12/04 Sat.-1
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リリリリリン。
思ったより勢いのない目覚ましの音が、頭の上で響く。
その音に、メイは慣れていなかった。
昨日買ったばかりの目覚まし時計だ。
それまでは、この客間には壁掛けの時計が一つあるだけだった。
元々規則正しい生活をしていたので、身体が覚えている感覚で朝寝坊をせずに済んではいたが、さすがにこれからもずっと大丈夫な自信はなかった。
寝る時にそんな不安がつきまとっていたせいで、毎夜緊張感ある睡眠時間になっていたのだ。
何度寝坊したと思って、夜中に飛び起きたことか。
だから、昨日ハルコと服を買いに出た時に、ちっちゃくて安い目覚まし時計を一つ買ったのだった。
ぱち。
熟睡中ならもしかしたら聞こえないのではないかと思う目覚ましでも、メイには十分だった。
少なくとも、昨日までよりはぐっすり眠れたからである。
彼女にとっては、目覚まし時計は敵ではなかった。
それどころか、大事な協力者なのだ。
止め方が分からずに少しまごついたが、無事目覚ましのベルを切る。
ベッドから下りて。
しん、と冷えた空気の中で、彼女は準備を始めた。
顔を洗って歯を磨いて、大慌てで着替える。
暖房をつけていなかったのだ。
「うふふ…」
しかし、そんな寒さよりもメイは袖を通している服に、ニコニコしてしまった。
デパートに売ってあった安いジーンズとトレーナー。
それと、やっとエプロンも手に入れたのだ。
髪の毛を、ゴムで後ろでひとくくりにして。
「よし!」
嬉しくなって、メイは鏡の中の自分を見た。
これなら汚れても平気である。
どんなことだって出来そうな気になってくる。
確かに、彼女も年頃だから綺麗な格好をしている方が嬉しい。
その気持ちは本当だ。
でも、それだけを着て生活をするのは至難の業だ。
自分がどういう方面で失敗するか、よく知っていたのである。
よく知っていても、毎回防ぎきれない自分がはがゆいのだが。
とにかくこの格好なら、床でも棚の上でも窓でも綺麗に磨き上げることだって可能なのである。
まだ、朝は早い。
きっとカイトは、遅くまで寝ているのではないかと思った。
夜、一度目が覚めた時、廊下を歩くような足音が聞こえたから。
随分夜更かしのようだった。
だから、今の内ならいろんなことが出来そうな気がした。
二階でバタバタすると、睡眠の邪魔をしてしまいそうなので、一階の調理場辺りから掃除を済ませようと思っていたのだ。
メイは、そっと部屋を出て廊下を通った。
足音を忍ばせて。
しかし、トラブルが起きた。
きゅるるっ。
ちょうど、彼の部屋の前にさしかかった時、恥ずかしいことにおなかが鳴ったのだ。
慌てて、キョロキョロしてしまう。
いまので、カイトが起きてしまったのではないかと思ったのだ。
そんなワケはなかったが。
健康的な生活をしているせいか、おなかがちゃんとすいてしまうのである。
掃除の前に朝ご飯をもらおうと、おなかを鳴らしてしまった自分に赤くなりながら、階段を降りていったのだった。
昨夜の残りが、まだ結構あったはずだ。
あ。
そうして、幸せな記憶も一緒に甦る。
昨夜の残り――すなわち、カレーなのだ。
カイトが、本当に心から『うめぇ』と言ってくれた一品である。
あの時の気持ちを、メイはずっと忘れない。
絶対。
その嬉しさを忘れられず味をしめ、また間をおかずにカレーを作ってしまいそうな自分が想像できて、更に赤くなってしまった。
もっともっとおいしく作れるようにならなくちゃ!
そうしたら、きっともっと嬉しくなれるような気がしたのだ。
メイは、朝からすごく上機嫌になってしまって、鼻歌がこぼれている自分に気づかないままダイニングに入ったのだった。
あら?
入った瞬間に違和感を感じて、メイは足を止めた。
ダイニングの景色を、キョロキョロと見回す。
何が変と言うわけではない。
具体的には表現できないのだが、彼女はちょっと首をひねった。
別に気にすることもないかと、調理場の方に向かう。
また、違和感。
いや、今度は圧倒的にはっきりと分かる違和感だった。
「あっ!!!!!」
メイは、思わず大声をあげてしまった。
ガスの上に乗せたままにしていたカレー鍋が―― そこになかったのである。
「う、うそ…」
メイは、一生懸命まばたきをした。
ガスの上にあったはずのカレー鍋は、流しの横においてあった。
その周囲には、乾き切れていない水たまりがいくつも。
皿も。スプーンも。
きっちり、1つずつが置いてあった。
昨日洗ったお皿なら、拭いて食器棚に戻したはずなのに。
どうして、そんなところに。
呆然としながらも、彼女はカレー鍋のフタを開けて中を覗き込む。
からっぽだった。
いや、乾き切れていない水だけが、底の方にちょっとたまっている。
洗った後に、水気をきちんと切ってないからだ。
元々、その鍋には何が入っていたかも、いまでは推理できな――いや、出来た。
鍋の縁に焦げてこびりついていたカレーの一部が、そのまま付着していたのだ。
それをじっと見てしまう。
次に、お皿とスプーンを見る。
お皿を持ち上げる。
洗ってある――が、皿を裏返した時に、そこにも薄い黄色が残っていた。
綺麗に洗ってあったのは、結局スプーンだけだったのだ。
これって。
頭の中で、いろんな推理がかけめぐっていく。
もしかして。
空想のパズルが出来上がっていく。
1カットずつ切り替わる画面が、少しずつなめらかに頭の中でムービーになっていく。
その主人公は。
「う…うそ……」
言いながら、メイは目が笑ってしまった。頬も。唇も。
こらえきれなかったのである。
身体の内側から一斉に、彼女を喜ばせようとするのだ。
何もかもが。
そこにあるものの、何もかもが――カイトだったのである。
きっと、夜中にカレーをたいらげたのも。
空になった鍋と、使った皿やスプーンを洗ったのも。
そうして、その洗い方がこんなにやっつけ仕事なのも。
どれもこれも、カイトそのものだった。
おなかがすいたのだろう。
カレーが残っていることを覚えていたのだろう。
だから、ここまで来て食べて行ったのだ。
カイトを想像する。
普通の彼ならきっと、お皿を洗ったりしないだろう。
鍋なんかもってのほかだ。
けれども、それを片付けるのがメイだということを知っていたカイトは、きっと負担をかけまいと洗ってくれたのである。
調理場にすすんで立って、綺麗にお皿を洗い上げる人とは思いにくい。
きっと、ガチャガチャガシガシ洗ったのだ。
よく手元も見ずに。
だから、こんな洗い残しが生まれたのだろう。
その時のカイトは、仏頂面だったに違いない。
仏頂面だったに。
いけない、いけない。
顔のゆるむ自分を叱咤するけれども無理だ。
寒い空気とは裏腹に、メイの身体の中も心の中も、どんどん温度が上がっていく。
彼が。
カイトが、夜中にここに来てまでカレーを。
彼女の作ったカレーを食べたいと思ったのだ。
それで、全部食べ尽くしてしまったのだ。
結構残っていたのに。
「どうしよう…」
どうもしなくてもいいというのに、メイは嬉しさの余りそんなことを呟いてしまった。
こんなに彼女を幸せにしてくれたカレーなんて、生まれて初めてだ。
昨日の夜から、魔法の連続である。
自分が朝ご飯を食べるには、まずお米を砥がなければならないという事実にもまだ気づけずに、メイはその皿洗い失格作品をずーっと眺めてしまったのだった。