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12/03 Fri.-7

 遅い…。


 メイは、保温プレートの上のカレー鍋をかきまぜながら不安になってきた。


 着替えているだろうカイトが、なかなか下りてこないからである。


 長い間一人でいると、もしかしてカレーはそんなに好きな献立ではなかったのだろうか、とか色々考えてしまう。


 でも、ハルコさんは一番好きな料理だって言ってたし…。


 もう一度呼びに行った方がいいかと思いかけた時、ようやくダイニングのドアが開いた。


 来た!


 メイは、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。


「いませんね…」


 しかし。


 ドアを開けたのはカイトではなかった。


 もう一人の住人、シュウだ。


 一歩踏み込むなり、中の様子をうかがう。

 視線は、ある人間の席を中心に移動していた。


 ここにカイトがいると踏んで来たに違いない。


 まさか彼が、カレーの匂いに誘われて―― なんてことは、どうしても考えられなかった。


「あの…多分、お部屋の方だと」


 気落ちしてまた鍋に戻りながら、メイはそう伝えた。


 その時。


「ああっ…」


 シュウが驚いた声をあげた。


 彼女も顔をそっちに向ける。


 見れば、シュウの身体がドアから引き剥がされているところだった。


「どけ」


 凄く不機嫌な一言と一緒に。


 あっ! あっ! あっ!!


 驚きの余り、おたまを落としてしまいそうだった。


 今度こそ、間違いなくカイトが登場したのである。


 シュウの身体が見えなくなった代わりに、カイトの姿が現れる。


 着替えを済ませたラフな格好だ。


 いつも通り、機嫌の低そうな顔でのご入場である。


 よかったぁ。


 しかし、そんな表情など気にもならない。


 メイは心底ホッとした。


 夕食を食べる気がないワケではないのだ。

 何か気に入らないことを、したわけでも言ったわけでもなかったのである。


「先日の書類の件でお話が…開発室の方に連絡したら、もう帰られたとのことでしたから」


 シュウは乱暴に引き剥がされても、まったく怯む様子もなく、彼の背中に向かって仕事の話をし始めた。


「明日、会社でもよかったのですが、出社されるかどうかはっきり分かりませんでしたので」


 カイトは足を止めた。


 顎を向けて睨んだにもかかわらず、やっぱり怯む様子はない。


 ある意味、メイは尊敬してしまった。


 ソウマといいハルコといい、本当にカイトの周囲を固めているメンツは、まったくもって彼を怖がったりしないのだ。


 彼女だって最近は、怒鳴られても少しは怖くなくなってきたのである。


 最初からすると大進歩だ。


 シュウも、彼が睨んでいるのには気づいているようで。

 最後に一つため息をついてから、付け足した。


「…手短にすみますが」


 ほんの数分です。


 その言葉を聞いて、カイトはまた顔つきを険しくした。


 メイをちらっと振り返った後、しかし、彼はシュウと部屋を出て行ってしまう。


 あ。


 行ってしまった後ろ姿に、彼女は寂しさを覚えた。


 しょうがない、お仕事なのである。


 それに、数分で終わるというのだ。

 あのシュウという人がそう言うのなら、おそらく間違いはないのだろう。


 分かってはいるものの、寂しいという感情はそんな思考とは違う部分から溢れ出してくるのだ。止めようもなかった。


 とりあえず。


 また、保温プレートの上のカレーをかき混ぜた。


 ※


 来た!


 足音で分かったメイは、慌てて作業に取りかかった。


 ご飯をお皿によそい始める。


 白い湯気が、一斉に彼女の顔を襲ったが、そんなものに怯んでいるヒマはなかった。


 やっと食べてもらえるのだ。


 カレー鍋のフタを開けた時、カイトは再びダイニングに入ってきた。


 ガタンッ。


 カイトの方を見ずに作業をしていたメイは、その音に無意識ににっこり笑ってしまった。


 カレー鍋の黄色い水面を眺めて、である。


 それに自分の顔が映っていたら、きっと恥ずかしくなってしまっただろう。


 彼が席についてくれた―― イコール食べる意思を、はっきり示してくれただけで、自分はこんなにも幸せなのだ。


 あとは、怒鳴るような『うめー』という言葉さえあれば、メイは幸せになれる。


 カレーをたっぷりかけて、それから彼のテーブルまで運んだ。


 ちらっと表情を伺ったが、カイトはじーっとカレーを見ていた。

 訝しげに見えるのは、きっと彼女の心配しすぎだろう。


 やっぱり、食べてもらったことのない料理というのは、カレーであっても緊張するものなのだ。


 じっとカイトがカレーを見ている間に、引き続き慌てて自分の分を用意する。


 食事を一緒に取るというのが、こんな短期間で習慣づいてしまった。


 やっぱり、誰かと食べる方がおいしいに決まっている。


 カイトだって、誰かとの食事は嫌いではないのかもしれない。


 あのシュウでは食事を同席するとも思えず、だから彼この家で食事をほとんどしなかったのではないか、とか考え始めたくらいだ。


 彼女が席についたのが分かったのか、カイトはスプーンで、その黄色い高地を抉る。


 スプーンを持ちながらも、メイはじっと行く末を見守った。


 ぱくっ。


 口に運ぶまでに一呼吸あったのは、きっと昨日の肉じゃがのせい。


 そう思うと可愛く見えて、うっかり笑ってしまいそうになった。


 彼が好きなカレーなのだ。


 ここで合格点をもらえないと、かなりのマイナスポイントのように思えて、少し怖くなってきた。


 じっと見つめる。


 カイトの口の中には、まだスプーン。


 そのまま、彼は数度まばたきをした。


 何もかも分からなくなりました、というようなほけっとした顔だ。


 スプーンが、口からカレーに戻った。


 一瞬、メイはそれに目を奪われた。


「うめぇ…」


 ぽろっと。


 そんな感じでこぼれた声。


 え?


 彼の指先から、ぱっと視線を上げる。

 その顔が、はっと我に返ったのが分かった。


 ふいっと横をむく顎。

 いま自分が言った言葉を、快く思っていない頬。


 わざと釣り上げた眉で、メイを威嚇するけれども、威力なんて全然なかった。


 うそ、うそー!!!


 合格どころではないセリフだった。


 怒鳴りなんかでコーティングされる前の、裸のカイトの声と表情だった。

 それを、カレーが引っぱり出してくれたのである。


 嬉しいどころの話ではなかった。


 一生懸命タマネギを炒めてよかった、とメイは手抜きしなかった自分を、ちょっとだけほめてあげる。


 嬉しさに引きずられて、彼女もカレーを口にする。


 あれ?


 まばたきをした。


 カイトと同じように、一瞬呆然としてしまったのだ。


 カレーが、おいしかった。


 自分が最初に味見をした時よりも、もっと。


 きっと――カイトが心からおいしいと言ってくれたから。



 魔法までかけてしまう人だった。

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