#2
それから数日後、マンションに大勢の人々が出入りするようになった。私の部屋と同じ階で、何かをやっている。なかには警察官もいたような気がする。
――また空き巣に入られたのだろうか。
しかし、それにしては物々しい。
野次馬のように思われそうだと声をかけられず、部屋のなかで様子をうかがっているうちに騒ぎは収まってしまった。何かがあったらしいと気にはなりながらも、授業のために、私はマンションをあとにすることになった。
***
佐々木さんのところへ遊びに行ったとき、その話をすると、
「アユミちゃん。君、何も知らないんだね」
と驚かれてしまった。
「子供がね、死んでたんだって。それで大騒ぎ。マンションの人、みんな知ってるよ。ああ、大学に行ってたから知らなかったのかな」
「そんなことがあったんですか?」
「うん。マンションの部屋の中で死体が見つかったんだって」
「へえ……」
「それがひどいんだ。事故とかじゃなくて餓死らしい。お母さんが旅行に出かけて、ご飯とかなにも作ってなくて、それで食べるものがなくなって死んじゃったって」
「えっ……」
と私は言葉を失った。
そんなことが起きていたとは全然知らなかった。
たまにテレビのニュースで、似たような事件が報じられる。いまの時代に餓死するなんてことがあるんだ、とテレビを見ながら思っていたけれど、それが自分の身近なところで起きたというのはショックだった。
「……言ってくれれば、パンでもクッキーでも何でもあげるのに」
自分の部屋のキッチンを思い浮かべながら言った。料理ができないから、レトルト食品や冷凍食品が大量に保存されている。子供ひとりぶんの食事なら、いつでも用意できる。
「うん。でもお母さんが、家から出るなって言いつけてたらしい。だから言われたとおり家から出ないで、誰にも言えなくて、ご飯も食べられなくって……ひどいよね。いつもそうやってご飯食べさせないから、がりがりにやせていたんだって」
佐々木さんは辛そうな表情をした。丸い顔が、いつもとは違う形に歪む。
「同じ階にそんな子が住んでるなんて知らなかった。私は年だけとって、でもこういうときに役に立てないんだ……。年長者の役目だよね、こういうことの相談に乗って、面倒をみてあげるの。
私、ちょっと頭が悪いから、会社でもぜんぜん頼りにされなかった。会社を辞めてもこういうこと、頼ってもらえないんだなあと思うと悲しくなってくる」
そう言って、佐々木さんが落ち込んでしまったので、あわててフォローをする。
子供のことを知らなかったのは、私も同じだった。
***
その日の夜、私は気づいてしまった。
子供だ。
死んだ子供というのは、あの部屋の「まさはる」という子供ではないだろうか。
玄関のドアを開けようとしていた、変わった女性。あの人は、子供の悲鳴が聞こえたと言っていた。
それに、あの手紙。「えみこおかあさん、はやくかえってきてね。まさはる」。あれは家から出るなと言われた子供が、必死に送ったSOSだったのかもしれない。
なのに、私は空耳だとか言って、そのSOSを無視してしまったのだ。あのとき女性の話をちゃんと聞いて助けにいけば、子供は死ななくてすんだのかもしれない。
――間に合ったはずなのに。私が余計なことをしなければ……。
子供が亡くなったのは私のせいだ。
そう思うと胸が苦しくなってきて、その日の夜は一睡もできなかった。
***
翌朝、私は佐々木さんのところへ向かった。
「どうしよう……。佐々木さん」
「アユミちゃん? 何かあったの? こんな朝早くから」
「それが、それが……」
「落ち着いて。どうしたの? 顔色悪いよ?」
私はドアの前で会った女性のこと、「まさはる」という子供が書いた手紙のこと、子供の悲鳴が聞こえたと言っていたこと――あの日起きたことをひととおり説明した。
「……うーん」
佐々木さんは私の話を聞いて考え込んでしまった。
しばらくして、佐々木さんは、ポツリと言った。
「すごく言いにくいんだけど、たぶん、死んだのはその子だと思う」
「やっぱり、そうですよね」
――あのとき、私が余計なことをしたせいで……。
眩暈がした。目の前の景色がぐらぐらと揺れて、そのまま倒れてしまいそうだった。息が詰まり、涙がこぼれそうになる。
「死んだ子は南さんの家の子供だっていう話だから。でも、そのとき、アユミちゃんに何かできたっていうことはないんじゃないかな……」
「……どういうことですか?」
「アユミちゃんが鍵を忘れて締め出されて、私のところにクッキーを持ってきたのは、月曜日だから……3日前でしょ?」
「4日前です」
「うん、あ、そうか。でもまさはるくんが死んだのは1週間以上前らしいよ」
「そうなんですか」
「だから、そのときアユミちゃんにできたことはなかったんだと思うよ」
「……そうですね」
良かった、と思うのはおかしいかもしれない。子供が一人亡くなっているのだから。でも、少しは肩の荷が下りた気がした。
「あれ……。でも、ちょっとおかしくないですか?」
「うん? なにが?」
「子供が亡くなったのが1週間以上前なら、月曜日に悲鳴を上げたのは誰なんです? 月曜日って4日前ですよね? 手紙を出したのも誰なんでしょう」
佐々木さんはぽかんと口をあけて、首をひねっていた。そして、
「うーん、えーと……わからないなあ」
と答えた。
「やっぱり、悲鳴が聞こえたときは、まだ生きていたのかもしれないですね……」
そう考えて、また呼吸が苦しくなる。
「どうなんだろう……。うーん、気になるね……」
「そうですね……」
わけがわからなくて、佐々木さんと見つめあうしかなかった。
死んだはずの子供から届いた、届くはずのない手紙。そして、聞こえるはずのない悲鳴。
なぜそんなことが起きたのか、納得のいく説明は思いつかない。
――やっぱり生きていて、それで、私のせいで……。
不安が押し寄せてきて、それを振り払うために私は大きく深呼吸をした。ほかのことを考えようとする。
そうすると、私の頭に浮かんでくるのは「あのひと」の顔だった。
――そうだ、あのひとなら。
大学の先輩。なんでもお見通しのような表情で、ずけずけとひとの心に踏み込んで、いつでも平然としている「あのひと」なら、きっと何が起きたのかを説明できるのだろう。
――でも、あのひとにどうやって相談すればいいんだろう。
素直にあのひとを頼るなんてことは、とてもできそうにない。
「アユミちゃん?」
声をかけられて、我にかえった。ずいぶん考えこんでしまっていたらしい。
「大丈夫? 大学休んだほうがいいんじゃない? 無理しないほうがいいよ」
佐々木さんが私の顔をのぞきこむ。
「いえ……大丈夫です」
と答えてから、思いつく。佐々木さんと一緒になら、あのひとに頼むことができるかもしれない。
「佐々木さん、お願いがあるんです――」
と事情を説明する。あのひととのことは、以前話をしていたから、私が直接頼みたくないということも、すぐにわかってもらえた。
「うん。私でよければ協力するよ。一緒にそのひとに話を聞けばいいんだね。それくらい、いくらでもするよ。
どういうことなのか、私も気になってるし」
佐々木さんが私の顔を見つめながら言う。
そして、
「アユミちゃんに責任はないんだからね。心配しなくていいんだよ」
と続けた。
そういえば、昨日は眠れていない。そのせいか顔色が悪いとも言われた。そんな私のことを心配してくれているんだな、と思った。
***
待ち合わせの場所は、「あのひと」の指定した喫茶店になった。ログハウス風の落ち着いた雰囲気のお店だ。
植木と少し奥まったところにある立地のせいで、離れたところからだと店があることにも気づけないと思う。実際、大学への通り道にあるのに、私はこの喫茶店のことを知らなかった。
――こんなところ、知っているんだ。でも、あのひとの雰囲気には合っているかもしれない。
ログハウス風の店内の奥で、落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる姿が目に浮かぶようだった。
そうして喫茶店を眺めていると、佐々木さんが、
「ここで待ち合わせだね。入っちゃおう」
と言った。
うなずいて、店に入った私の目に飛び込んできたのは、たったいま想像したとおりの櫻井先輩の姿だった。先についていたらしい。店の奥でコーヒーを傾けている。
私に気づいても、ほとんど反応しない。軽く眉をあげるだけだ。
ウェイターに案内されて、私と佐々木さんは席についた。
テーブルの向こうに座った櫻井先輩が私を見つめて唇の端をあげる。面白がっているような表情だ。
「やあ、こんにちは。珍しいこともあったものだね。君から呼び出されるなんて日がくるとは思わなかった」
と言う。これでもう、私はこのひとと話す気分になれなくなってしまった。
それから、佐々木さんに向かって、軽く頭を下げている。
佐々木さんが慌てて、
「ああ、あの私、はじめまして、佐々木です。アユミちゃんと同じマンションに住んでいて、あのう、櫻井さんですよね」
と言った。
「はい、はじめまして」
と今度はしっかり頭を下げていた。
「ちょっと聞いていただきたい話があって、私たちの住んでるマンションで起きた事件なんですけど、不思議なことが起きていて、それで、アユミちゃんの先輩にすごく頭のいいひとがいるって聞いたのを思い出して、私がアユミちゃんにお願いして呼び出してもらったんです」
「なるほど。どんな話なんでしょう」
佐々木さんの説明を、櫻井先輩はゆっくりうなずきながら聞いていた。特に質問を挟むこともない。しゃべっているのは佐々木さんだけだ。
テーブルに並べられたコーヒーを飲むわけでもなく、ぼんやりとカップを眺めながら、私も耳をかたむけていた。
「――というわけなんです」
気がつくと、いつのまにか、話は終わっていたらしい。
櫻井先輩が、
「なるほどね」
とつぶやいて私のほうを向いた。
「それで、子供を助けられたはずなんじゃないかって、責任を感じてるんだ?」
佐々木さんは不思議なことがあったということを説明しただけで、私が子供のことを気にしているという話はしていない。
――でも、ああ、そうか。
このひとにかかったら、こうなることはわかっていたはずだ。話の流れから、誰にでも推測できることなのかもしれない。きっと、私が自分で頼みたくないから、佐々木さんに代わりに説明してもらったことも見抜いているのだろう。
――ごまかそうとしても、無駄なんだ。
そう思って、
「……はい」
とうなずいた。
「うん、安心していいよ。それに関しては心配ない。その子供はそのときには亡くなってたんだから」
「でも、悲鳴が……」
「それは、うーんとね」
ちょっと考えるように視線を遠くに向けて、
「亡くなったはずの子供が手紙をよこした。悲鳴も聞こえた。これは不思議なことだ。そんなことあるわけがない。だから、本当は子供が生きていたんじゃないかと思う。こういうことだね」
と櫻井先輩が言った。その内容は私の思っていたこととほとんど同じだったから、大きくうなずいた。
「偶然とそれぞれの事情が重なって、不思議なことが起きているように見えているだけだよ。そのときに子供が亡くなっていたのは間違いない。警察だって、そこはきちんと調べただろうね」
「でも、何日かのことだから、ずれがあるのかもしれないし……」
「うん、亡くなった遺体の状態は、環境によって大きく変わるからね。もちろんそういうこともある。
ただ、今年は冷夏で気温が低い。亡くなった子供の部屋がどういう状況なのかわからないけれど、腐敗の進行が遅かったんだろう。君も臭いに気づかなかったようだし」
と私を見る。
大学に行っていたからかもしれないし、イグアナを飼っているからかもしれない。だが臭いには気づかなかった。
うなずくと、
「完全に腐乱してはいなかったんだろうね」
と言う。
「それならそこまで死亡推定時刻がずれることもないだろう。そもそも、子供が生きていたなら、かえって説明がつかなくなるからね」
「えっ」
と佐々木さんが声を上げた。
「じゃあ、もうどういうことなのか全部わかっているんですか?」
「まさか」
櫻井先生が首を振る。
「情報がこれだけじゃあわからないですよ。こういうことなんじゃないのかな、と思っていることはありますが。そうだな……もう一人呼んでもいいですか? それではっきりしますから」
と確認を取って、櫻井先輩はスマートフォンを取り出した。
呼び出した相手が来るまで少し時間がかかるらしい。櫻井先輩がサンドウィッチを頼んで、私ははコーヒーのおかわりをした。
待っている間に佐々木さんに水を向けられて、私の大学の話になった。
私が通っているのは私立の大学で、生徒の人数が多い。特に文学部は人数が多くて、そのせいか、最初から細かく専攻科目が分かれていない。一年生の間に浅く広くいろいろな講義を受けて、二年生になったときに自分の進むコースを選ぶ仕組みだ。
「君はどの方面に進むの?」
と櫻井先輩が言う。
同じ大学でも、ややこしいことに学部によってシステムが違う。二年に進級するときにコースを選ぶのは、いくつかの学部だけだ。だから、ほかの学部のひとからすると、こうした話も珍しいらしい。あるいは私に気を使って聞いてくれている――なんてことをこのひとがするのだろうか。
「社会学か、人類学を選ぼうと思ってるんですけど、どちらも人気があるんです」
「うんうん」
佐々木さんは大学に興味があるみたいだった。さきほどから、私の話を熱心に聞いている。
「二年生になるときに成績のいい順に振り分けられるから、成績が悪いと第二希望にまわされるんです。そこでも順番に振り分けられて、第三希望にまわされることもあります」
「へえ」
「運が悪いと、一番人気のない東洋哲学とかのコースになってしまうんです」
「東洋哲学ね。面白そうじゃない」
櫻井先輩が言う。私はうなずいた。
「そうなんですけど、仏教の本とかを読まないといけないから、サンスクリット語を覚えないといけないんです。第二外国語とは別に、サンスクリット語が必須なんです。みんなそれが嫌で、人気がないんです。教授も気難しい人が多いらしくて、よっぽど好きな人じゃないと続けられないっていう話です」
「そうなんだ」
「いまの私の成績だと、社会学と人類学はちょっと厳しくて、無理して希望を出して、運が悪かったら東洋哲学とかにまわされる可能性があるので……」
「難しいんだねえ。でも、羨ましいな」
と佐々木さんが言った。
「私も大学行きたかった。でも無理だった。頭が悪いから」
朗らかな顔をしてそんなことを言うので、なんと答えればいいのかわからなかった。
話に夢中になっていて気づかなかったが、いつのまにか櫻井先輩が注文したサンドウィッチがテーブルに届いていた。手をつける様子はない。
櫻井先輩は、背が高くてほっそりとしている。切れ長の鋭い目つき以外は、テレビの囲碁講座にでてきても違和感のないたたずまいだ。それに声が低くて、落ち着いた物腰。なんとなく、ご飯をたくさん食べるタイプには見えなかった。
注文はしたけど、やっぱりおなかが減っていなかったのかもしれない、と思っていると、櫻井先輩が手を上げた。
「おお、こっちだよ」
視線の先を見ると、異様に体格のいい男が店に入ってきたところだった。縦と横の幅が、ほとんど同じくらいだ。太っているというわけではなく、全身筋肉に覆われて横幅が広がっているように見えた。首周りだけでも、私の腰より太そうだった。
このプロレスラーのような男はスーツを着ていて、これがまた似合っていなかった。無理やりスーツの中に体を押し込めているといった印象だった。
櫻井先輩の隣に座ると、
「いきなり呼び出しやがって。何の用だ」
と言いながら、がつがつサンドイッチを食べ始めた。
「こいつは沼田。僕の幼馴染で、刑事をやっているんだ」
「ああ、沼田だ」
私たちも櫻井先輩に紹介されて、
「佐々木です」
「今井です」
と順番に挨拶をした。
沼田刑事は軽くうなずいて、
「それで?」
と櫻井先輩をにらみつけた。
「最近、マンションで子供が餓死した事件、知ってるかな?」
先輩が言うと、
「ああ、知ってる。かわいそうだよな……」
沼田刑事は眉をひそめてうつむいた。動物園にいるゴリラは、ちょうどこのような表情をしている。そういえば、体格もゴリラだ。
「その事件について、ちょっと確認したいことがあるんだけど」
「なんだ? うちの管轄だから、ある程度のことはわかるぞ」
「まず、死亡日時は間違いないかな?」
「そりゃあ、多少の幅はあるぞ」
「その子供が月曜日に生きていたってことは?」
「きびしいな。さすがにそこまでの幅はないだろう。数ヶ月前の遺体ならともかく、1週間くらいしかたっていないからな」
「うん、そう。それから、死体を移動させたような形跡はなかった?」
沼田刑事がちょっと驚いた顔をした。
「……あった。だが死亡後かなり時間がたってから移動させたらしい。頭と背中に衝撃を受けたような痕跡も残っていたが、これも時間がたってからだ」
「もうひとつ、子供のいた部屋の玄関のドアはオートロックだよね」
「そうだが?」
何でそんなあたりまえのことを聞くのか、という顔で沼田刑事が答える。
「えっ? そうなんですか?」
私と佐々木さんは顔を見合わせた。
「なんだ? 何かおかしいのか?」
「いや、だって……」
「あそこのマンションは入り口のエントランスだけオートロックなんだ。部屋の玄関は普通のドア。だから、その部屋のドアのオートロックはあとから取り付けたものなんだろうね」
「ふーん? そうなのか」
櫻井先輩の質問は終わったようだ。どういうことなのか教えてもらおうと口を開く前に、先輩は立ち上がった。
「じゃあ、だいたいわかったから、行きましょうか」
「行くってどこにですか?」
「もちろん、犯人を捕まえにだよ」
櫻井先輩はそう言って、にこっと笑った。