12/03 Fri.-2
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「おはようございます」
朝日をバックに、メイが笑っていた。
カイトは、目を奪われた。
そう、昨日の朝と同じ事態に陥ってしまったのである。
クソッ。
彼女が出ていった後、頭を押さえて唸った。
こんな幸せで拷問な朝が、これから毎朝襲ってくるというのだ。
明日も明後日もその次も、起床の度に彼女の表情に撃ち抜かれるというのか。
冗談ではなかった。
心臓に悪い朝。
けれども、手放せない朝。
カイトは、内心でもう一度汚い言葉を呟いてから、ベッドを下りた。
あっという間に用意を済ませて、部屋を出ていこうとする自分に気づいていた。
メイの持つ引力とは、物凄いものだ。
しかし、ドアを開けかけた彼は、回れ右をする。
クローゼットに用事があったのだ。
ガシャン、ドシャン!
クローゼットに頭を突っ込んで、カイトはもどかしく暴れた。
捜し物以外には見向きもせずに掴み出す。
厚手のブルゾン。これはすぐ見つかった。
しかし、どこに突っ込んだのかもう一つの目当てがない―― と思ったら、収納ボックスの一番上に乗せてあった。
掴み出す。
ライダー用手袋だった。
昨日の失敗を犯すまいと思ったのだ。
その2点を掴んで、部屋を出て階段を駆け下りる。
足が、ダイニングに向かいかけたが止めた。
先にしなければならないことがあったのだ。
彼は玄関を出た。
途端、息が真っ白になる。
今日も、昨日に負けず劣らず寒いのだ。
大股でガレージに向かう。
まだ、シュウは出社していないので、シャッターが下りたままだった。
カイトは、脇にある通用口から入った。
中にあるボタンで、シャッターの開け閉めが、できるようになっている。
しかし、彼の目的はシャッターを開けることではない。
開閉ボタンに見向きもせずに、カイトは暗いガレージ内を歩いてバイクに近付いた。
シートに、持ってきたブルゾンと手袋を置く。
それが用だった。
昨日、彼はええ格好しいで、メイに寒くないと言ってしまったのだ。
その手前、手袋なんかを持ったままダイニングには行けなかったのである。
それを見たら、彼女が『やっぱり寒かったのに無理をしていたんだわ』と思うに違いないからだ。
ムカムカ。
ええ格好しいの虫がうずく中、けれども、いまの自分がマヌケなようにも思えて、結局不機嫌になるのである。
車のところに来たシュウが、昨日と違う光景に気づかないワケもない―― それも、不機嫌の原因だった。
しかし、いまの最優先事項は、あのロボットではなかったのだ。
ムカムカしながらも、ガレージを出る。バンと通用口を閉めて。
玄関に戻るまでに、すっかり彼の身体は冷えてしまっていた。
だが、これから温かい朝食が待っているのだ。
ダイニングに近付いていくだけで、それが分かった。
温かい匂いがする。
おそろしく懐かしい記憶だ。
もう、自分の中にはなかったんじゃないかと思うくらい古い記憶が呼び覚まされる匂い。
それを怪訝に思いながら、カイトはドアを開けた。
ふわっと、熱気が鼻面に押し寄せる。
冷え切った彼の身体には、温かい部屋すら熱気のように感じるのだ。
しかし、それで全身がほっとしたのも確かだった。
ドアを閉めておとなしく解凍されていると、メイが調理場の方から、パタパタとやってきた。
「鮭、焼けましたよ…」
嬉しそうな顔で、お皿を持って近付いてくる。
鮭が焼けたのが、どうしてそんなに嬉しいのか理解できなかった。
しかし、彼の席にそれが置かれて、ピンクの肌を見た時―― 懐かしい匂いの理由が分かった。
朝から魚を食べるなんて習慣を、長い間忘れていたのだ。
席についた彼の前に、真っ白なご飯と刻みたてのネギの浮いたみそ汁が置かれる。
それから、あったかいお茶。
カイトは、瞬きをするしかできなかった。
魔法のように、次々と温かいものが並んでいくのである。
彼が、さっきまでとても寒い思いをしたのを知っているかのように。
居心地が悪かった。
眉をしかめて、その感触をやりすごそうとする。
そんなカイトの様子に気づかずに、自分の分の支度を終えたメイは、向かいの席に座った。
にこにこと彼を見ている。
カイトが食べるのを待っているのだ。
がしっ。
みそ汁の椀を掴む。
乱暴な動きになったのは、心の中にいるメイのせいだ。
知らないことがたくさんある。
こんなに料理を出来る女だとは思っていなかった。
いや、出来なくたってよかったのに。
ずっ。
みそ汁をすすった。
熱い感じが、一気に身体の中に回り始めた。
カイトには、味について風情のある回答は何も出てこない。
大体、食べるという行為は嫌いではないが、そこまで執着があるわけでもないのだ。
シュウは、はっきりきっぱり『時間の無駄』と思っているようだが。
すすった後、椀を抱えたままメイを見る。
じっと、向こうも見ていた。
どうやら彼女は、毎回カイトに『うめー』という言葉を言わせようと思っているようだ。
あんな苦手な言葉を。
いままでだって、何とか絞り出してきたのに。
もう一口すすった。
まだ見ている。
心配そうな顔になってきたのが分かった。
クソッッ!
カイトは、その視線に耐えきれなくなった。
うめーに決まってんだろ!
叫びだしたい気持ちは、心の中で回し車のように空回りをする。
とてもじゃないが、言える言葉じゃなかったのだ。
おめーの作るもんは、何でもうまいなんて――どうして、カイトに言うことが出来ようか。
彼女が作ったということだけでも、既にすさまじい調味料なのだ。
それだけでなく、基本もちゃんとおいしい料理なのだ。
たとえ風情のない舌であったとしても、ちゃんと分かるくらいに。
メイが、だから不安そうな顔で見つめる必要はないのだ。
それをうまく伝えられない。
素直な口を、子供の頃に近所のジャングルジムに忘れてきたのだ。
今更、ジャングルジムに探しにいけなかった。
プライドとか性格とかが、ジャングルジムを夜にしてしまっているのだ。
真夜中の公園では、探し物は出来ない。
たとえ外灯があっても、虫が集まるだけで精一杯のかよわい光では、ハンカチすら探せない。
けれども、彼女は余りに心配そうだ。
がーっっっっ!!!! そんな目で、見んな!
心の中でわめきちらす。
しかし、それが相手に通じるハズもなかった。
うなりながら、椀をテーブルに戻す。
「うめぇ」
仏頂面で、身体の中から絞り出した一言。
もうこれ以上は、逆さまにして振り回されても出てこない。
なのに。
あんなに仏頂面で、本当においしいかどうかもナゾな口調で言ったというのに、メイには十分なのだ。
嬉しそうに一つ微笑んで、ようやく自分の食事に取りかかる。
バッカやろー。
シャケを乱暴に解体しながら、カイトは唸った。
素直に受け止められると―― もう理屈なんか抜きに、ただその笑顔が心の中に焼き付くだけなのだ。
最初の頃に、全然見ることの出来なかった彼女の笑顔が増えていく。
その度に、自分の中身を覗かれているような気がしてしょうがなかった。
落ち着かなく、かなりな勢いで食事をたいらげる。
そうして立ち上がった。
メイは、まだ食事の途中だったが慌てたように立ち上がる。
しなくていい!
なんてことは、どうしても言えない朝の儀式。
彼女が一番側に近付いてきて。
息づかいも分かるくらいに。
髪が揺れて、その指がカイトに魔法をかけるのだ。
きゅっ。
ネクタイを締めて上げる指と一緒に、胸が同じ音を立てる。
「いってらっしゃい」
間近の笑顔に、また胸が音を立てる。
しかし、カイトは無言で離れた。
こんな胸の音の時に、長く彼女の側にいられない。
理性という鎖がきしむのだ。
まだ――全然ダメだった。