12/05 Sun.-5
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上着もなし。
財布もなし。
幸いバイクの鍵は、玄関のところに置いていた。
それから、ガレージにはバイクに乗るための上着を置いていた。
これ以上、冷静にあの家にいられないと分かった彼は、そのままバイクのエンジンをかけてしまったのだ。
そのまますっ飛ばす。
行くアテがあるワケではない。
となると、彼が行けるのは会社くらいだ。
どうせ、コンピュータのムシである開発部の連中が、数人くらいは来ているに違いないと踏んだのである。
そこなら、カイトは余裕で時間がつぶせるハズだった。
オモチャがいっぱいあるのだから。
結果的に休日出勤にしてしまったカイトは、ムカムカしながらキーボードを叩き続けた。
ソウマもハルコも、本当に何も分かってはいない。
だから、あんなひやかしの言葉などを投げられるのだ。そんな簡単な問題ではないのに。
手に入れられるものなら、もうとっくに我慢なんかすっ飛んでいる。
抱きしめてキスをして、耳を噛んで―― ハッ!
何気ない例だったはずなのに、頭の中では勝手な妄想が走り回って行く。
それに気づいて、慌てて追い払う。
メイも、全然分かっていなかった。
何が、『がんばります!』だ!
これを容認してしまったら、彼女を家政婦として扱うことになるのだ。
労働報酬なんか払いたくなかった。
くっきりと引かれる上下関係の線。
そんなものは、欲しくなかった。
頑張るな!
ENTERを叩きながら、カイトは画面を睨んだ。
いや、頑張りたい方向を変えてくれればいいのである。
その中には、きっとカイトだって容認できるものがたくさんあるはずだった。
けれども、それがあの家のための労働だと思うと、ひどく苦しくてイヤだったのだ。
こうしている間に、きっとソウマ夫婦は帰るだろう。
あの二人がいたら、視線が気になってロクなことが言えない気がした。
ただでさえ、カイトの口には問題があるというのに、更に輪がかかってしまうのである。
だから、あのとき怒鳴りを途中でやめたのだ。
『おめーは、何もしなくていいんだよ!』
言いたいことは―― ソウマが口真似した言葉でパーフェクト。
だから、余計に腹が立つ。
ムカむかムカむかしながら、カイトはバシバシキーボードを叩いた。
数人が出社していたけれども、誰も彼に声をかけてきたりしなかった。賢明な判断である。
先日のルーチンを応用して、いくつもいくつもテスト用のサンプルを作った。
しかし、コンパイルをかける度にエラーだらけで、訂正にイライラする。
キーボード入力数と、完成度は反比例していた。
「あのー、社長…」
随分たってから、ようやく声をかけられて。
「何だ?」
まだ目つきが悪いままに、開発スタッフの一人を睨み上げる。
だから声をかけたくなかったんだよ、というような苦い顔で彼は続けた。
「もうみんな帰りましたけど…社長はまだいらっしゃるんですか?」
そうして、下の方だけ開いているブラインドを顎で指す。カイトは、目をやった。
真っ暗だった。
そうなのだ。
いろんなことに神経を取られていて、カイトは太陽の位置などまったく気にも止めていなかったのである。
向かいのビルの明かりが、まるでネオンのように見えた。
慌ててパソコンの時計を見ると、九時少し前だ。
あっ、とカイトは椅子から立ち上がった。
こんなに長居をするつもりはなかったのだ。
ソウマたちが帰っただろう夕方を見計らって帰るつもりだったのに、まさかこんな夜になっているとは。
ぐぅ―― 腹の虫がメイを思い出したように鳴った。
ばっと上着を掴んで、彼は早足で開発室を出る。
わざわざ声をかけてくれた社員に一言もナシだ。
それどころではなかったのである。
メイが、心配していないハズがなかった。
あんな状態でいきなり飛び出して、夜になっても帰ってこないのである。
彼女のあの性格を考えれば、誰だって理解できるだろう。
ついには廊下を走り出し、駐車場からバイクを引っぱり出すと飛び乗った。
パトカーが見たら、喜んでついてきそうな速度でぶち抜いて。
ようやく、彼は家路についたのだった。
※
バターン!
カイトは、玄関の目の前にバイクを止めるなり、そのドアを力一杯開けた。
軟弱住宅のドアなら、根本からイカレそうな勢いで。
びくっ、と足を止める。
メイがいたのだ。
すぐそこに立っていて、彼の存在を確認するや目を細めて。
それ以前に、目が―― 真っ赤だった。泣き腫らしていたのだ。
「おか…なさい」
慌ててその顔を隠すように下を向いて。
メイは、絞り出すような小さな声で言った。
刺さる。
「よかった…」
刺さる。
「もう……かと」
全身が。
針山になった気分だった。
あの小さく細い針が、身体全体に突き刺さる。
まるでカイト自体が磁石であるかのように吸い寄せられてきて、ヒュンっと。
言葉も出なかった。
その場に立ちつくすしかなかった。
家を飛び出したのが昼過ぎ。
それからいままで、何時間もカイトの帰りを待っていたのではないかと、不安な思いをしていたのではないかという想像が、彼をハリネズミにするのだ。
ただし―― とがった針の先は、すべて彼の方を向いて刺さっていたけれども。
「す、すみません…ご飯にしましょう」
ゴシゴシと一生懸命顔を拭いて、メイは顔を上げた。
そうして、笑顔を作りながら言うのだ。
心を切り替えるかのように、声音まで変えて。
背中を向けて、ダイニングに向かおうとする身体。
あとちょっとだけ足を前に動かして、その背中を抱きしめて。
そうだ。
抱きしめたいのだ。
彼女をいますぐ抱きしめて、『バカ野郎…』と。そう言いたかった。
夕食なんかどうでもよかった。
「今日は、グリルチキンです。カレー味ですよ」
なのに。
振り返えらずに言う彼女の言葉は、抱きしめる相手に向けられるものではなかった。
カレーで喜ぶ子供に向ける―― まるで保育園児にでもさせられた気分である。
カレーなんか!
そんなもんより!
怒鳴ろうとする塊が、喉のすぐ入口までこみ上げてきた。
なのに、身体が裏切ったのだ。
グゥ。
彼の気持ちなど考えずに、腹が鳴った。
最悪だった。