12/04 Sat.-5
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ほけっ。
たくさんの服を胸に抱いたまま、メイは遠ざかっていくゴジラの足音を聞いた。
えっと。
意味が分からなくて、そのまましばらくその格好でいたのだが、ぶるっと身体が勝手に震えたのでようやく分かった。
服…。
メイは、抱いていた服をそっとベッドに下ろした。
どれもクローゼットに入っていたものだ。見ると、まだクローゼットの口は開いたままである。
いくらか服が下に落ちているのが分かった。
ゴジラが暴れたせいだ。
後ろで物音がしたのは知っているが、自分が脱ぐ恥ずかしさと悲しさに精一杯で、他のことに意識を向けているヒマがなかったのである。
だから、カイトが何をしていたのかすら知らなかった。
服…。
もう一度それを呟いて見つめる。
めちゃくちゃな取り合わせだ。
いや、というよりもスカートばかりである。上に着るものがなかったのである。
かろうじて着れそうなのが、一番最初に着たあの白いワンピースだった。
初めて普通の姿で、カイトの前に現れた時の服。
それまでは、ひどい姿ばかりを彼に見せていた。
下着姿にバスタオル。
それから、パジャマがわりに借りたシャツ。
「ふっ…」
ワンピースの上に、一粒シミが出来た。
メイは、慌てて目をこすった。
涙が溢れて来たのだ。
よかった、と。
カイトは、彼女の心を傷つけたりしなかったのだ。
そんな人ではなかったのだ。
ただ、メイにあんな仕事をさせたくなかったのだ。
あの服がある限り、彼女がそれをやめないと思ったのだ。
だから。
だから、ジーンズとトレーナーを持って行ってしまったのである。
もっと。
涙を拭く。
もっと、彼を信じなきゃ。
言葉は足りない、すぐ怒鳴る、強引な行動に出る。
異星人に出会ったというよりは、やはり肉食獣と出会ったような気分だ。
食い殺される、食い殺される、とビクビクしていたが、獣はメイを決して食べたりしなかった。
獣なりに優しくしてくれているのだが、相手は鋭い爪と牙と強い体を持っている。
だからちょっとした行動でも、彼女を吹っ飛ばしてしまうのだ。
そして、伝えたいことは吠えるか行動を起こすしか出来ない―― それが、カイトという獣。
一緒にいるには、彼のことを信じるしかないのだ。
決して、自分を傷つけたりしないのだと。
テリトリーとポリシーはかなり強いから、人である彼女の作法とはすれ違ったりぶつかったりはするけれども、それはメイを殺そうと思ってやっていることではないのだと。
ごしごし。
目を拭いて、メイはのろのろとした動きで、スリップを拾い上げた。
早合点して、自分が脱いでしまったものだ。
脚を通す。
そして。
あの服を――着た。
着たら、することがなくなった。
とりあえず顔を洗ったけれども、泣いたという顔がすぐに分かってしまって、薄く化粧をする。これで分からないだろうか。
鏡の前で、ふぅとためいきをつく。
今更、また調理場に戻って、掃除の続きをする気にはなれなかった。
この白いワンピースでは、絶対に床に膝はつけないし、それにあんなに怒った目をされてから間もあけずに、もう一度チャレンジなんて出来そうになかったのだ。
カイトが仕事に行っている時にでも掃除をしようと思って、でも、あの雑巾だけは片付けておこうと思って、メイは廊下に出た。
壁から落ちた雑巾と、あとバケツと―― それだけを片付けたら、おとなしく部屋にいよう。
別に、することはなかったけれども。
そうなのだ。
2階の廊下を歩きながら、メイは思った。
仕事を奪われたら、彼女はこの家ですることがなくなってしまうのだ。
あ。
カイトの部屋の前で、ふと足を止める。
ご飯――どうしよう。
もうすぐお昼だ。
昨夜、カイトが夜食でカレーを食べたからといって、おなかがすかないはずがない。
作るのは全然構わないのだけれども、さっきがさっきだっただけに、すごくやりづらいことだった。
まだ。
怒っているのかな。
ドアをじっとみる。
とりあえずは、メイはまた歩き始めた、その足をふと止める。
そこにはゴミ箱があった。
ハルコいわく、『男だけが住んでる家にはたくさんゴミ箱がいるのよ』だそうだ。
とにかく、手近にゴミ箱がなければ、平気でその辺にゴミを転がしかねないと言うのである。
シュウという人はともかく、カイトは確かにそうかもしれなかった。
とにかく、そのゴミ箱の口から、ジーンズの裾がこぼれていたのだ。
あ。
犯人もその犯行経過も、火を見るより明らかである。
カイトが、それをそこに突っ込んだのだ。
後で、こっそり拾っておかなくちゃ。
カイトの前では、絶対に着られない衣装であることは分かったけれども、彼女にとっては必要なものであった。
ごめんなさい。
彼の部屋のドアに、ちょっとだけ頭を下げて―― ほとぼりが冷めた頃に回収しようと、心に誓ったのだった。
階段を降りると、車の音が聞こえた。
あれ?
この家には、車は一台しかない。もう一台はバイクだ。
車は、朝多分シュウという人が乗って出ていったのだろう。
ガレージを見た時には、もうなかったから。
お客様かしら、と思いながら階段を降りている。
調理場の方に行こうかどうしようかと、うろうろしていると、そのうち勝手にドアが開いた。
目が合う。
シュウだった。
茶封筒を持ったまま、彼は一度足を止める。
「あ、お帰りなさい」
土曜日でお休みの日とは言え、こんなに早く帰ってくるとは思わなかった。
けれども、さっきのあの騒ぎを見られなくて本当によかったと、ほっと胸をなで下ろす。
彼は、しかし大きな注意を払うことはなく、そのまま自分の部屋の方に行ってしまった。
あ。
メイは、ぱっと視線を彼に向けた。まだ背中が見える。
「あの!」
勇気を振り絞って声をかけると、シュウは自分のことだと分かったのか足を止めた。
「何でしょう?」
振り返る事務的な態度にもめげず、メイは一つお願いをした。
「あの…済みません。何でもいいんです…何か、本をお持ちじゃないでしょうか?」
カイトの部屋に本はない。
いや、いくらかはあるのだが、コンピュータ系の雑誌のようなものばかりだ。
この人なら本くらいはたくさん持っているような気がした。
そういうタイプに見えたのだ。
本でもあれば、明日まであるたくさんの時間を、考え過ぎるだけで浪費しないような気がしたのである。
シュウは一度彼女を見て、けれども、すぐにまた行ってしまった。
パタン、とドアが閉ざされる。
ため息をついた。
ダメモトとは言え、メイのことを、多分快く思っていない相手に向かって言うには不躾過ぎたのだろう。
あきらめて、メイは調理場の方に向かった。
パタン。
背中の方でドアが開く。
ばっと慌てて振り返ったら、あの規則正しい足音が戻ってくるではないか。2、3冊の本を持ったまま。
「どうぞ」
渡す時まで事務的な口調だ。
しかし、メイは嬉しくなった。
この人も、実は言葉が足りないだけで、いい人なのかもと思ったのだ。
「ありがとうございます。大切にお借りします」
本を抱えて、ぺこりと頭を下げた。
しかし、シュウはまた来た時と同じ足音で、さっさと部屋に戻っていった。
やはり理解しがたい人であることには、変わりないようだった。
メイは、調理場に雑巾を助けに行きながら、本の表紙を見た。
随分厚いハードカバーの本である。
が。
足を止めた。
『戦略的経営学』
『経済を科学する七つ道具』
『マーケティング六法』
悪気なんて全然ないんだと、メイはすぐに理解した。
何て、あの人が持っているにふさわしい本なのかと思ったのだ。
ただ少し、本を貸してとお願いしたことを、後悔したのは間違いなかったが。
でも、何だかおかしくなって笑ってしまって―― ちょっと元気が出た。