12/08 Wed.-3
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「うわぁ、ひでぇ降りだな…」
開発のスタッフの一人が、イヤそうな声を上げた。
キーボードを斜めに置いたまま入力していたカイトは、それにふっと指を止めた。
不吉な言葉だったからだ。
開発室は仕事の関係上、ほぼ一日中ブラインドが下ろされている。
太陽の光は、モニター作業には向かないのだ。
それから、一応産業スパイ防止のためでもあった。
そのブラインドを指で押し上げて、誰かが窓の外を見ている。
カイトが顎を向けると、外は土砂降りだった。
朝、メイにあんなことを言ったとはいえ、彼はやっぱりバイクなのだ。
レインジャケットは着てはきたものの、上半身を守るくらいしか能はない。
タバコを灰皿に押しつけながら、口元を歪めた。
いやなシミュレーションをしてしまったのだ。
土砂降りの中に帰れば、多分濡れネズミで帰りつくこと間違いナシだった。
そうすれば、またメイに心配をかけてしまう。
朝は、そこまで意識が及ばなかった。
しかし、帰らないワケにはいかない。
せめて帰る頃に小降りになっていればいいのだが。
そう思ったのに、空は彼の言うことなんか聞いてくれなかった。
※
「クソッ!」
おかげさまで、帰り着いた時は物凄い有様だった。
頭だけが、ヘルメットで妙に乾いてはいるものの、他の場所はもう大洪水である。
おまけに、冬の雨だ。
冷たさだけはピカイチである。
いっそ雪になった方がマシだった。
レインジャケットだけはそこで脱ぎ捨て、彼は濡れてずっしりと重くなった下半身を引き連れて家に入る。
「おかえりなさい!」
メイが、タオルを両手に走って来ていた。
予想通り、この雨で心配をかけていたのだろう。
まさか、タオルまで出てくるとは思っていなかったカイトは、半ば呆然としたままそれを受け取った。
「お風呂わかしてますから…早く入って来て下さい…でないと、カゼひいちゃいます」
心配でしょうがないという顔を、彼女は惜しげもなく見せる。
「風邪なんかひかねぇ…」
そんな顔をさせたくなくて言った言葉は、しかし全然通じていなかった。
「お願いですから、お風呂であったまってきてください…」
尚更、心配な表情になるだけなのだ。
ったく、この程度で風邪なんかひくか。
そう思いはしたけれども、カイトは彼女を置いて、ダンダンと階段を上っていった。
メイの様子からすれば、風呂に入って来るまできっとあの顔をやめないのだ。
背広だったものを脱ぎ捨てながら、風呂場を開けた。
彼女が言っていたように、少し熱いくらいに風呂は沸かされていて。
ザブンと沈むと、自分の身体が冷え切っていたことを思い知らされた。
一気に血が巡っていくために手足がジンジンと痺れて、熱い湯の中にいるにも関わらず、さっと腕に鳥肌が走った。
ふーっと、腹筋の内側からあふれ出す息を吐いて、カイトは濡れた手のひらで自分の顔に触れた。
メイが、ふっとよぎる。
毎日、彼女について、新しいことが起きるのだ。
こんな風に雨に降られてバイクで帰ったのは初めてで。
ある程度、シミュレーションできるようにはなっているものの、やはり本物を目の前にするとかなり違った印象がある。
大体、シミュレーションのメイは、ここまで彼を追いつめたりはしなかった。
こんなに、自分のプライドをねじ曲げて、折れている相手は他には誰もいない。
それをきっと、彼女は分かっていないだろう。
分かっているのは、昔からカイトを知っている忌々しい邪魔者たちである。
あの連中ときたら、イチイチ気に障る発言や態度をかましてくれるのだ。
ザブン、と風呂から上がる。
ちんたら頭を洗ったりする気はなかった。
彼女の言うように、身体はもうあったまったのだ。
カイトの風呂上がりを、おとなしく待っている女がいる。
一文の得にもならない、心配ということばかりが得意な女だ。
しかし、その一文にもならない女とやらを、カイトは地上のどの人間よりも好きになってしまったのである。
乱暴に身体を拭いて着替えると、彼は階下に向かった。
「あ…あったまりました?」
さっきまでの心配はどこに行ったのか。
入って来た彼ににっこり笑みを浮かべたメイは、そして、どう見ても身体を温めるような食事を用意していた。
湯気をあげる野菜のスープみたいなものを、ミネスト何とかと言って彼女が説明したが、聞いたことがあるようなないような。
そういえば、どこかのファーストフードで聞いたことがあるような名前か。
後は野菜炒めと―― 珍しくパンだった。
思わずそのバターロールを眺めてしまう。
メイが料理を担当するようになってから、初めてではないだろうか。
まあ、そんなに気にすることはないか、とカイトがパンをちぎりかけた時。
「すみません…お米切らしてしまって。今日、雨だったので…あの、明日にでも買って来ますね」
自分のヘマを恥ずかしそうに報告するメイだが、そんなものはヘマの内に入らなかった。
米でもパンでも、どっちでも構わないのだ。
ただ、最近は舌が米に慣らされてしまっていただけである。
パンをむしって口の中に放り込み、熱いスープで流し込みながら、しかし、カイトの脳裏に引っかかるものがあった。
それなら、このパンはどこから現れたのかと考えてしまったのだ。
まさか、パンの買い置きなんかが出来るはずもない。
近場にあるのは小さな個人商店くらいだ。
メイが、米が切れていることに気づき、そこからこのパンを買ってきたとするなら、この雨の中出かけた可能性が高い。
クソッ。
またカイトの知らないところで、彼女は動き回っているのだ。
その上、何と言ったか。
明日、米を買ってくるだと?
パンから手を離して顔を上げる。
メイは、自分の発言の意味にも気づかずに、食事を続けていた。
明日、晴れたとしよう。雨ならもっての他だが。
晴れたとしても、彼女が米を一人で買いに行くとしたら、大通りのスーパーとかまで出ないとダメだろう。
しかも、歩きで。
そうして5キロだか何キロだか分からないが、米の袋を抱えて帰ってくるというのだ。
ムカムカ。
カイトは、考えが進むごとに怒ってきた。
「米なんか、今度ハルコが来た時でいいだろ」
だから、その怒りの口調のままでそう言い放った。
「えっ?」
米の話題が続くとは思っていなかったらしく、驚いた彼女のスプーンがカチャンと音を立てた。
「え…でも、お米がないと…」
あたふたとしながらも、お米の価値を何とかカイトに告げようとする。
しかし、彼は米の価値などどうでもいいのだ。
「あの…お米…もしかして嫌いなんです?」
なのに、最後はかなり本気で心配している表情でそう聞いてくる。
もしそうなら、いままで自分がしてきたことが、カイトにかなりの拷問を強いてきたのだと考えてしまいそうな勢いで。
んな顔すんな!
何をどうしても、彼女にそんな顔をさせるばかりだ。
彼の言葉は、メイを微笑ませる力を持っていないのである。
「んなんじゃねぇ! とにかく、買いに行くな!」
そうして、イラつくと余計に言葉がおかしくなる。
これでは命令形だ。
『買いに行く必要はない』や『買いに行かなくてもいい』と言えばよかったのに、つるっと舌から滑り出した言葉は、厄介な色がついていた。
「は…い」
メイは、悲しそうな眉になってそう答えた。
まるで、命令なら聞かなければならないという風な声で。
そうじゃ…。
そうじゃねぇ。
またも、言葉がうまく通じなくなる自分に歯がゆい思いをする。
パンを押し込む。スープも流し込む。野菜炒めも突っ込む。
全部居心地の悪い空気と一緒に胃袋に放り込んで、席を立った。
そうして、精一杯の譲歩した声で言った。
「米くれぇ…買ってきてやる」
本当に、精一杯の譲歩だった。