12/04 Sat.-9
●
おみそ汁?
メイは、彼がそれにどういう意味を込めたのか、分からなかった。
これまでの話の流れと、国語的な意味合いと、そうしてカイトという名前の中に押し込んである、特殊な辞書が絡み合っている。
その糸と、格闘しなければならなかった。
料亭で食べた料理は、とても綺麗でおいしかった。
ああいう料理を、テレビ以外で見たのは初めてだというくらい凄くて。
こんなものを、当たり前のように食べているカイトの舌は、とても肥えているのだろうと思った。
だから、メイの料理を求めてはいないのだと。
思ったら、またあの家にいる理由を失ってしまいそうで不安になったのだ。
しかし、フタを開けてみたら―― カイトは、あの料理がマズイなどと言い出した。
彼女の感想を、ムキになって否定するのだ。
味覚の感じ方がそんなにも違うんだろうかと、それはそれで心配になる。
メイは、自分で味見をして料理を作っているのだ。
だから、おいしいの基準が違うとなると、別の不安が押し寄せてくるのである。
彼においしいと思ってもらう料理を、どう作ればいいのか分からないからだ。
なのにいきなり。
何で、いきなりおみそ汁の話を。
余計に混乱しながら、彼女は助手席で一生懸命考えた。
車がどこを走っているのか、頭に入らなかった。
それ以前に、たとえ見知った道であったとしても、外は真っ暗だ。
昼間と違う顔をしている町並みは、慣れない彼女に判別出来るハズもなかった。
でも。
分かったことはあった。
料理をリクエストされたのは、これが初めてだった、ということだ。
いつも彼女が用意したものを、文句も言わずに食べてくれる。
それの繰り返し。
何を作れとか、どうしろとか言われたことは一度だってなかった。
「すんな!」と言う言葉は、いっぱいもらった。
今日だって、料理を作るなと言われたのだ。
そんなカイトが、言ったのだ。
『昼メシは…ミソ汁だけでいい』、と。
それは、ミソ汁以外は食べたくないということなのだろうか。
ミソ汁以外おいしくないってこと―― ううん!
メイは、ぷるっと頭を左右に振る。
後ろ向きにならずに、ちゃんと彼の言った意味を理解したかった。
簡単に結びつけた言葉は、これまでどれもこれも外れてきたのだ。
自分に都合のいい解釈は出来ないけれども、カイトのことをもっと知りたかった。
だから、出来るだけ自分の翻訳機に、カイト語を登録しなければならないのである。
「おみそ汁以外は…いらないですか?」
言葉を選びながら、慎重に口にした。
不安は、まだ胸にいっぱいある。
当初の自分の予測通りの答えだったら、どうしようという影がつきまとっているのだ。
不定期に現れる外灯やネオンに、カイトの横顔が浮かび上がったり消えたりする。
うまく表情が捕まえられないから、彼を見ていても不安が大きくなるばかりだった。
「いらねー」
ちょうど車内が暗く陰った時に、不機嫌な強い返事が跳ね返ってくる。
まだメイには理解出来ない範囲に、カイトは立っていた。
質問を変えなければいけないようで、彼女は考えを巡らせる。
出来るだけ自分の気持ちが沈んでしまわないように―― でも、どうしてもそっちに引きずられそうになりながら、こう聞いたのだった。
「おみそ汁以外は……おいしくないですか?」
ドキン、ドキンと胸の音が聞こえる。
どうしよう、どうしよう。返事がYESだったらどうしよう。
心の中で考えないようにしても、鼓動が勝手にそれを呟く。
何度も何度も何度も。
「うめーっつってんだろ!」
返ってきたのは、メイの鼓膜をつんざくような怒鳴りだった。
思い切りイライラした口調で、けれども、カイトはそう言ってくれたのだ。
何度も同じことを言わせるな―― とでも言いたげだった。
あ。
よかった…。
胸がジンとするくらいに、ホッとしている自分がいた。
彼女の食事は、おいしくないワケではなかったのだ。
料亭の食事はまずいという男なのに、メイが作る料理には、怒鳴ってでも「うめー」と言ってくれるのである。
それが嬉しかった。
一般論から言えば、信じられない事態だ。
彼女を傷つけないようにと言ってくれているのは、最初から百も承知だ。
けれども、彼はそういう言葉をくれる人ではないので、こうやってふとした時に聞くことが出来るとホッとする。
自分の進んでいる道が、カイトにとってはイヤなものではなかった気がしたのだ。
勿論、どうしてもイヤがられることはあるのだが。
今日のあの服装のように。
しかし、少なくとも料理に関しては、「するな」と言われた回数は、かなり少ないハズだ。
本気で禁止されたのは、今日が初めてだし。
ただ、しろと言われたこともなかった。カイトが言うハズもないことは分かっていたが。
それなら――今日のみそ汁発言はどういう意味なのか。
他の料理も、一応「うめー」と言ってくれているのに、昼はみそ汁だけでいいなんて不思議だ。
昼飯を作れと言われるなら納得するのだけれども、みそ汁だけを限定されるなんて。
「本当に…おみそ汁だけ…」
「くどい!」
もう一度確認をしようとしていたメイは、しかし頭ごなしに怒鳴られた。
何で、みそ汁だけにこだわるんだろう。
まだカレーなら分かる。
彼の大好物らしく、夜中に勝手に食べていくくらいだ。
それを作れと言われたら、好物だから、で決着がつくのに。
もしかしたらみそ汁も好物なのだろうか。
いろいろと考えているうちに、見知った門の前に到着するのだ。
帰ってきたのである。
カイトはリモコンで門を開ける。
その間、アイドリングだけはしているが、車の動き自体は止まっている。
メイは、もう一度横を向いた。
暗い門の前では、彼の表情はやっぱりよく分からない。
「何で…おみそ汁だけなんですか?」
勇気を出して、もう一度。
怒鳴りが怖くないワケじゃない。
でも、本当に彼女を傷つけようとして怒鳴っているワケでないことは分かっていた。
根気強く、彼という存在と付き合って知りたかった。
もう一度怒鳴られるのは、覚悟の上だ。
ばっと、顔がメイの方を向く。
暗い陰影だけが、カイトが顔を歪めたことを教えてくれる。
ただ、動物みたいなうなり声が聞こえて―― それを彼が言っているのだと、すぐには気づけなかった。
うーっと、苦しそうなうなり声だ。
門が完全に開いた。
ぷいっと、カイトは前を向いてしまった。
車を動かし始めたのだ。
逆手で後ろに向かってリモコンを使うのは、門を閉めるため。
車はゆっくりとガレージに向かった。
でも返事はなかった。
ギアがバックに入って、カイトは自分の座席を片手で掴むようにして後ろを振り返った。
逆さまにすすむ車。
でも返事がない。
車が止まる。
やっぱり返事が。
エンジンが切れる。
でも返事が。
「クソッ!」
カイトはうめいた。
ガレージの中でライトも消された。
尚更暗くなった車内のおかげで、カイトの顔がこっちを向いたこと以外は、まったく情報がなくなる。
じーっと、彼を見ていた視線が気に入らなかったようだ。
しかし、ちゃんと答えて欲しかった。
カイトという人を教えて欲しかったのである。
メイは一生懸命答えを待った。
「ミソ汁なら!」
声を張り上げるカイト。
運転席のドアが開けられ、その声の最後の方だけが、ガレージの壁に反響した。
「ミソ汁なら、毎日作ってっから…クソ…面倒くさかねーんだろ! 面倒だったら別にいい! 作んな!」
ガッ。
言い逃げするように、カイトはそう怒鳴りながら車を降りた。
そのまま、メイが乗っているというのにドアを強く閉める。
車内で逆巻く空気と外部との遮断で、いきなりカイトの気配や音と引き離される。
メイは。
引き離されたまま、助手席で固まっていた。
そこが暗くても―― ちっとも怖くなかった。
いや、違う。
暗いことさえ、忘れてしまっていたのだ。
カイトの言葉のせいである。
メイの作る料理の中で、一番みそ汁が面倒くさくないと思ったから。
だから、それだけ作れと―― 作ること自体に賛同はしたくない気持ちと、それでも彼女の料理を求めてくれている結果だったのだ。
要するに。
カイトの食べるものを作ってくれと。
面倒臭くないみそ汁だけでいいから作ってくれ、と言っているのだ。
彼女の解釈が間違っていなければ。
ウソ、ウソ…。
許可だったのだ!
あの言葉は、料理を作ることを禁止したことを解除してくれた言葉だったのである。
分かりにくい許可を出す男は、どんどん車から遠ざかっていく。
はっと見た時には、もう彼は明かりのともっている玄関に立っていた。
車内にまで聞こえてきそうな勢いで、ドアを開けている大きな動き。
また、強く閉ざされた音も聞こえたような気がした。
慌てて飛び出して後を追う。
ちょっとの間の暗闇を、大急ぎで走り抜けて玄関に飛び込む。
カイトの足が階段の上の方にあった。
「あ、あの! 一生懸命おいしいおみそ汁作ります! 絶対おいしいの作ります!」
彼の足に向かって大きな声で言った。
ようやく視線を上げると、カイトが驚いたように振り返ったところだった。
すごく顔を顰めた後の彼の答えは。
「バカ野郎…」―― だった。