12/07 Tue.-4
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コーヒーは苦かった。
だから、一緒に持ってきた砂糖とミルクを入れる。
冷めかけたコーヒーには溶けにくく、彼女は何度もスプーンでかき混ぜなければならなかった。
それに一生懸命になっていると、ふっと向かいのソファに座っているカイトが、自分を見ているような気がしてぱっと顔を上げる。
彼は、ぷいと横に視線をそらした。
ブラックのまま、コーヒーをあおる顎。
甘いものが嫌いな彼にしてみれば、メイのコーヒーの作法は許せないのだろうか。
少し恥ずかしくなりながらも、ようやく甘くなったコーヒーに口をつけた。
お客が帰ってすっかり静かになった。
だんだん落ちついてきたのか、カイトの怒りが引いていくのが見ていても分かる。
シュウは階下にいるのだろうが、もう上がってくる気配はなかった。
余ったコーヒーを、こんな風に2人で飲むことになるとは思ってもみなかった。
メイ自身、まだ混乱が取れていないワケではなかった。
あのお客が一体何者なのか。
教授と呼ばれていたことを考えると、大学時代の関係者か何かなのか。
それから、見合い。
そして拒絶。
いろんな情報は、水族館の中を回遊する魚のようだった。
見えてはいるのだが、それが何の魚なのか当てることは出来ない。
ウロコが青い光の中で閃くだけ。
話をまとめると。
ゆっくり息をつぎながら、メイは魚の一覧表を作ろうとした。
あのアオイ教授という人が、カイトに見合い話を持ってきたらしい。
ソウマとかシュウは、教授側なのだろうか?
疑問は残るけれども、話のやりとりの中で、カイトは本気で怒った。
元々、あの教授のことが好きではないようだ。
最初からそんなケンカごしの態度だったし。
そうして言った。
『オレは、絶対結婚しねー!』
ズキンッ。
メイは、まとめた話がいきなり刃物になったのが分かった。
それがさくっと胸に入る。
しかし、コーヒーの続きを飲むことでごまかす。
何を痛い思いをすることがあるのか。
それは、裏を返せば誰とも結婚はしないと言っているのだ。
彼は―― 誰のものにもならない。
ちらりと、コーヒーカップの縁からカイトを盗み見る。
飲み終えたカップを一度眺めた後、彼はテーブルの上のトレイに戻すところだった。
そうなのだ。
少なくとも、結婚というものをする気がないということは、カイトの彼女や妻になる人を見なくて済むということである。
2人が楽しそうに、幸せそうにしているのを見なくても。
きっと、それはこんな胸の痛みとは比べものにならない。
だから、よかったのだ。
きっと彼女にとっては、物凄くいいことな――
「おい…」
ビクッ。
水族館の魚に名前を付け終わろうとした時、不意に投げられた言葉は、メイの意識を震えさせた。
ぱっと彼の方を向く。
眉間のうっすらと入った立て皺。
それを隠すように、大きな手が顔を押さえた。
あっ。
それは右手だった。
シャツの袖口が少し下がったはずみで、見えたのだ。
手首にはめられている銀の腕時計。
左利きのカイトは、右に時計をするのだ。
大きな手との対比が、彼女をドキリとさせた。
「おめーは…」
言葉が続けられて、慌てて視線を変える。
いまは、腕時計に見とれているヒマはなかった。
その手の向こう側から、彼の声が聞こえるのだ。
一秒待つ。
二秒、三秒、四秒、五秒。
でも、その先は続けられなかった。
彼は、ばっと顔から手を離して立ち上がる。
「…何でもねぇ!」
言い捨てながら、その身体はバスルームの方へと消えて行った。
要するに、もう彼女と話をすることはないというのだ。
え?
いきなり放り出され、一人きりにされてしまったメイは、バタンと閉められたドアを見た。
最初の数日、一緒の部屋で過ごしたことを、彼女は忘れていない。
けれども、あの時といま違うのは、彼がお風呂から出てくるまでここにいてはいけないということだ。
もう、メイがずっといられる部屋ではないのだから。
何を…言いたかったのかしら。
後ろ髪がひかれる。
空になったコーヒーカップが乗るトレイを持ちながら、何度も彼女は後ろを振り返って―― でも、出ていかなければならなかった。
※
お風呂にも入って、寝る準備も終わって。
彼女は布団の中に潜り込んだ。
昨日はこんな風に丸くなって、彼が帰ってくる気配を探していた。
今日は待つ必要などないのに眠れそうにない。
夜にコーヒーなんかを飲んでしまったせいだろうか。
そうなると、つい考えてしまう。
カイトのことを。
どうして、こんなに好きになってしまったのだろう。
封印しても押さえ込んでも、せり上がってくるその気持ちに終わりなんかなかった。
こんな危険な爆弾を抱えて、でも、これからもこの家に置いてもらうためには、爆弾を決して爆発させてはいけないのだ。
信用を失わないためにも。
メイは、出来るだけ考えないようにしながら、何とか眠ろうとした。
けれども、余計な記憶や意識がそれを邪魔する。
眠らなきゃ。
明日は何もするなとは言われていない。
だから、きっと朝食の準備もしていいはずだった。
ちゃんと起きるためにも、ちゃんと眠らなければならないのに。
それなのに、何度も今夜の映像がムービーで甦る。
あの、お客を含めて5人の空間が巻き戻されて。
しかし、そのテープはだんだん延びてきた。
ようやく、メイの意識が眠りの縁に引きずり込まれようとしたのだ。
その時。
『大の男が、何を使用人のことで騒いでいる』
教授の声が、勝手に頭の中に流れた。
それが落下感を生み、メイはびくっとして目を覚ます。
あ。
頭の中で、何かがつながった。
その教授の言葉の後で、カイトは火のように怒ったのだ。
『使用人のことで』
もしかして。
彼は。
メイを使用人扱いされたことで、怒ったのだろうか。
あんなに。
だとしたら!
メイは、がばっとベッドから飛び起きた。
あのアオイ教授という人は、ひどいとばっちりを食ったことになるのだ。
何しろ、それに似た発言をしたのは、メイ自身なのだから。
電話があった時、彼女の立場を聞かれた。
けれども、メイはうまく答える言葉を持っていなかったのだ。
だから、当たり障りがないだろうと思って『家政婦』と答えたのだ。
そう答えておけば、誰もそれ以上の詮索をしてこないだろうし、カイトにも迷惑はかからないと思って言った言葉だった。
ああ、どうしよう。
よかれと思った言葉で、あんなにもとんでもないことになるなんて。
あれで、もしカイトの何かの立場が悪くなるようなことがあったら―― メイは、暗いベッドの上でオロオロしてしまった。
けれども。
胸の一部がぽっと熱かった。
都合のいい翻訳なのかもしれない。
けれどもその翻訳を信じるならば、あんなにまでもカイトは自分のことで怒ってくれたのだ。
決して、カイトは彼女を家政婦扱いしたりしなかった。
それどころか、仕事をするのをイヤがるばかりなので、何とか隙間を見つけてやっているくらいなのだ。
まだ。
カイトの翻訳は全然うまくいかない時の方が多い。
けれども、うまく翻訳出来る度に、ますます好きになってしまう。
好きとコーヒーは似ている。
ほろ苦くて、眠れそうになかった。