12/03 Fri.-5
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「何か珍しいものでもある?」
ハルコにそう聞かれて、ようやくメイは視線を窓の外から横に移した。
彼女の運転は、静かな安全なものだ。
性格が出るというのなら、カイトの運転とはどういうものなんだろう、とちょっと彼女は考えてしまった。
怖い考えになっただけだが。
「あ、いえ…道を覚えようと思って」
視界に小さなスーパーや個人店みたいなのが、いくつか映る。
この辺なら、歩いて買い物にも来られそうだった。
しかし、まだまだ全然静かな地域だ。
「ああ、そうね…買い物に出たはいいけれど、帰れなくなったら困るものね」
くすっとハルコが笑う。
メイは、それには苦笑した。
地理には自信がなかったのである。
方向音痴というほどではないと思うけれども、知らない道を冒険することが少ないので、新しい道には緊張してしまうのだ。
「毎日、こうやって通ってらっしゃるんですね」
改めて、しみじみと口にしてしまう。
初めて来た時は夜中だった。
だから、こんな風に周囲の景色を見ることも出来なかったし、もし明るかったとしても、そういう精神的余裕はなかっただろう。
「何? カイト君のこと?」
ちらっと視線の端だけで、ハルコが聞いてくる。
「あ、いえ…ハルコさんです」
ちょっと恥ずかしくなってうつむく。
本当は、頭にカイトがよぎったのだが、それを正直に言えなかったのだ。
素直に恥ずかしかったというのもあるけれども、彼への気持ちを知られるのも怖かった。
ハルコに知られたら、いつかカイトに伝わってしまうかもしれないと思ったのだ。
彼女は、カイトとメイの最初の事情を知らない。
だからハルコにとっては、その気持ちはさして問題のないことかもしれなかった。
しかし、メイにとっては大きすぎる問題だったのである。
第一。
カイトに――軽蔑されたくなかった。
この気持ちが、お金を源に始まっているのだと思われたらすごくつらいし、もし本心からだと分かってもらえたとしても、その後に困るのはカイトなのである。
あの家に置いてもらえないかもしれない。
そう考えると、ぎゅっとメイは唇を閉ざすのだった。
「ああ、私のことね…でも、毎日ずっとというわけじゃないのよ。これでも、週休二日ですもの」
だから、明日と明後日はお休みよ。
クスッと小さな笑みを浮かべた後、ハルコはそう付け足した。
「ああ、そうなんですか…お休みなんで…」
え?
メイは、自分でそれを繰り返しながら、はたと口を止めた。
「ええー! お休みなんですか?」
そして、今頃驚いてしまった。
いろんなことが、一瞬で頭の中に巡ってしまったのである。
彼の家に来てから、ずっとハルコが毎日いてくれた。
だから、いろんなことを教えてもらってすることが出来たし、一日という時間とのバランスを気にせずに済んだ。
しかし、明日ハルコは休みだというのだ。
ということは、あの家に一人きりということになるのである。
掃除をしてもいいし、食事も作るのも、洗濯だってお風呂掃除だって構わないが―― そういうこと以外を、まだ彼女は学んでいないのである。
トラブルや不可解なことに頭をぶつけた時に、どう対処すればいいのか。
ましてや、昼間に時間なんか余ってしまったら、何をすればいいのだろう。
いきなりあの家の週末という、大きな海の中に放り出された気分になった。
「ええ、そうよ…あとは祝日もお休み。普通の会社みたいね」
赤信号で止まって、ハルコがこっちを向いてきた。
メイは、まだ呆然から帰ってきていないというのに。
「だって…でも…」
入社したばかりの会社で、いきなり先輩が休みになって、自分一人で職場にいなければならないような、そんな不安感。
「あら、大丈夫よ。週末は食事の支度とお風呂の掃除くらいだけでいいんじゃないかしら。また月曜日に一緒にしましょう?」
ゆっくり休んでもいいのよ。
と、ハルコは気軽に言いながら、車を発進させた。
そんな。
食事の支度とお風呂の掃除だけなんて、すぐに終わってしまう。
食事の支度をじっくりゆっくりやれば別だろうけれども、それでも時間が余ってしまうのは間違いないだろう。
一日という時間をもたせられそうにない。
「だから、あなたが明日や明後日に材料に困らないように、食事の買い物をしていかなくちゃね」
一緒に来てくれて助かったわ。
混乱するメイをよそに、ハルコが言葉を続ける。
彼女が言うには、あの家の冷蔵庫には、カイトが時々開けて食べられるような、日持ちのするようなものしか入れてなかったらしい。
仕事は不規則で、本人もきまぐれだから、生物など入れられないのだ。
シュウに関して言えば、冷蔵庫を開けたこともないのではないか、という話だった。
そうかもしれないと、メイも思った。
しかし、そんなことに悠長に思いを馳せているヒマはない。
「どうしよう…」
助手席で、彼女は考え込んだ。
明日という一日の使い方に、こんなに戸惑ったのはきっと初めてだった。
「カイト君は…」
ハルコが、ふっと彼の名前を出したので、ドキッとして思考を止めてしまった。
名前を誰かの口で綴られるだけで、こんな状態になってしまうのだ。
ハートの占有率が、昨日よりも上がったせいに違いない。
「あの会社も一応週休二日だけれども、カイト君は…どうするのかしらね」
女シャーロックホームズのように、ハルコは考える声で言った。
ええー!!!!
またも、メイは悲鳴だ。
今度は、心の中だけで済んだけれども。
カイトまでも、あの家に一日中いるなんて考えたこともなかった。
そんな日は、いままでなかったからだ。
朝と夜に会うだけの生活だった。
一週間というのは、こんなに週末にいきなり大きな変化を遂げるものなのだ。
働いていた時は、ただお休みの日でしかなかったものなのに。
「大体、土曜日でも出勤することが多いから…明日も出勤するのかしらね」
ふふっ。
最後に意味深に笑いながら、ハルコはすごく楽しそうな唇になった。
ああ、そうしてもらえたら。
メイは、少し気が楽になった。
明日も出勤してもらえたら、昼間の時間をちゃんと使えそうな気がしたのである。
勿論、一緒にいたいという気持ちもあった。
けれども、ずっと一緒にいる時のことを、全然シミュレーション出来ないのだ。
何分かおきに、怒鳴られるだけのような気がする。
うまく交わす言葉も見つけられないような気がした。
まあ、たとえカイトが家にいたとしても、どこかに出かけることだってありえるのだ。
昼過ぎまで寝るかもしれない。
部屋から、そんなに出てこないかも。
そうしたら、掃除をすることは出来るかも。
彼の部屋は無理でも、それ以外のところくらいなら。
まだ、本格的に掃除をしきれていないところがあるので、そういうところを中心にやっていれば、一日というのは意外と簡単に終わってしまうのかも。
メイは、明日という日の可能性をいろんなパターンで考えた。
「と、とりあえず…今夜聞いてみます」
戸惑いながらも、ハルコに何とかそう返した。
カイトがいるかいないかで、彼女の一日は大きく様変わりをするだろう。
それが分からないことには、明日何をしたらいいのかうまく判断できそうになかったのだ。
「そうね、そうしてみるといいわね」
うふふ。
楽しそうなハルコをよそに、何も決まっていない明日を目の前に置かれて、彼女は不安につつまれていたのだった。
決まっている未来は―― 今夜、カレーということだけ。