12/04 Sat.-6
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ドアの外で気配がした。
身体が、反射的にビクッと震える。
ノックだ。
メイが―― その名前を思うだけで、カイトはキーボードを叩いていた指をピタリと止め、背中の方へ全ての意識を向けた。
太陽は、夕日と呼んだ方がよくなってきてはいるが、昼間の事件を過去のものにしてしまうほどの時間は経過していなかった。
彼女の部屋であんな騒ぎをしてしまって、実はかなり仕事が手についていなかった。何をしても、記憶がリプレイしてしまうのである。
下着姿の背中が、溶岩のように押し寄せてきた。
コマ送りや、スローモーションまでやってくれたりするから、記憶というのはかなりの高機能である。
メイは、何を考えたのか。
カイトの言った、『脱げ』に。
ひやっと背中が冷たくなる。
クソッ。
彼女のせいで、一日何度呟かされているだろう。
その言葉をまた唇の中でもがかせながら、うめくように言った。
「いるぜ」と。
朝ではないのだ。そう言わないと、メイが遠慮してドアを開けないような気がした。
胸が高鳴る。
どうやって彼女を見て、何をしゃべればいいのか。
一体、何の用が。
カイトは椅子を回してドアの方を向いた。
ゴクリと唾を飲んだ。
ドアが開く。
すっと、予備動作もなく。
それに違和感を覚えるまでもなく登場したのは―― シュウだった。
どんがらがっしゃーん!
心の中で、カイトは椅子から転がり落ちていた。
どれだけ緊張して、そこにメイが現れるのを待っていたか、この唐変木には一生伝わらないだろう。
思い切り、彼は読みを外してしまったのだ。
まさか、もう帰って来ているとは。
車の音に意識を向けていなかったのが、カイトの敗因である。
「どうかしましたか?」
実際、椅子から転げ落ちはしなかったものの、随分と驚いた顔でもしていたのだろう。
シュウが不思議そうに聞いてくる。
「んでもねぇ…何の用だ」
カイトは、くるっと背中を向けた。
またディスプレイの方に視線をやって、どうでもいいようなプログラムの入力を始める。
いまの自分の心を、このロボットに知られないためだ。
彼女が来ることを予測していたなんて―― そのために、思い切り神経を使っていたなんて。
「ええ、先日の…」
土曜日の真っ昼間だというのに、また仕事の話が始まる。
仏頂面で、さして資料に目をやりもせずに、カイトはプログラミングで忙しいというオーラを出し続けた。
言葉短く、持ってこられた仕事に指示を出す。
「分かりました…それでは、その方向で仕事を進めて置きます」
シュウは、プログラムには興味はない。
その方面の勉強はしていないのだ。
だから、内容について何もコメントを挟んできたりはしなかった。
ちなみに、副社長が自社で開発したゲームをやっているところは、一度たりとも見たことはない。
「それでは失礼します」
カイトの態度を不審に思ったか思ってないかは、彼からは読みとることはできなかった。
あっさり引き下がってくれるようでホッとする。
ドアが閉まった。
ふーっと長い吐息を洩らした。
彼女が現れてから、シュウの対応一つするのに神経を使ってしまうようになってしまったのだ。
バリヤがないと、すぐに見透かされてしまいそうな相手だった。
しかし、ほっとしたのもつかの間。
次の瞬間、またノックが来た。
「まだ、何か用があんのかよ!」
うざいシュウに向かって、カイトは思い切り怒鳴った。
いまの一瞬で、考えたことを読まれて、なおかつ戻ってきてまでチャチャを入れられるような気がしたのだ。
そんなこと、あり得るはずないというのに。
「あ…あの…メイです」
しかし、予測は大ハズレだった。
な、な、何だとー!!!
ガッシャーン!
焦った余り、今度は本当に椅子から転がり落ちた。
カイトは慌てて立ち上がり、何事もなかったかのようにもう一度椅子に座った。
メイがドアを開けたのは、その行動が終わった次の時で。
非常にみっともないところを、見られずに済んだ。
しかし、カイトのプライド本体は、まざまざといまの失態を見ていて。
心の中で、何人かの自分がケンカを始めたのが分かった。
チャンチャンバラバラと火花が散る。
それを押し殺した表情は、どうしても険しくなって。
何事もなかったように振る舞いたかったけれども、出来そうになかった。
メイは、一歩部屋に入ったところで止まった。
そして、彼の方を見る。
服はきちんと着替えてあった。あの白いワンピースだ。
一番最初に、カイトを撃ち抜いた服。
「あの…」
不安そうな目だった。
もしかしたら、カイトが怒っていると思ってるのかもしれない。
いや、あの件に関しては怒っていた。
それは間違いない。
しかし、怒っているからと言って、それをずっと引きずりたくはなかった。
洋服一つのくだらない出来事だ。
彼にとっては大きな衝撃であったが、一般論から見たら、本当にくだらない出来事だったのである。
そんなことを、引きずっていると思われるのはイヤだった。
メイが、自分についてイヤな評価を下すかと思うと、そっちの方が腹が立った。
「何だ?」
すっと横に目をそらしながら聞く。
ちゃんと見るには目つきが悪いだろうし、さっきの記憶がまだ彼を苦しめているのも確かだった。
まともに顔を見られそうにない。
「あの…朝から何も召し上がられてませんよね? 夕食作りましょうか?」
言葉がすごく遠慮がちなのは、やっぱりあの事件のせいだろう。
いつもならもう勝手に作っているに違いないのに、ワザワザ許可を取ってくるのだ。
また、彼女との距離が遠くなってしまったような気がした。
せっかく、ここまで少しずつ縮まってきたような気がしたのに。
それに。
今日は土曜日なのだ。
カイトは休みなのである。
彼が仕事に行っている間にも、家政婦まがいのことをしているに違いないメイだって休めばいいのだ。
こんな日まで、掃除だの食事だのそんなことを考えなくても。
「作んな」
カイトは一言で終わった。
椅子から立ち上がる。
そのまま、ソファの方へと向かった。
「あ、でも…おなかすいて…」
気を変えさせようとするかのように、一生懸命メイは訴えてくる。
ソファに近付いて、その背もたれにかけていたブルゾンをひっつかんだ。
「外で食う」
ばっと羽織って袖を通す。
ジーンズの尻ポケットにサイフをねじ込んだ。
「えっ!」
ひどく驚いた声で―― しかし、表情はもうこの世の終わりの色をしていた。
メイは、まるで捨てられた動物みたいだった。
そんな目で、カイトを追うのだ。
メシを作るのが、おめーの価値じゃねぇんだよ!
何てツラしてんだと、カイトの方が苦しくなる。
たかが外食をするという発言をしたくらいで、どうして世界を終わらせようとするのか。
「あの…」
近づいてくる彼に、目で必死に訴えてくる。
その真ん前で、カイトは足を止めた。
うまく彼女が見られないまま、斜め下の方へと視線を落とす。
「もう…今日のおめーの仕事とやらはナシだ…何もすんな」
掃除も、食事の支度も後かたづけも、それ以外も。
労働と名の付くものは、全部終わりだと最後通告を突きつけるのである。
ここまで言わなければ、また絶対に彼女はしてしまうのだ。
さっきのさっきであるにも関わらず、彼の食事の心配までしてくるのだから。
「でも…でも!」
メイは食い下がる。
そこにしか、自分の居場所を見つけられないかのように。
おめーは!
ここにいりゃあ。
それだけで。
思いはよぎるけれども、それをどうしても彼女には言えない。
何一つ理由を説明できないからだ。
説明するには、たくさんの地雷を踏まなければならない―― そして、踏み終わった後は、彼女を失って即死だ。
だから、ぐっと思いを飲み込む。
「大急ぎで作りますから!」
何を勘違いしたのか、メイは身を翻そうとした。
大急ぎで作られてたまるか!
慌てたカイトは、ばっとその腕を掴んで止める。
そのまま、一緒に部屋から引きずり出す。
「あっ…」
その力に押されて、驚き戸惑った声が上がる。
気をつけなければ、またさっきの二の舞になりそうだった。
何とかカイトは、頭に昇る血を収めた。
っかやろう。
見上げてくる不安そうな目に、カイトは苦しい音を呟いた。
「おめーも行くんだよ」
人として、健全な食事をしなければならないのは、メイも一緒だったのだ。