間違っている。胸をはって、そんなふうに糾弾できるほど、私は正しい人間なのだろうか。
からだが重く感じるほど、胸の奥でずっしりとうごめいている感情は、怒りなのか、憤りなのか、自己嫌悪なのか。
それすらもわからないまま、ただこの母親だけは許せない、と考えていた
少しして、事件はニュースでも騒がれるようになった。
母親はいま、警察に事情を聞かれているとのことだ。
どうやらこういう場合、母親は罪に問われるらしい。
――当然だ。
と思う。
――それでなにかが変わるのだろうか。
とも思う。
子供は生き返らない。
それに、たぶん、母親が反省するということもないのだろう。
***
あれから佐々木さんの元気がなくなった。
お菓子を持って遊びに行っても、口数が少ない。顔色も悪い。私の顔を見ても、申し訳程度に笑顔を作るだけだ。
かわりに、沼田刑事とときどき会っているようだった。これに私は少し、怒りを覚えていた。
佐々木さんは、自分に何かできたはずだとあの事件のことを思い出して、責任を感じているのだ。同じマンションだから。年長者だから。そんなことを考えて、何も責任はないのに、何もできなかったと自分を責めて、それで体調を崩して元気がなくなった。
一刻も早く、佐々木さんは事件のことを忘れなければいけない。
なのに、あの刑事は佐々木さんを呼び出して事件のことを蒸し返している。捜査に必要なのかもしれないけれど、たびたび呼び出す必要はないと思う。
刑事という人種は日頃から血なまぐさい事件を扱っているせいで、神経が麻痺しているのだ。
事件に巻き込まれれば、犯人や被害者じゃなくても心を痛める人間はいる。そういうことをきっと想像できないのだ。
無神経で、他人の気持ちなど考えない。自分さえよければいいとしか考えない。そういうひとたちに、弱い人間は徹底的に痛めつけられる。
世の中の仕組みはあまりにも理不尽で、そして、自分はどちら側の人間なのだろうと考えて、また、胸の奥がひどく重たくなった。
***
しばらく経ったある日、佐々木さんが私の部屋を訪ねてきた。
あれ以来、私は佐々木さんに事件の話をしないように心がけていた。そうすると佐々木さんの口数が少なくなっているものだから、話す機会は減ってしまう。このときは、一週間ぶりくらいだったと思う。
「アユミちやん、久しぶり。えーとね」
佐々木さんはいくらか体調もよくなったようで、表情も明るくなっていた。
「アユミちゃんに聞かせたい話があってね」
「はい、何ですか?」
佐々木さんはちょっと口ごもった。
「あのね、NPOがあるんだ」
「NPOですか? ボランティアとかの?」
「うん、そう! やっぱり知ってるんだね。私、横文字が苦手だから、そういうのがよくわからなくて」
「はい。NPOがどうかしたんですか?」
「いろいろ話を聞かせてもらったんだけど、あの、亡くなった子供。あそこの家は母子家庭だったんだって。
そうすると、お金がないから、子供を保育園とかにも預けられなくて、誰かに頼るあてもなくて、出かけることも、旅行にもいけない。仕事も自由には選べない。母子家庭だっていうだけでいろんなことができなくなって、近所からも白い目で見られて、みんな追いつめられるんだって。
それで今回の事件みたいなことになって……そういうの、母子家庭ではよくあることなんだって……」
佐々木さんの説明を、私はうなずきながら聞いていた。たしかに、そういうこともあるかもしれない。
「だからNPOの人たちがいるんだって。お金がなくて困っている家庭の子供を預かったり、みんなでご飯を作ったり、そういうのをするらしい。私も参加しようと思って……沼田さんがそういうことに詳しいから、調べてくれてたんだ」
「……それで沼田刑事と会っていたんですか」
「うんそう。あの人いい人だね」
沼田刑事、見た目とは違うんだ……と私は思った。
そして、佐々木さんはそんなことをしていたんだ、と驚いていた。
NPOなら、大学にもそういうサークルはある。知り合いで活動に参加している人もいる。私のほうがそういうものに接する機会は多いはずなのに、何かをしようとは考えていなかった。
私は誰かを責めようとしかしていなかった。そんなことに、何の意味があつたのだろう。
「まあ、あんな事件があったからって、急に私がNPOに参加したところで、何が変わるわけでもないんだけど……」
佐々木さんは力なく笑った。
「それでね、今度の日曜日、そのNPOの会の人と話をしに行くんだ……」
ここでようやく佐々木さんの用事がわかった。私を誘おうとしているのだ。
「アユミちゃんは……そういうのに参加するの、嫌だよね……」
「嫌じゃないですよ!」
佐々木さんの話を聞いて、自分が何も考えていなかったことに気づいた。何を考えなければならなかったのかも。
だから、胸の奥がずっと重たいままだったのだ。
「私も行きます! ついていってもいいですか?」
自己満足なのかもしれない。けれど、自分も何かやっておきたい、という気持ちになっていた。
「ああ、良かった……」
佐々木さんがほっとした表情になった。まぶたを閉じて、お地蔵さんのようになっている。
「私だけじゃあ、役に立たないだろうし、仕事も覚えられないだろうから。迷惑ばかりかけちゃう。でも、アユミちやんがいれば大丈夫だね」
「いえ、私もそういう活動は初めてですから」
「そうなんだ。でもきっとアユミちやんには勉強になるだろうね。その会に参加してる人はすごく立派な人ばかりだから、そういう人を見習って、私みたいな駄目な老人にならないようにしてね」
そう言って佐々木さんはまた、力なく笑った。
「そんなことないですよ!」
私の声は自然と大きくなっていた。
佐々木さんが少し驚いた顔になる。
「私は、佐々木さんみたいになりたいです!」
本心だった。佐々木さんがどうして、自分は駄目だ、というようなことを言うのかわからなかった。
見ず知らずの子供を助けることができなかったと自分を責めて、少しでも役に立とうと思ってNPOに参加する。NPOの意味すら知らなかった老人が、何の見返りもないのに、普通そこまでできるだろうか。私が佐々木さんの立場だったら、同じことはできない。
何も変わらないとか、意味がないというふうにも思わない。
佐々木さんが必死になって見つけた道だ。
きっと意味があるんだろうと思う。
私も協力したいと、心から思った。
私の言葉を聞いて、佐々木さんは困ったような、不思議そうな顔で、あははと笑った。
急に大きな声を出して、どうしていいのかわからなくなって、私も釣られるようにしてあははと笑った。
そうやって笑ってからはじめて、そういえば自分はしばらくの間こうやって笑っていなかったんだな、ということに気づいた。二人で笑ううちに、心の中にあったもやもやが、胸の奥の重みが、少しずつ晴れていく気がした。