12/03 Fri.-4
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社内の廊下でシュウとすれちがう時に、今日初めてこの顔を見るということに、やっとカイトは気づくことが出来た。
同じ家に住んでいるのに、妙な話である。
別に、シュウと会わないからといって、寂しいなんて気色の悪い感触を覚えるワケではない。
ただ、彼女が来てからすっかり自分の生活サイクルが変わってしまったことに気づかされた。
まあ、メイについて、とやかくこの男に口を挟まれると、一瞬でカイトの機嫌は悪くなる。
かえって出会わない方が、彼の精神衛生上はいいのかもしれない。
「おはようございます」
向こうもカイトを認識したらしく、事務的な挨拶を口にする。
カイトは答えたりしない。
それが、いつもの彼らの関係なのだ。
ちょうど、開発室に行く道すがらのことだった。
すれ違って終わりのハズだったのだが、その前にシュウが足を止めた。
ああと、何かを思い出したかのように。
「ところで、明日はどうされますか?」
書類を持ち直しながら、シュウが聞いてくる。
その質問に、カイトは違和感を感じたが、すぐに理由が分かった。
いつもシュウは、それを金曜日の出社途中の車の中で聞いてくるのだ。
毎週の決まった確認事項のようなものである。
本道に入って、2つ目の信号辺りでの儀式のようなものだった。
左にポストが見えない状態で、こんなことを聞かれたせいで、違和感が押し寄せてきたのである。
そう。
明日は土曜日なのだ。
この会社は、週休二日だった。
納期前でなければ、基本的には土日が休みになる。
納期前であっても一応そうなのだが、その頃は休みなんて名ばかりの仕事漬けだ。
役員に、こういった労働基準は適用されない。
カイトとシュウなんて、その適用されない筆頭だった。
予定がなければ、いつも土曜日は出勤している。
しかし、その日にどうしてもしなければならない仕事というのは、別にカイトにはない。
開発室に入るのだって、ほとんどが最前線好きという趣味のせいであって、義務があるわけではないのだ。
ただ、彼が開発室に登場すると、スタッフは一気に緊張する。
勿論、社長のお膝元で仕事をする―― その緊張感のせいもあるが、元々ここは彼が個人で開発したソフトから成り上がった会社だ。
カイトのソフトのせいで、鋼南電気に就職や転職を決めたという連中ばかり、と言っても過言ではないようなスタッフの顔ぶれだった。
そんなカルガモのヒナたちの前に、カイトが現れるのである。
緊張が走らないハズがない。
彼が開発室に入ると、他のスタッフの仕事の能率が上がるのは確かだった。
これは、シュウの統計調査による結果であって、カイトが知っていることではなかったが。
明日。
ふっと何気なく、頭にカレンダーをよぎらせた。
そして――
「あぁ、明日も…」
出勤するぜ。
言いかけた。
そして、止まった。
いま、引っかかったのだ。
頭のピアノ線に。
彼女が。
メイが来て、初めての週末が訪れるのだ。
いきなり、カイトはそれを意識してしまったのである。
思えば、怒濤のウィークデイだった。
月曜日のムカつく仕事の後、本当に気まぐれに入った店に彼女がいて。
連れて帰って。
最初怖がられたが、ようやくいまは慣れてきているようだ。
しかし、慣れてきているのはメイの方であって、決してカイトではない。
おかげで、毎日心臓に悪い思いばかりだった。
その彼女は、いま一日中あの家にいる―― はずだ。
もしかしたら、買い物に行ったりしているのかもしれないが、真実をカイトは知らない。
出ているとしても、地理に詳しいワケはないので一人で行ってないだろう、くらいは予測がつく。
ともあれ、土曜日もメイはあの家に一日いる。
これまで一度も見たことのない、昼間の彼女がそこにいるのである。
カイトは会社に行く。仕事をする。
しかし、メイがその時間に何をしているのか、彼は知らなかった。
平日はハルコが通ってくるので、一緒に家事をしているのかもしれない。
「すんな」と何度言っても、彼女は聞かなかった。
今では、食事を一緒に取るのが当たり前の生活とでも思っているかのようである。
メイは、昔の彼を知らないのだ。
夜中に家に帰ってきて寝る。朝会社に行く。仕事する。何も考えずに適当に食べる。仕事する。仕事する。仕事する。食べる。仕事する。寝る。仕事する。仕事する。
日曜日に――まとめて寝る。
会社が忙しくない時ですら、カイトの生活はそんなものだった。
別に仕事の虫というワケではない。
趣味が、たまたま仕事と同じ名前を持っていただけなのだ。
そのカイトが、だ。
火曜日の取引はしょうがないとして、開発室の日に二日連続で定時にあがったのである。
このとんでもない事実を、おそらくメイが知ることはないだろう。
知られるワケにもいかなかった。
早く帰っているということ自体にも、彼は不本意なのだ。
いつものカイトは、一体どこに行ってしまったのか。
うう。
いま、自分が本当は何を考えようとしているのか半分は分かっていて、既にそれに眉を顰めているのである。
「社長?」
怪訝な声に、呼びかけられた。
「るせぇ、黙ってろ」
いま、カイトは考え事をしているのだ。
その邪魔をするなという意味も込めて言った後、ハッとして顔を上げた。
そこにシュウがいることすら、彼は失念していたのである。
ここは廊下で、すぐそこには副社長が立っているのが現実だった。
気がつけば、この2人の取締役が立ち止まっているおかげで、一般社員が遠巻きに彼らを見ていた。
もしかしたら、この廊下を通りたいのだが、怪獣とロボットの横をすり抜ける勇気がないのかもしれない。
チッとカイトは、忌々しい舌打ちをする。
シュウに聞こえたって構わないくらいに、はっきりと。
またも無様な姿を、さらけだしてしまった気分だ。
限りなく腹が立つ。
本当は、自分はこんな男ではないはずなのに。
腹を立てながら、カイトは無言で彼の横をすり抜けた。
「社長?」
返事なしの彼に、もう一度怪訝な呼びかけが飛ぶ。
しかし、振り返ったりしなかった。
「出社したけりゃ、勝手にすりゃあいい。オレも勝手にするぜ」
カイトは怒鳴り捨てる。
クソッ。
いつもなら、絶対に出社すると言っていたはずなのだ。
何の予定もなければ、100%間違いなく。
それなのに。
『好き』が―― まるで毒のように、カイトの身体を回っていく音がした。