12/03 Fri.-8
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クソッ。
カレーをがばがば口の中に突っ込みながら、カイトはまたもこんな汚い言葉を愛用していた。
たったいま、自分がさぞやアホみたいなツラで、本音をこぼしてしまったことに気づいたからである。
あと100回言っても足りないくらいだ。
軽く言えるお世辞なんて、カイトは大嫌いだった。
言うヤツも大嫌いである。
甘い言葉も愛の言葉も―― 連呼する相手なんて、絶対信用にならない。
ムカつくばかりだ。
だから、そういう言葉を自分で言わないようにしてきた。
それが子供の頃からの自分の中での決まり事だったので、すでにもう習慣というよりも、本能のように神経レベルまで染みついている。
言葉じゃ、気持ちを伝えられないのだ。
世の中には、本当の気持ちとやらを伝えるには、薄っぺらな言葉ばかりが存在している。
連呼されて使い古されて、見るに耐えなくて。
素直と称して、優しいと称して、うだつの上がらない言葉ばかりがもてはやされているのだ。
だから、カイトは吠えてきた。
木の上でさえずる代わりに、サバンナを駆けてきたのである。
自分の持っている能力という牙で、噛みちぎりながらここまで来たのだ。
見栄えこそ違え、シュウもそういう人種だった。
だから一緒にやってこられたのである。
なのに。
メイという女が一人増えただけで、いきなり世界は変わったのだ。
それどころか、自分すら変わってしまったように思える。
誰だって言える、お世辞でも笑顔で言えるような言葉を、『うめぇ』を毎回言っているのだ。
ひどい異常気象である。
しかも、今日のうめぇは――違うのだ。
いや、昨日までも確かにうまかった。
けれどもこのカレーほど、一瞬意識を吹っ飛ばしたりしなかった。
本当にうまかったのだ。
昨日までとどう違うとか、こうおいしかったとか、頭の中にいろんな情報は渦巻いているのに、どれもこれも世辞くさく、一山いくらみたいに安っぽく、とてもカイトは口に出来なかった。
そこらにいる、ナンパ野郎のようにはなれないのだ。
なりたくない、というプライドのせいで、余計に口にロックがかかる。
メイに表すことが出来るのは、このカレーを食べることだけ。
マズかったら食わねぇ。
嫌いだったら、絶対に同じ空間なんか共有しない。
両方ともクリアしているからこそ、いまカイトは、ここで彼女と夕食を取っているのだ。
けれども、きっとどう思っていようが、メイには分からないのである。
また、分かられてはいけないことだった。
ガタン。
カイトは席を立った。
メイが視界に入る。いきなり立ち上がった彼を、驚きの目で見ている。
彼は、無言でジャーを開けようとした。
皿の上は、もう空っぽなのだ。
「あっ! 私が!」
慌てて立ち上がろうとする彼女を、ギロッと睨む。
ビクッと動きを止めたのをいいことに、カイトはどんどんご飯をよそった。
次はカレー鍋だ。
黙々とカイトはカレーを食べ――もう一度、勝手におかわりをした。
げふっ。
調子に乗って食べ過ぎたのが分かる。
しかし、求めたのは胃袋ではなく舌なのだ。
本当においしかったのである。
もう、あんなマヌケ顔で失言なんかはしなかったけれども。
メイも、食べ終わって水を飲んでいた。
しかし、女の食事がゆっくりだというのは、まったくもって本当だ。
カイトが3杯を片付ける速さと、メイが1杯を片付ける速さが同じなのだからビックリする。
とりあえず、カイトもグラスに口をつけた。
食事ナシで静かな空気になると、落ち着かなくなってくる。
うまく話す言葉も見つけられないのだ。
カイトは立ち上がろうと思った。
その気配を感じたのか、メイはぱっと視線を向ける。
何だよ?
ちょっと眉を顰めてそっちを見やる。
内心は、ドキッとしていたけれども。
朝食と夕食の時が、唯一の接点と言っても過言ではない現状だ。
いろんな不自由とか希望とかも、彼女にはあるハズだった。
メイの口が一回開いて―― また閉じた。
頭の中で、言葉を整理しているような顔。
苛立ったワケではない。
しかし、また彼女が遠慮がちな言葉を口にするのではないかと思うと、落ちついていられなかったのだ。
その度に、自分がバカになるのが分かるからだ。
昨日のお金事件といい。
「あのっ…」
ようやく、言葉がまとまったのか口を開く。
カイトは視線だけで先を促した。
「あの…明日は会社に行かれるんでしょうか?」
「……!」
質問に、思い切り心臓が跳ね上がった。
昼間のシュウとのやりとりを、思い出してしまったからである。
あの時、いろんな気持ちが巡ったのを、その気持ちとやらを思い出したのだ。
まさかシュウが、さっきカイトが来る寸前に、余計なことを言ったのではないだろうかと勘ぐってしまいたくなるくらいだった。
「あいつから…何か言われたのか?」
だから、眉を寄せながら聞く。
「え? あいつって?」
しかし、メイの返答はきょとんとしたもので、彼はほっとした。
会社のことを第一に考えている男とは言え、そういうことに首を突っ込むヤツではなかったようである。
「いや、何でもねぇ」
となると、妙なことを聞いた自分が恥ずかしくなって、言葉尻を荒くしてしまった。
テーブルを、指先で叩きながらそっぽを向く。
「いえ、お休みだったら起こさない方がいいでしょうし、朝ご飯とか…その…いろいろ」
言いにくそうにメイは、それを口にした。
ああ。
言いたいことは分かった。
言いにくい理由も分かった。
カイトがそういうことに熱心になるのを、快く思っていないのは伝わっているのだ。
怒鳴られるとでも思っているのだろう。
彼は、横を向いたまま考えた。
会社に出社すれば、今日とまったく同じ一日が繰り返されるのだ。
朝起こしてもらい、朝食を食べて、ネクタイを結んでもらってバイクで出勤。
しかし、それは同時に、彼女が早く起きなければならないということでもあった。
出勤しなければ、ゆっくり寝ていられるのかもしれない。
ったく。
そういうポーズでふっと息を吐いて、カイトは頭をかいた。
がたっと席を立ち上がる。
そうして、背中を向けた。
「明日は…出勤しねぇ。朝メシもいらねぇ」
そこまでは、予定通りだった。
しかし。
ゆっくり寝てろ――という言葉を、カイトは言うことができなかった。
※
カレー腹を抱えて、カイトは階段を登った。
まだ、舌があのカレーの味を忘れない。
胃袋の限界さえこなければ、もっと食べたかもしれない自分に呆れながら、寒い廊下から暖かい部屋に入ったのだった。
明日は。
さっきのメイとの会話を思い出した。
明日は休みで。そして、明後日も。
カイトが出かけたりしなければ、おそらくずっと同じ屋根の下にいるということである。
同じ部屋を共有していた夜もあったが、あれは異常な世界だった。
嵐のように荒れ狂って、眠れたもんじゃない。
別の部屋になってからは、朝と夜の一瞬だけを共有していた。
明日は。
ずっと同じ家の空気を吸うということで。
それを自覚すると、カイトは眉を顰めた。
イヤなのではない。
イヤでない感覚が、彼の調子を崩してしまったために、そんな顔になってしまったのだ。
昼間のメイが、どういう風に過ごしているか、ついに知ることが出来るかもしれなかった。
人がどんな人生を送ろうが、しったこっちゃない。
個人主義のカイトには、人の活動なんか普通は興味がないものだ。
しかし、彼女のことだけは気になってしまうのである。
特に。
人の目を盗んで、熱心に働いているのではないかという――かなり強い疑惑があった。
それを思うと、物凄く腹が立つのだ。
『家政婦』なんて位置づけを、メイ自身が既にしているのではないかと思うと、すごくイヤだった。
もし、そういう場面に遭遇したら、おそらく自分が怒鳴るだろうという自信もあった。
この複雑な感触を、これまた彼女に伝える術がないのである。
腐るほど、自分の苦手な言葉が横たわっているせいだ。
それを一歩ずつ踏んでいけないカイトは、いつまでたってもメイと、まともな言葉を交わせそうになかった。
と、こういう風に、ふと気づいたら彼女のことで頭がいっぱいになっている。
ブンッと、カイトは頭を振った。
とりあえず風呂に直行する。
これから、社員がサーバに入れている新しいルーチンを見るのだ。
やりだすと、すぐに数時間がたつのは分かり切っていた。
今のうちに風呂に入っておこうと思ったのだ。
大体がシャワーで済ますのだが、今日は気まぐれに湯を張った。
今夜は長いし、明日は休みなのだ。
要するに、カイトはたくさんの時間を持たされていたのである。
湯がたまるまで、部屋に戻って、データのダウンロードをすませた。
ついでに、いろいろとダウンロードする。
日曜日までの溢れるほどの時間を、カイトはこういうことで消化するしか出来ないのだ。
バイクで出かけてもいいのだが――そういう気にはなれなかった。
そうしているうちに湯はたまり、カイトはノートパソをそのままに風呂場に入った。
何はとりあえず、風呂にざばっとつかる。
ふぅ、と腹の底から息を吐く。
しばらくぶりの湯船だった。
こんな、風呂につかっている以外にすることがないぼんやりとした時間は、かなり危険なものだった。
いろんなことを思い出してしまうからだ。
特に。
慌ててその思考を止める。
危なく、また彼女のことを考えてしまいそうになったのだ。
どうして、意識を占める割合が高くなってしまったのか。
仕事に集中している時には大丈夫なのだが、ちょっとでも隙間があるとすぐに。
ったく。
湯から上げた手で、頭をガシガシとかく。
色ボケしてんじゃねぇ、と自分を叱咤するが、居座っている彼女への思いは、絶対に立ち退こうとはしない。
どんな地上げ屋の攻勢にも、刃向かうつもりだ。
そんな時。
ふっと。
本当に、ふっとカイトは視線を水面に向けた。
ドキッ。
一瞬、自分の心臓が鷲掴みにされたのに気づいた。
驚きの余り、それから目を離せなくなる。
まばたきも出来ずに、じっと見てしまった。
「あ…」
驚きの声が、ようやく遅れて出てくる。
カイトは、見つけてしまったのである。
水面をあてもなくただよう、一本の――黒い髪を。
ハルコのものではない。
彼女は薄茶だ。
ということは、それが誰のものであるか推理するまでもなかった。
毎日、綺麗に掃除をしてある風呂場だ。
数日前に、メイが使ったなごりがまだある、とは思いにくい。
ということは。
風呂場の掃除をしたのは、メイという可能性が高いのだ。
掃除の時に、落ちたのに気づかなかったのかもしれない。
風呂場の掃除なんかしやがって――なんていう感情を起こしているヒマなんかなかった。
まず一番最初に、彼女がここの風呂を掃除して、その風呂に自分が入っているという自覚が、いきなり押し寄せてきたからである。
どういう気持ちかを説明しろと言われても困る。
しかし、それだけで心拍数が跳ね上がって、頭の中が混乱したのだ。
そこにメイが残していった証拠があるのだ。
いつも見るだけだった、柔らかい黒い髪である。
もしかしたら、最初に抱きしめた時に、身体のどっかには触れたかもしれない。
だが、意識してその髪に触れたことなんかなかった。
ここに――彼女が確かにいたのだ。
いろんなものに触れたり洗ったりしたのだ。
今更だが、それをいきなり意識してしまったのである。
思えば、あの部屋の全てが。
いろんなものが、メイの手や息に触れられているのかもしれない。
好きな女が、自分の部屋に匂いを残していっている。
そんな事実すら、彼は自覚していなかったのだ。
カイトは、慌てて風呂をあがった。
落ち着かなかったのだ。
とにかくあがるなり風呂の栓を抜くと、頭からシャワーをかぶるだけかぶって、そのまま出た。
バスタオルで適当に身体を拭き取って、慌てるように部屋に戻る。
まだ心臓がバクバクしていた。
「何やってんだ! クソッッ!」
髪からはまだ水がしたたっているのに、バスタオルを取り上げると床に叩きつけた。
自分の狼狽ぶりが、思い出すまでもなく、すぐによぎったからである。
誰にも見られていなかったからいいものの、これを見られていようものなら、もっと凄い荒れ方だっただろう。
ぽたっ。
髪からしずくが落ちて、絨毯の色を一カ所二カ所と濃くしていくが、そんなことは知ったことではなかった。
たかが、髪の毛一本で。
「クソッッ!!!」
自分の中のウィルスを見つけた気分で、それを無理にでも取り除くために、ノートパソコンの前に座ったのだ。
頭が濡れていることなんか、もう意識の端にもなかった。
集中していれば、きっと忘れる。
一度集中すれば、寝なくても平気な自分を知っているのだ。
新しい仕事に、意識の全てを突っ込んでしまおうと思った。
そうすれば、いつもの自分に戻れるのである。
ムキになって、キーボードとマウスを使った。
他のことを考えないようにして、見える情報だけを全てにする。
他の感覚は全てシャットダウンだ。
視覚と触覚以外の感覚を切り離して、開発用の能力とだけ直結する。
カチャカチャカチャカチャ。
ガチャガチャッ、カチカチ
夜が更ける。
布団が干してあるなんて――まだ、カイトは全然気づいていなかった。