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#1

 私の住んでいるマンションは、一階の入り口がオートロック式だ。普段はドアが閉まっている。中に入るには、パネルに鍵を差し込んで、エントランスの自動ドアを開けなければならない。


 マンションに入るたびにいちいち鍵を差し込むのは、手間がかかる。しかし、これはセキュリティーを高めるためには仕方のないことだと納得している。

 同時に、私のような人間にとっては、少し困ることでもある。


 たとえば大学へ行くときには、当然鍵を持ち歩く。なので、これは問題はない。だが、ちょっとゴミを捨てに外に出るようなとき、鍵を忘れて締め出されてしまう。

 このマンションに住むようになってから、これは何度もやってしまっている。気をつけないといけないということもわかっている。なのに、いざ入ろうとすると鍵を持っていないのだ。


 ――ちゃんと持っていたはずなのに……。

 

 と肩を落として、開かないドアを見つめる。

 自分の記憶力にあきれるしかない。


 ひとり暮らしに慣れていないせいなのか、田舎に住んでいたからなのか、私には外出時には鍵を掛けて、いつでも持ち歩くという習慣が身についていなかったようだった。


 ――うそでしょ。また?


 心のなかでつぶやいて、呆然とエントランスを眺める。頻繁にではないが、忘れた頃に、それが繰り返されてしまう。


 ちなみに、今日もバッグの中には鍵が入っていなかった。授業に遅れそうで慌てて出たときに、忘れてしまったらしい。

 こういうとき、私は隣の部屋の佐々木さんをインターホンで呼び出す。



 ***



 佐々木さんは同じフロアに住む、70過ぎのおじいさんだ。白髪まじりで、会うといつもニコニコと笑っている。笑うと丸い顔がしわくちゃになって、全体がでこぼこになって、前衛的なオブジェのようになってしまう。

 しかし、それを気にする様子もなく、私を見かけると大喜びで話しかけてくる。


 最初に会ったときから、佐々木さんにはなんだか妙に気に入られていた。どうしてなのか聞いてみると、私が孫のように思えるのだという。


「私はね、結婚もしなくてね、家族がいなくてね、それでいい、そのほうが楽だって思っていたんだ。だけど、仕事を退職してからは、ずっと後悔してた。どうしてひとりで生きていけると思っていたんだろうって。

 マンションの部屋でね、朝起きると、ひとりきりなんだ。退職したから、もう会社の同僚もいない。これから夜眠るまで、ずっとひとりきりなんだと思うとね、からだがこわばって動かない。そうやって布団のなかでじっとしていても、誰も声をかけてくれない。ひとりでただ夜になるのを待つだけなんだ。

 これはね、寂しいよ。本当に寂しい。ああ、なんで目が覚めちゃったんだろうって思う。起きなければよかったのに。眠ったまま死んでいたら、そしたらこんな思いをしなくてすむのにって」


 こう言われたときはぎょっとした。あとからわかったことだが、佐々木さんは話をおおげさにしてしまう癖がある。


「それでね、ひとりでいるとね、想いだす女性がいるんだ。私にも、結婚のチャンスはあったんだよ。結局うまくいかなかったけど。昔そういうひとはいた。

 あのひとと結婚していたら、どんな人生だったんだろうって、いまでも思う。あ、時間ある? ちょっと写真あるから、見て、これ」


 そう言って、佐々木さんが差し出した色あせた写真には女性が映っていた。


「このひと。私が結婚するかもしれなかった女性。この写真一枚きり。アユミちゃんに似てるでしょう?」


 たしかに、写真の女性は私に似ていた。目元がそっくりだ。


「だからね、はじめてアユミちゃんを見たとき、舞い上がっちゃって。私に孫がいたんだって。あのひとと、結婚して生まれた子供の子供。

 もしもそんな人生があったらって、何度も何度も妄想してたから、現実と妄想の区別がつかなくなっちゃった。あはは、私、馬鹿なおじいさんでしょう」


「いえ、そんなこと……」


「変なおじいさんに話しかけられて、困っちゃうよね」


 と佐々木さんは笑っていた。


 私としては、早急にマンションのなかに知り合いを作る必要があったので、こうして佐々木さんと仲良くなれたのは都合がよかった。70過ぎのおじいさんだから当然なのだけれど、佐々木さんからはいやらしい視線を感じることも危険を感じることもなかった。本当にただの気のいいおじいさんという印象で、信用してもいいように思えた。


 私が佐々木さんと話すようになったのは、ちょうどあのキグルミの件のすぐ後だった。落ち込んでいた私の気分は、この佐々木さんのおかげでずいぶん救われたように思う。このおじいさんは周囲をなごませる雰囲気を持っている。

 なにより、佐々木さんのおかげで、バッグのなかに鍵が見つからなくて、エントランスを通りかかる住民をひたすら待ったり、それでもどうしようもなくて、大学の友人であるチカちゃんの部屋に転がり込むはめにならなくて済むのはありがたかった。チカちゃんは気にしていないようだったけれど、何度も繰り返すのはさすがに気まずい。


 それと、もうひとつ、佐々木さんと私には共通点があった。

 囲碁だ。

 私がサークルに入ったのとちょうど同じ頃、佐々木さんは趣味を作ろうと囲碁を始めたのだという。


 時間があるときに佐々木さんの家に行って、ふたりで囲碁の勉強をしたこともある。

 お互いに初心者だから、どちらが勝ったのかすらわからないようなありさまだったが、しばらくたつと私が勝ちこすようになった。

 すると佐々木さんは、


「ああ、やっぱり若いと覚えるのがはやいんだねえ」


 と悔しがるでもなく、ニコニコとしていた。


 私としてはある程度囲碁が強くなって、「あのひと」の鼻をあかしてやりたいという目標もあったので、手を抜くわけにはいかなかった。すぐに佐々木さんは相手にならなくなり、勉強会を開くこともなくなったのだけれど、それでもたまに囲碁を打つことはある。お茶を飲みに行ったり、近所づきあいは続いていたし、私が鍵を忘れることも続いていた。



 ***



「佐々木さん、佐々木さん。また鍵を忘れて締め出されてしまいました」


 私はインターホンに向かって、そう言った。


「あはは、またやっちゃったね」


 佐々木さんの笑い声がして、エントランスの自動ドアが開く。

 外部からの訪問客のために、マンションの部屋にはオートロックの解除ボタンが備え付けられている。それを押してくれたようだった。


「ありがとうございます」


 と声をかけて、私はドアに駆け込んだ。自動ドアはすぐ閉まるから、急いで入らなければならない。


 自分の部屋に戻ると、私はキッチンのお菓子の山からクッキーをいくつかバッグに入れて、佐々木さんのところへ向かった。マンションに入れてもらったお礼だ。

 私がクッキーを渡してお礼を言うと、佐々木さんは難しい顔になって、


「そんなふうに気を使わなくていいんだよ」


 と言った。



 佐々木さんはときどき、ちょっと頑固になる。


「私は年上なんだから」


 とか、


「アユミちゃんはまだ子供なんだよ。私の半分も生きていないじゃない」


 とか言って、譲ろうとしなくなる。



 威張り散らすわけでもないのに、自分が年上だということだけにはやけにこだわる佐々木さんの考え方は、よくわからない。でも、そういうときは佐々木さんに話を合わせるようにしていた。

 子供扱いされて腹をたてるような年齢でもないし、特別に否定するようなことでもない。


 ――どうにかして私を孫扱いにしたいのだろう。


 そう考えて、好きにしてもらうことにしていた。 


 ただ、今回のクッキーはどうしても受け取ってもらいたかった。なにしろ次があるかもしれない。今後二度と鍵を忘れないという自信はない。たからお礼をしておいたほうが、また頼むときに気が楽だ。


 たくさんあるので、どうせ一人では食べきれない。むしろ食べてもらわないと困る。私が太ってもいいのか、と押し問答を繰り返して、ようやく、


「じゃあもらっちゃうね」


 と受け取ってもらえた。

 そして、


「でも本当に気にしなくていいんだからね。何かあったら、すぐに私に言ってくれればいいんだからね。

 あっ、そうだ。どうせ持ってくるんだったら、アユミちゃんの手作りを持ってきてよ」


 と笑っていた。

 私が料理下手だということを佐々木さんは知らないから、そんなことを言う。もし本当に作ってきたらどんな顔をされるのだろうかと考えて、少し気分が暗くなった。



   ***



「でも、オートロックって不便だよねえ」


 と佐々木さんが言った。


 私はいま、クッキーを渡した後引き止められて、佐々木さんの部屋の玄関で立ち話をしている。佐々木さんは話好きだから、顔を合わせると大体こういう流れになる。


「鍵がないと締め出されますからね。今日の私みたいに……」


「うん、それもあるし、防犯にはあまり役に立ってないみたい」


「えっ、そうなんですか?」


 と私が尋ねると、佐々木さんは驚いた顔をした。


「聞いてないの? このマンション、何件か空き巣が入ったらしいよ」


「へえ、そうなんですか」


 これは知らなかった。佐々木さんはどこからか、こんな情報を仕入れてくる。


「うん。どうやってるのかわからないけど、オートロック、空き巣は入れちゃうんだ」


「意外ですね。オートロックだから、そういうのは安心だと思ってました」


 エントランスの中に入るには、いちいち鍵をパネルに差し込まなければいけない。いちおう、鍵を忘れたときは、私のようにマンション内の住民に開けてもらうという方法もある。

 

 ――どちらにしろ面倒くさいけど、部外者が入れないので、防犯という点では安心だ。


 私はそう考えていた。


「それがいけないんだと思う。マンションの人たち、そういう油断があるから、自宅の鍵をかけ忘れたりして狙われるんだと思う。

 空き巣が入ったのはそういう部屋だったらしいよ。だから、アユミちゃんも戸締りは気をつけたほうがいい。女の子なんだからね。何かあったら大変だ」


「はい、そうします」


 とうなずいた。

 そして、


 ――そういえば……。


 と思った。

 さっき部屋を出るときにも鍵をかけていなかった。習慣になっていないから、どうしても忘れてしまう。


 警戒心が足りないということは、昔から何度も言われたことがある。実際にそうなのだろう。だが、このときも、マンションのなかにいるなら鍵はかけなくてもいいかと考えて、佐々木さんとの話を続けていた。



 ***



 しばらくして佐々木さんの部屋を出ると、廊下の奥で女性が騒いでいるのを見つけた。

 30歳くらいだろうか。ゆったりとしたセーターにジーンズ姿。顔色は悪く、不健康そうな印象の女性だった。


「あ、あ、開かない? 開かないわよ?」


 と言いながらドアノブをガチャガチャとひねっている。大きく口を開いて、本当に驚いている表情だ。


 その様子を見て、


 ――ああ、オートロックに締め出されてしまったんだ。さっきの私と同じだ、やっぱり私だけじゃないんだ。


 と思いかけて、いや待てそんなわけないと首を振った。

 オートロックになっているのは、マンションのエントランスだけで、部屋の玄関のドアは違うはずだ。


 現に私は、自分の部屋の鍵を持たずに佐々木さんのところに行っている。部屋のドアもオートロックなら、さすがに私もこんなことはしない。帰れなくなってしまう。


 ――それなら、この女性はいったいなんで騒いでいるのだろう。


「どうかしたんですか?」


 と声をかけると、女性は若干パニックになっている様子で、


「あの、これ、手紙」


 片言になりながら、手に持った画用紙を私に見せてきた。


 クレヨンで人間らしきものが描かれている。横には「えみこおかあさん、はやくかえってきてね。まさはる」とひらがなが並んでいた。


 それから女性はドアを指差した。そこにはローマ字で、「MINAMIEMIKO・MASAHARU」と書かれたプレートが吊り下げられている。


「はい。みなみ……えみこ……まさはる……。ここの子供が描いた絵ですか?」


「うん? そう、これ、あの、さっきうちのポストに届いて」


「あれ、ここの部屋の人じゃないんですか。知り合いですか?」


 と聞くと、「うんん」と首を振る。知り合いではないようだ。


「へえ? じゃあ、いたずらですかね」


「いや、違う!」


 と女性が首を振る。なんだか必死な表情だ。手紙が届いたくらいで、ここまで必死になる理由がわからない。子供のやることだ。意味もなく手紙をポストに入れることもあるだろう。


「違う。……聞こえたの」


「聞こえた?」


「そう、子供の悲鳴、ここから」


「えっ」

 

 と耳を澄ませた。

 何も聞こえない。

 私もドアのノブを回してみたが、鍵がかかっている。開かない。ノックして声をかけても何の反応もなかった。


「……開きませんね」


「そう、開かないの」


「あっ、待ってください。私、そこの部屋で」


 と言いながら佐々木さんの部屋を指差した。


「いま、そこの部屋の玄関で立ち話をしてたんですよ。でも、子供の悲鳴とか、聞こえませんでしたよ」


 女性はそれを聞いてちょっとあっけにとられたような顔になった。視線がきょろきょろと空中をさまよっている。

 それから、


「ええ? ……えっと……空耳?」


 と首をかしげた。


 本人はふざけているつもりはないのだろうけど、その様子がおかしかったので笑ってしまった。


「たぶんそうでしょう。ほら……何も聞こえないですよ」


 ドアの向こうは相変わらず静かだった。人の気配もしない。


 女性はしばらく考え込んで、それからうんうんと何度も頷いて、


「……そうかも。……ありがとう」


 と帰っていった。


 女性はどうやら同じ階の住人らしい。ほかの階に住んでいるならエレベーターへ向かうはずだが、反対のほうへ歩いていった。

 ちょっと変わった人だな、と思いながら、私はその女性の背中を見送った。



   ***



 少し雑誌を眺めてから、そろそろ大学に向かおうかと思い、準備をする。この日の授業はお昼からで、ゆっくりしていても遅れるということはない。

 廊下に出ると、女性がさきほどと同じように、ドアのノブをガチャガチャとやっていた。

 私に気づき、ばつの悪そうな表情になる。なんとなく顔を見合わせて、あはは、と笑いあった。


 やがてドアを開けようとするのをあきらめて、女性は帰っていった。途中、どうしても気になるのか、ドアのほうを何度も振り返っていた。


 やっぱり変わった人のようだった。

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