12/08 Wed.-1
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昨夜はさんざんだった。
起きる少し前の意識の中で、カイトはそんなことを思った。
本当は、自力で目覚められるくらいの浅いところにいたのだが、彼は自分で陸に上がってこようとはしなかった。
「おはようございます…起きてください」
その浅瀬で立っていると、そんな声が聞こえてくる。
陸に上がる時がやってきたのだ。
うー。
うなりながら身体を起こす。
彼を水棲動物から進化させた生き物は、スカートの裾を翻らせるところだった。
「今日の朝は、なめことお豆腐のおみそ汁ですよ」
そう言えば、カイトが喜ぶとでも思っているのだろうか。
彼が、みそ汁に多大な興味とか関心を抱いているとでも。
ちゃんとベッドから起き上がった時は、ドアが閉ざされる時でもあって、彼女―― メイの姿は消えてなくなっていた。
スカートの裾だけでは、その人間と会ったとは言えないだろう。
会いたければ、用意を済ませてダイニングに行かなければならない。
寝癖のついた頭をかいて、彼はベッドから降り立った。
他人が絡むと、ムカつくことだらけだ。
カイトは電動ひげ剃りを当てながら、鏡の中の自分の仏頂面を見た。
昨日の件を見るまでもなく、いままで他人が絡むとロクなことがなかった。
シュウは元より、ソウマもアオイも、全部邪魔をしてくれるのだ。
彼女と二人でいる時は、問題がないワケではないのだが、最近は穏やかな空気を共有できつつある。
お互いに何も言うことはないけれども、それでも一緒にいられるだけで心地よいのだ。
それは、カイトの男な部分とは決して相容れるものではない。
けれども、その相容れない男とやらを、レーダーも通さないようなステルス製の箱の中にでも突っ込んでおけば、何とかなりそうだった。
なのに、だ。
邪魔者が入る度に、その誰かとやらがステルスに足をかけるのである。
入ってくんな!
彼の希望は、本当にそれだけだった。
自分が思っている以上に、カイトは彼女のことを大切に思っていた。
使用人扱いされて、あんなにキレたのが何よりの証拠である。
メイもそのことを気にしているのではないかと、キレが冷えてきた時に心配になった。
その時、彼女は目の前にいた。
苦手そうな素振りを隠すようにしてコーヒーに付き合いながら、カイトの目の前に座っていたのである。
「おめーは…」
だからカイトは言いかけた。
メイは、はっと顔を上げる。
言いたかったのは―― 「おめーは、使用人なんかじゃねぇ」
しかし、それを言うことが出来なかった。
何故なら、その後に来るだろうと予想される質問に、答えることが出来なかったからだ。
『じゃあ、私は何なんです?』
その質問に、どうしてスラスラと答えられよう。
カイトは、答えを持っていなかったのだ。
それが、苦しくて悔しかった。
アオイに使用人扱いされた時。
『こいつは使用人なんかじゃねぇ! こいつは…!』
そう怒鳴ってやりたかった。
けれども、その『こいつは…』の後の言葉が、一文字も自分の中になかったのに呆然として、それがキレを増幅させてしまったのだ。
メイは、誰のものでも、そうして何者でもなかったのである。
彼自身が、そんな立場に置いているのだ。
じゃあ、どんな立場がつけられるってんだ!
せめぎ合うのは、一般常識の槍と「いやだ!」で作られているわがままの砦。
メイは成人女性で、保護している必要はない―― イヤだ。
借金のカタに身柄を拘束しているのなら、しょうがない―― そうじゃねぇ!
家政婦として恩返しがしたいというのなら、そうさせても何も問題はないはず―― イヤだっつってんだろ!
という有様なので、この戦いに決着が来るハズがなかった。
だから、余計にイライラするのだ。
他人が来なければ、彼女の立場について自覚する必要もなかったというのに、昨日の件ではっきりと思い知らされてしまった。
メイは、何者でもないのだと。
それが彼女にとって、どんな不安を与えているのか想像できない。
もしもカイトが、助けてもらった代償に閉じこめられて行動を抑制されようものなら、きっと恩を仇で返したに違いない。
逃げちらかすことは、火を見るより明らかだ。
逃げる―― その単語に、びくっとなってしまう。
電動カミソリでなかったなら、きっと顎を切ってしまっただろう。
カイトは、そのスイッチを切った。
そんなハズはねぇ。
しかし、それは何の裏付けもない思いこみだった。
彼女が笑顔を浮かべているからと言って、すべての答えではないのだ。
心の中では、思い悩んでいるかもしれない。
メイの性格は、どうにも義理堅いもののようで。
恩義のある相手を置いて逃げるかというと、そうではないような気がする。
けれども、カイトはその上にあぐらをかいていたくないのだ。
恩義なんか忘れちまえ!
そう内心で怒鳴ってみても、それは諸刃の刃だ。
恩義がないと言うのなら、本当に逃げる可能性だってあるのだから。
だから、カイトは黙り込んでしまうのだ。
卑怯な手段だと気づかないフリをしながらも、彼女をこの家に置いておくために、その件についてはもう触れたくなかったのだ。
誰も邪魔すんじゃねぇ。
それが、心の底からの願いだった。
なめこのみそ汁とやらをすすりながら、カイトは時々彼女を見た。
朝っぱらから、自分を不安に陥れるようなことを考えて自爆したせいで、何度も何度もメイの存在を確認してしまうのだ。
本当は、聞きたいこともある。
『この家にいるのは、いやか?』と。
けれども、それを聞いてしまって―― もしも、本心がカイトの願いと食い違っていたなら、自分は耐えられないに違いない。
だから、目をそらすのだ。
食事に集中している素振りで、頭の中の暗い雲を追い払おうとする。
「今日は…雨が降りそうですけど」
心配そうな声をかけられて、カイトは箸を止めた。
視線を上げると、窓の外がどよんと曇っているのが分かる。
本当に降って来そうだ。
きっと、彼女はバイクのカイトのことを思ってくれているのだろう。
もう一台の車の車検はもう終わっていた。
普通なら、ハルコが昼間にここにいるはずなので、持ってきてもらうように指示が出せるのだが、いまは整備工場に待機中である。
ハルコがいつ来るか分からない状態だからだ。
今度の土曜日、カイトがいる時に持ってきてもらう予定だった。
メイがいるのだから、あらかじめ言っておけば受け取りくらいは出来るはずなのだが、カイトはそれをしたくなかった。
仕事を頼むのがイヤだったのもあるのだが―― 知らない男と彼女が会う方が、もっとイヤだった。
だから、今度の土曜日になったのだ。
今週いっぱいは、バイクで通勤しなければならない。
「別に、関係ねぇ」
彼女に心配をかけるまいと、カイトはそう答えた。
レインジャケットはある。
第一、背広が濡れることを、彼が気にしたりするはずもなかった。
濡れようが汚れようが、知ったことではない。
汚れてはいけない服など、作る方が悪いのだ。
「そう…ですか」
言いながらも、メイは心配そうに外の天気を見ている。
カイトは『心配すんな!』という怒鳴りも込めて、強い音を立てて箸を置くと立ち上がった。
食べ終わったのである。
はっと彼女も立ち上がって近づいてくる。
白い指が、彼の襟元と心を縛りにきたのだ。