12/09 Thu.-1
□
雨は、すっかりあがっていた。ついでに―― 朝食は、ご飯だった。
それを目の当たりにすると、カイトは朝っぱらからひどく落ち着かない気分にさせられた。
メイはいつにも増して上機嫌で、全身のオーラで彼にお礼を言っている。
ありがとうございます、と。
カイトは、走って逃げたい衝動を押さえ込まなければならなかった。
女の反応一つに振り回されている自分に苛立つが、どうしようもなかった。
それで、余計にまた自分を苛立たせるのだ。
悪循環もいいところである。
幸いだったのは、わざわざ言葉でお礼を言われなかったことだ。
そんなことをされようものなら、カイトは本当に針のむしろとなったことだろう。
昨日、思ったよりシュウが帰ってくるのが早かったから。
ただそれだけなのだ。
タバコも切らしていた。
ついでに過ぎなかったのだ。
と、自分に言い訳はするものの、夕食の後に部屋に戻ったカイトの頭を占めていたのは、米とメイの関係ばかりで。
要するに。
米を買うのが遅くなればなるほど、メイがパンを買いに出かけなければならない。
それもまた、イヤだったのである。
だから、シュウが帰ってきたのと交代で車を出したのだ。
雨はザーザーと降っていた。
米なんか買ったことはなかったが、ディスカウントの酒屋で見たような記憶があったので行ってみると、まだ店は開いていて、予想通り米もあった。
どの銘柄がいいかは分からない。
ただ、コシヒカリとかいう名前くらいは、カイトだって知っているのだ。
それを一つ持つ。
なるほど、5キロだ。
これを抱えて帰ってくるつもりだったのである。
その憎い重みを持って、レジに行きかけて戻った。
5キロの米が、一体何日分になるのか、全然見当がつかなかったのだ。
すぐに切れるようであれば、メイが今度は黙って米を買いに出るだろうことくらい、カイトにだって予想がつくのである。
どさどさっ。
3つ。
カイトは――15キロという重さを具体的に知った。
※
帰って来て、米を調理場に放り込む。
こうしておけば、いやでもメイが気づくだろうと思ったのである。
本当は気づかれたくなかった。
どう見ても、カイトが買って来たことがバレるだろうからだ。
しかし、見つけてもらわなければ、この米の意味がない。
不承不承、諦めて部屋に戻ろうとした。
が。
まさか自分の部屋の前に、メイが立っているとは思わなかった。
彼女の存在を確認した瞬間、ギクリとする。
悪さをしてきた子供のような気分だった。
彼が、米を買いにいったことを、知られたような気がした。
しかし、彼女が持っていたのはお茶だったのだ。
お茶しませんか?――Shall We Tea? と来たものだ。
カイトの習慣に、そんなものはなかった。
お茶を飲みたければ、勝手に各自で飲むような生活ばかりしていたせいで、誰かとお茶の時間を共有するという感覚は不慣れだったのだ。
こういうのが得意なのは、ソウマ夫婦だろう。
しかし、彼らはここにはいない。
わざわざ彼女がお茶をいれてくれたのである。
二つのマグカップがトレイに乗っているのを見た時、心が騒いだ。
ドアを開けて入る。
心は戸惑ったままだった。
米のことがバレていないのはいいことではあったが、まだ彼女の意図が掴めなかったのだ。
何か大事な話でもあるのでは。
イヤな予感が掠める。
そういう考えになると、すぐにメイが『出ていく』という言葉がよぎるのだ。
しかし、彼の手でドアを閉ざして、二人ソファに座る時になると、いつもの夕食のような気分になった。
メイが恐ろしいことを切り出す様子はない。
本当に、ただのお茶にを誘ったのだ。
その事実は、カイトの心の中に風を生んで、波を立たせた。
彼女にとっては何気ないことであったとしても、彼にとっては特別な時間のように思えたのだ。
ただ、カイトは失敗をしてしまった。
落ち着かない気持ちが焦って、あっという間にコーヒーを飲み干してしまったのである。
はっと気づいた時には、もうマグカップは空だ。
それをトレイに戻すと、今度はメイがあわてて自分の分を飲み干すではないか。
食事の時と違うのは、彼女はここに何の用もなく長居が出来ないことである。
どう見ても急いで立ち上がるメイを見た時、カイトはふてくされてしまった。
せっかく向こうからやってきてくれたのに、それを自分の手で台無しにしてしまったのだ。
そんなに急いで逃げなくてもいいと、言えないカイトは、向けられた背中をじっと見つめてしまった。
フェイントをかけて振り返ったのに驚いて、ぱっと視線をそらす。
「おやすみなさい…」
また、慣れない言葉を投げられる。
ここは、『おやすみ』と返すものなのだと頭では分かっていても、彼の口は動かないのである。
彼女は行ってしまった。
それが、昨夜の出来事。
※
自分が買って来た米であろうとも、昨日までの米の味との違いを述べよ、という問題が出たら、カイトはきっと赤点だろう。
結局、どんな米も彼にとっては似たようなものだった。
強いて言うなら、誰が用意したものか、ということか。
「おいしいですね…」
にこにこ。
普通なら、彼女は自分の作った食事をわざわざ言葉で絶賛したりはしなかった。
暗に、彼の買ってきた米についてのお礼の代わりなのだろう。
いちいち、蒸し返さないで欲しかったが。
むすっとしたまま食事を済ませ、カイトが立ち上がると、彼女が食事途中でもやってくる。
白い指がネクタイを締めて、『いってらっしゃい』と言う。
それから逃げるように、カイトはダイニングを出ようとしたのだが、ふと足を止めた。
頭の中を、ぐるぐると巡っている言葉を何とか捕まえようとしたのである。
「どうかしました?」
メイが、不思議そうな声をかけてきて、その声で全部がすっ飛んでしまいそうになった。
ぐっと、それをこらえて。
ついでに、プライドというヤツにさるぐつわを噛まして、倉庫の中にたたき込んで。
そうして、ようやく言った。
「ごっそさん…」
ぼそっと。
しかし、彼女の方を振り返れなかった。
どんな表情をしているのか、確かめたくもなかったのだ。
そんなことをしようものなら、さるぐつわを食いちぎって、猛犬のように吠え出すヤツがいるのを知っているからである。
そのまま、大股で肩をいからせてカイトはダイニングを出た。
でも、『行ってきます』――は、まだ言えなかった。