12/03 Fri.-6
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「あの…社長…」
「何だ!!」
物言いたげな声に、反射的にカイトは怒鳴っていた。
そして――ハッとした。
開発室。
仏頂面でカラッと椅子を回す。
スタッフたちは全員仕事中で、そのうちの一人がディスクを持って近づいてきていたのだが、彼の一喝に飛び退いていた。
他の連中も、何事かと遠巻きに彼らを見ている。
カイトは苦虫を噛みつぶす。
自分が、イライラしているのに気づいたのだ。
「すみません、お忙しいならまた後で…」
いまは機嫌が悪いと踏んだのか、相手は逃げちらかそうとしていた。
「いいから…何だ」
内心でクソッと呟きながら、カイトは間髪入れずに手を差し出す。
ディスクを持って来た、ということは彼に見て欲しいものがあるのだ。
いまの彼は、苛立っている自分に苛立っているという―― 非常に循環の悪い状態だった。
不況が不況を呼んでいるようなものである。
「あ、はい!」
その手が嬉しかったらしく、慌ててディスクが差し出される。
カイトは、コンピュータの方に椅子を回しながら、ディスクを差し込んだ。
いま作業しているデータを保存して終了すると、その中身を呼び出す。
「あの…その5番目のデータなんですけど…」
後ろから、ディスクの中身について話しかけてきている声に合わせて、作業的に手を動かしはするものの、イライラは消えてはなくならなかった。
仕事がうまくいっていないワケじゃない。
納期が迫って、せっぱ詰まっているワケでもない。
ネクタイ仕事が、緊急に入ったワケでもない。
原因はただ一つ。
コンピュータに常時表示されている、時計を見てしまったのだ。
開発にノッている時は時間を忘れる。
それは、カイトにとっては非常に有意義な時間だ。
おかげで、はっと時計を見た時には、定時を過ぎていた。
過ぎていた、と言っても6時15分というところだ。
今日こそは定時に帰ってたまるか。
カイトはそんな妙な足かせを、自分につけたのである。
シュウとの廊下でのことも引っかかっていたし、少しは自分をコントロール出来なければならないとも思っていた。
なのに、6時を過ぎただけで、こんなにイライラしてしまうのだ。
心と身体が、また彼のプライドに逆らおうとしていた。
「ざけんな…」
腹立ちまぎれに、そう呟いてしまう。
すぐ後ろに人がいるのも忘れていた。また飛び退かれる。
クソッ、クソッ、クソッ。
持ってきたデータのルーチンは、後ろに立っているスタッフが自分で考えたのか、いまの開発とは関係のないものだった。
定時を過ぎたから、見てもらってもいいと思ったのだろうか。
だとしたら、オタクのわりには品行方正である。
見たことのない新しいルーチン。
それは、カイトの興味をそそった。
しかし、一度我に返ってしまったいま、再びトランス状態に入るまで、かなりの時間が必要に思えた。
このはっきりと自覚できるほどのイライラを、食い殺さなければならないのだから。
ガタッ。
まだ内心で毒づきながら、彼は立ち上がった。
「しゃ…社長?」
ディスクを抜いて、持ち主に放り投げる。
彼は、あからさまに落胆の色を見せた。
このルーチンが、カイトにとって興味ないものだと判断されたかのような顔だ。
「サーバーエリアにぶちこんどけ」
カイトは上着を掴みながら、忌々しく言った。
「はい?」
うまく聞き取れなかったのか、動きを止めた社員に。
「家で見るから、サーバーにぶちこんどけっつってんだ!」
カイトは――また怒鳴ってしまった。
ガンッッ!
ガレージにバイクを止めると、ガンとスタンドを立てて。
ブルゾンと手袋を放り投げ、ざくざくと玄関に向かった。
大股で、肩をいからせて。
何だってんだ、何だってんだ!
いつの間に、自分はこんな身体になってしまったのか。
非常にマズイ事態に、なお苛立ち続けた。
カイトには、深夜までかかる納期前の仕事がある。
出張しなければならない時だってあるのだ。
家を空けることもあるのに、いまからこんな身体でどうするというのか。
仕事に障ってしょうがなかった。
だから、シュウの言葉がチクチク刺さるように聞こえるのだ。
仕事に関係することで、決して手抜きを許さない男だからこそ。
こんなに急いで帰りたくなる理由が、女なのだ。
たとえ相手のことを好きだとしても、もう少し落ち着けないものなのかと心に詰め寄る。
けれども、ワガママなカイトの心らしく、ガンとしてそういう意見を聞き入れなかった。
だから、こんな状況が出来上がっているのだ。
来週は。
ぜってー。
定時には。
カイトは一歩踏みしめるごとに、自分に対してのカセを一語ずつ噛みしめた。
少しでもコントロールしてから、以前の自分を取り戻そうと思ったのである。
定時には。
玄関のドアを開ける。
いまの自分の決意を示すように、強い勢いでバターン!!―― と。
帰ら…。
「おかえりなさい!」
カイトは、最後の一歩を踏めなかった。
それよりも先に、明るい声で迎え入れられてしまったからである。
バシュッッ!
頭の中で、一瞬フラッシュのような閃光がひらめいた。
そのせいで、モヤモヤしていたものとか怒りとか何とかが、一瞬、全部消えてなくなったのだ。
メイが、彼の帰りを嬉しそうに迎えてくれている。
ただ、それを見ただけなのに。
それだけなのに、カイトのカセも何もかもが一瞬吹っ飛んだのだ。
腕が。
自分の腕が、また彼女を抱きしめたがっている。
ぐっとこの胸にかき抱いて、痛いくらいに抱きしめたがっているのだ。
心の中で欠乏しているメイという人間を、いっぱいに満たしたい衝動が全身で荒れ狂う。
腕が。
このまま、あと3歩踏み出して、腕を伸ばして、捕まえて。
「今日はカレーなんですよ」
しかし、カイトの衝動は――焼き切れた。
笑顔の彼女が、夕食の献立を口にしてから、ダイニングの方に歩き出したからである。
「着替えたら、下りて来てくださいね」
そう言って、昨日まではなかったエプロン姿で、メイは向こうの方に消えて行った。
はっ…。
カイトは頭を抱える。
また、いま自分の理性とかがすっ飛んだのだ。
たかが帰ってきただけで、彼女の顔を見ただけで、どれだけ自分がその存在に飢えているか思い知らされたのである。
足りなかった。
全然、メイが足りていないから、あんな衝動を覚えてしまうのだ。
使い物にならないポンコツの理性だった。
禅寺でしばらく修行でもしなければならないくらいだ。
いや、それで治るとも思いにくい。
しかし、ポンコツでもアナクロでもプロトタイプでもベータ版でも何でもいい。
いまのカイトは、それでも理性が必要なのである。
クソッ。
とりあえず着替えて―― この衝撃も一緒に脱ぎ捨ててこなければ、もう一度彼女に会えそうになかった。