12/06 Mon.-2
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「…い」
ん?
カイトは、一度まぶたに強い力をくわえた。
目を閉じたまま、漂っている意識をとっつかまえようとしたのである。
「おはようございます…朝ご飯の用意が出来ました」
がばっ!
ベッドから飛び起きた。
いつもよりも小さな声、弱い声。
けれども、それがメイのものであることを、覚醒した途端に気づいたのだ。
ばっと声の方を向くと、聞こえないはずだと納得した。
ドアのすぐ側のところから、しかも向こう側からちょっとだけ覗き込むようにして呼びかけられていたのだから。
焦点の合わせづらい起き抜けの目を細めて、何故そんなところにいるのかを観察しようかと思った次の時、ドアはパタンと閉ざされてしまった。
彼女は、ダイニングの方に戻って行ってしまったのだ。
カイトは、やりかけた目を細めるという動作を続けた。
しかし、はっきり見えたのは閉ざされたドアで、鼓膜が遠ざかる音をわずかに拾うだけだった。
いつもと同じ様子ではない。
あんな遠巻きな起こし方をされるとは、思ってもみなかった。
だが、彼の記憶に引っかかるものと言ったら、昨日遅く帰ってきたことくらいで。
あの後は、グリルチキンというヤツを口の中に押し込んで、カイトは毛布をひっかぶって寝たのだった。
泣いた目を一生懸命元に戻そうとするメイを、見ていられなかったのである。
怒ってんのか?
昨日の件について、そうカイトは解釈しようとした。
しかし、違うように思えてしょうがなかった。
いっそ、そうだったらどんなにいいか。
彼女が、カイトに怒るほど対等になっているというのなら、こんなに苦しい思いを抱え込んでいる必要はないというのに。
のろのろとベッドから起き出して用意を始める。
答えの出ないメイの態度に、首をひねりながら。
おかしい。
はっきりと、カイトにもそれが見て取れた。
朝食の席に来たのはいいが、彼女はよそよそしさの服を着ていたのである。
第一に、まずカイトの方を見ようとしない。
第二に、料理を置くなり逃げて行ってしまう。
食事が始まっても違和感は拭えるどころか、どんどんと上り坂になっていった。
いつもの沈黙と、明らかに違うのである。
いつもの沈黙は、もっと心地よい。
それに、今日はまだ『うめー』を要望されないのだ。
カイトは、居心地悪く耳をかいた。
「うめー」
そうして、ヤギな一言を呟きながらも、彼女の様子を観察する。
みそ汁の椀を持ったまま。
すると、メイは「あっ」という感じに肩を動かしたけれども、慌ててうつむいてお茶碗を取ったのだ。
いつもなら、ここでにっこりが返ってくるはずだったのに。
何があった!
こうなると、もう朝食どころではない。
向こうがこっちを見ないことをいいことに、カイトは彼女の行動を睨むような目で焼き付けていった。
心当たりを必死で検索する。
けれども、そのどちらを駆使しても答えはでなかった。
気がつけば、もう出社しなければならない時間になっている。
朝食を残すと彼女が変に思いそうで、慌てて残りを口の中に押し込みながら立ち上がった。
そうして。
そうして。
そうし――シーン。
何で、こねーんだ!!!!!!
カイトは目をむいた。
いつもなら、誰にも言われずに近づいてくるのだ。
朝の儀式みたいになったネクタイを。
なのに、メイは席に座ったままである。
止まっているかのように思えて、時々思い出したように食事を続けていた。
もしかしたら、カイトが立ち上がっていることに、気づいていないのかもしれない。
だとしたら、相当ぼんやりしている。
ここで、葛藤が生まれた。
彼女に強制出来る立場ではないのだ。
ネクタイは締めて欲しいと思っていても、それを言うことが出来ないのである。
言えば、その行為を強制させていることになるからだ。
彼女の好意で行われることでなければならなかったのだ。
そうでないと、成立しないことなのだから。
うぐぐぐぐ。
カイトはジレンマに歯噛みした。
そのまま突っ立っている自分が、マヌケに見えてしょうがない。
言えるものならとっくに言っているし、あきらめられるものなら、もうとっくにそこのドアは出て行っているハズだった。
どちらも出来ないから、こんなマヌケなザマなのである。
くそっ。
彼は、思い立って行動を起こした。
自分で。
そう―― 彼は、自分でネクタイを締めようとしたのだ。
自分のしていることを、自分のプライドが気づかないように、一生懸命意識をそらしながら。
自分で締めるというのなら、別に今でなくてもいいのだ。
これまでのように、会社で必要最小限でいいはずなのに。
それなら、何故いま結ぼうと努力をしているのか。
その答えを、カイトは自分のプライドのために、絶対に目の前に出してはいけなかったのだ。
言うことをきかないヘビを操るように、カイトは指先を使った。
ネクタイを締める原理なんか簡単である。
ただ、嫌いなものだけに、綺麗に結ぶなどという極める方向に進んでいるハズもなかった。
やっつけ仕事で結ぼうとしたのである。
「…っ!」
首の辺りを締めたり緩めたりするものだから、普通の時よりも呼吸が乱れる。
無駄に息を止めたり、まとめて吐いたりするからだ。
「あっ!」
その呼吸音のおかげか、声が生まれた。
メイの驚いたものだった。
はっと顔を上げると、彼女は席を立って慌てて近づいてくる。
ようやく我に返ったのだろう。
「すみません!」
謝るのは余計だけれども、とにかく白い指が彼から蛇を奪った。
ホッとした。
彼女は、カイトを避けたいワケではないと分かったからだ。
一度全部解かれる。
最初からやりなおしということなのだろう。
青い蛇。
そのブルー・スネークを笛で踊らせるように、メイはネクタイを結んでいく。
けれども、いつもよりもおぼつかない指だった。
一番最初に結んでもらった時のようなぎこちなさだ。
一度なんかは、細い方のネクタイを手から落としてしまって、慌てて握り直すという失敗までついてきた。
カイトから、彼女の表情は分からない。
いつもよりも下を向く角度で結んでいるからだ。
ムッとした。
やっぱり、絶対におかしいからである。
ネクタイを結ぶ時まで、こんな態度なんて。
いや、結ぶ時だからこそ、カイトにとっては大事な時間だと思っているからこそ、余計に面白くなかったのである。
「何かあったのかよ?」
だから。
つい、ぼそっと出てしまった。
「えっ?」
反射的に上に上げられた顔は―― ドキッ!
カイトは、身体が妙な硬直をしたのに気づいた。
メイは、真っ赤な顔をしていたのである。
どこもかしこも真っ赤。
一瞬、正常な思考が吹っ飛んだ彼ではあったけれども、次の瞬間にハッと現実に戻ってくる。
「おめー、まさか熱あんのか!?」
驚いたカイトは、でかい手を彼女の額に押しつけたのだった。