12/06 Mon.-1
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「おい…いつまで寝てんだ」
え?
メイは、その声に大慌てでがばっとベッドから飛び起きた。
誰かがベッドの側にいるのである。
キョロキョロと見回すと、すぐにネクタイのシッポが見えた。
まだ結んでなくて、ぶらさげたままのそれ。
見覚えがあるどころじゃない。
こうやって、いつもネクタイをぶら下げている相手は―― メイは、ばっと視線を上に上げた。
背広の上着に袖を通しながら襟を立ててネクタイの位置を調整しているのは、紛れもなくカイト、その人だ。
枕元の買ったばかりの目覚まし時計を見ると、もう彼の出社時間をとっくに過ぎていた。寝坊したのだ。
あれ?
寝坊の事実にパニクるよりも、メイは瞬きをした。
いや、いまが違和感があるワケではない。
彼のネクタイを締めるのは、いつしか彼女の仕事の一つになっていたし、全然イヤなことじゃなかった。
「何、豆鉄砲食らったような顔してんだ?」
眉を顰めて、カイトが近付いてくる。
お得意の彼の表情だ。
怪訝さと不機嫌さの狭間の色を浮かべて、片膝をベッドにかける。
そのまま胸を彼女に向けたまま動きを止めるのは、ネクタイを締めて欲しいせいか。
ようやく責務に目覚めて、彼と同じように膝立ちになると向かい合った。
あれ…えっと。
慣れた手つきでネクタイを締めてやりながら、しかし彼女は、瞬きをいつもの倍以上していた。
目をつむってでも締めることは出来るので、ネクタイ結びを失敗したりはしなかったが。
きゅっ。
綺麗に締め終わった後、そのままの角度で彼を見上げる。
すぐ側に顎があって、視線を感じたのか「ん?」とグレイの目が落ちてくる。
息がすぐ側にあった。
ドキン。
メイは、それを感じて胸が高鳴った。
動けなくなるくらいの威力がある。
「んじゃ…行ってくっぜ」
膝がベッドから離れて、彼は言葉通りの行動に出ようとした―― が、すぐに膝がまた戻ってきた。
すぐ側に顎が近付く。
「忘れもんだ…」
カイトの言葉の意味が、彼女は分からなかった。しかし、自分の顔が何かで陰ったのが分かる。
分かったら。
「んっ…」
唇が。
誰かの。
吐息と。
重なった。
メイは、目を見開いた。
誰かに、いま自分の唇が奪われているのを知ったのだ。
誰か。
そんなの、わざわざ確認する必要などない。
ついさっき、ネクタイを締めてあげた男だ。その男が、いま自分とキスをしているのである。
熱い濡れた感触が唇の内側を襲って、苦しさに目を細める。
苦しい。
寝癖の残る後ろ髪に指が入る。
ちょっと冷たくて、でも強い力で髪を逆撫でるように後頭部を支えられた。
「あ…」
ようやく息をつぐ。
少し離れた彼が―― 見える。
カイトだ。
間違いなく、いまそこにいるのは彼なのである。
「やっぱ…今日は遅刻するぜ」
現状が把握出来ない彼女の近くで、カイトはそんなことを言った。
と思ったら、彼女はベッドの上に転がっていて、ネクタイ姿の彼が自分の上にいたのだ。
重力に逆らえないネクタイが、メイのパジャマの胸の上に乗っていた。
首筋に唇が降る。
彼の腕が、パジャマの裾から滑り込んできたのが分かる。
メイの胸を。
鎖骨の辺りに、強い唇を感じた。
そして聞いた。
「メイ…」
耳元で、彼が呼んだのだ。
「……だ」
名前の後から追っかけた音の方は、きちんと聞こえなかった。
けれども、身体が震える。
彼の大きなてのひらが、メイをなでるからだ。
「…!」
メイは、彼に向かって何かを叫んだ。
自分のその声で―― 本当の朝が来た。
※
「…っ!」
驚いて、ベッドから飛び起きる。
自分の部屋の、自分のベッドの上だ。
そこには、自分以外誰もいない。
しん、と冷たい空気も、暗い室内も。
振り返って見た枕元の時計は、新聞配達員が働き出すような時間を告げていて、まだ起きる時間ではなかった。
「あ…」
呟く。
信じられない記憶が、いや、それは夢だった。
寝ている時につい見てしまう、他愛ない、悪戯な夢だ。
しかし、メイの思い通りには、決してなってくれない夢だったのである。
何て、夢。
身体が熱い。
両手で顔を覆った。顔も熱かった。
何という夢を見てしまったのか。
あれでは、まるでカイトと自分が結ばれているかのようだった。
そうして、とんでもないところまで夢は突っ走っていったのだ。
思えば、かなり曖昧なところがあったように思える。
どこかのドラマや映画で見た構図を、脅迫状の文面のように切り取って貼り合わせたような画像の連続。
けれども、あの夢を見ている時は、間違いなくその場所に本当にいる気分だった。
寝坊する夢などは、前にも見たことがある。
そういう困った夢に限って、リアリティがあって、本当に夢の中でも困るのだ。
しかし、今回のは違う。
カイトが。
かぁ。
恥ずかしさに涙が浮かんでしまった。
自分が信じられなかったのだ。
たかが夢とは言え、あんなものを見てしまうなんて。
余りに浅ましい女になってしまったような気がした。
あきらめたフリをしながら、本当は全然それを出来ないでいるのではないだろうかと思ったのだ。
彼の側で朝食を作ったり、ネクタイを締める―― その特権を得たことを、優越感に浸っていたのではないだろうか。
苦しいパジャマの胸を、ぎゅっと握る。
息を止めた。
彼の表情や言葉がリフレインする。
唇に指で触れた。
なのに、夢の記憶は、ただの夢でしかない。
どんなに思い出そうとしても、もう思い出せない。
あの大きな手の感触も、ついさっきまでは思い出せたような気がしたのに、記憶の破片にも残っていない。
苦しい。
メイは目を閉じた。
頭の中によぎろうとする気持ちに、慌ててフタをする。
のに、まるで間に合わなくて、言葉が頭の中をこぼれ落ちた。
「好き…」
自分の膝に向かって、ついにその言葉を呟いてしまった。
あれは――メイの願望なのだ。
彼に触れたい、触れられたい。
好きだと言いたい、好きだと――!!!!
思考に急ブレーキをかけた。
それは禁止だったのだ。
自分が、このままここにいるためには、絶対に考えてはいけないこと。
メイは、その最悪の禁忌スレスレでUターンしたのだ。
夜明けまでまだ時間はあるのだけれども、もう一度眠るなんて出来そうもなかった。