12/03 Fri.-1
●
準備万端。
メイは、おみそ汁の鍋をダイニングの保温プレートに運んだ。
ご飯も炊きあがったし、塩鮭は焼くだけ。
これは、彼を起こしにいった後だって間に合うハズだ。
昨日ハルコが、彼女の希望商品を買いに行ってくれたおかげだ。
こういう生活費は、許可なく使っていいのよ、とウィンクしながら。
おかげで、肉じゃがも作れたのである。
あとはおつけ物が欲しいけれども――それは、おいおい増やしていこう。
すっかり和風な朝食の準備が出来て、メイは時計を見た。
7時45分。
昨日起こした時間よりも、10分早い。
怒られないかな。
それだけが、彼女の心配だった。
朝起きるのが苦手とか嫌いな人がいる。
10分あったら、食べるより寝るという人がいるのを、メイは知っていたのだ。
学生時代、大体の男の子はそうだったし、女の子にも結構いた。
でも、遅れるより。
怒られるのは、とっくの昔から覚悟している。
予定では、昨日既に玉砕するハズだったのだ。
けれども、カイトは朝食を食べてくれた。
朝食のために、バイク通勤にまで変えてくれたのである。
怒鳴っても優しい人。
彼への評価はそれだった。
自分の中の、『好き』とも絡むものはあるけれども、その気持ちが芽生えなかったとしても、きっと彼女はカイトを尊敬する意味で好きになっていただろう。
普通は、こんな『女』な気持ちを覚えてはいけない相手だった。
でも、仕方がない。
メイは、ダイニングを出ながらカイトを思い出した。
見るもののどれもこれも、好きを上塗りしていくだけなのだ。
乱暴な態度とかきつい口調とか、怖かったし何かされるんじゃないかという不安が、最初はつきまとっていた。
けれども、それがボロボロとはげていく。
いつか見た、ディズニーの『美女と野獣』の野獣のようだった。
乱暴で。
きつい口調で。
本音が一番最後、もしくは最後まで見えない。
メイは、自分があてはめたたとえに、クスッと笑ってしまった。
あまりにピッタリだったのである。
勿論、カイトに魔法はかかっていないだろうけれども。
階段にさしかかる。
そこで、少し気分が沈んだ。
それじゃあ、私は野獣に幽閉されてる町娘なのかと思ったら、そうではなかったからだ。
何を考えてるの!
メイは、こんな自分はイヤだった。
沈む理由も必要もないはずだ。
彼女は、あの物語のティーポットになればいいのだ。
野獣のことを理解して、いつかカイトにとっての本物の美女が現れた時に、出来る限りのことをすればいいのである。
いつか本物の。
そう思った時には、彼女はもうカイトの部屋の前にいた。
しっかりしなきゃ。
一つ大きな深呼吸。
ずっと側にいたいんだもの。
ノックノック。
「おはようございます」
呼びかける。そんなに大きくはない声で。
ドアの向こうは無反応だ。
きっとまだ寝ているのだろう。
「失礼しま…」
カイトを起こそうと、そっとドアを開けた瞬間―― 彼女はあわや悲鳴をあげてしまいそうになった。
室内は。
いや、彼女が入ってそう遠くないところに。
お金が散乱していたのである。
とんでもない光景に、メイは息を詰めた。
でないと、本当に悲鳴が出てしまいそうになったのだ。
帯で止められて無傷な分もあるが、その内の一つから、派手に飛び散っているのである。
どうみても。
さぁっと青ざめる。
どう見ても、昨日メイが受け取りを拒んだお金だった。
それが、朝にはこの惨状である。
カイトは、物凄く怒っていたのだろうか。
お金を床に叩きつけて、こんな風にしてしまうくらい。
ど、どうしよう。
オロオロしてしながらも、このままじゃいけないということだけは分かる。
とりあえず、床にちらばっているお札を拾い集めた。
お金は、こんな風に床に置いておくものではないのだ。
慌てる指では、なかなかうまくいかない。
しかし、お札を集めている内に、だんだんオロオロが消えていく。
代わりによぎるのは、カイトへの評価。
何て人なの!
心の中でそんな風に悲鳴をあげた。
これがいけない。
毎日、メイの予想が何もかもがあっさりと裏切られて、信じられない事件が起きる。
本当に毎日、だ。
出会ってから数日だというのに、カイトの感覚は、彼女の知っている世界を遙かに飛び越えていた。
落ち込んでいるヒマなんか、すぐになくなってしまうのだ。
振り回されるので精一杯。
そうなると、胸がドキドキする虫に噛みつかれるばかりで防衛する術もない。
とにかく、かき集めたお札を綺麗に重ねて、パソコンのある机の上に置く。
これなら、カイトだってすぐに気づいてくれるだろう。
帯からこぼれたお札を下に置いて、上から重石の意味で綺麗にたばねられているお札を積む。
本当は、机の中とかの方がいいのだろうが、勝手に開けるワケにもいかないし、カイトだってどこにあるか分からないだろう。
そうして、ノートパソコンの横に、札の山というレイアウトが出来上がるのだ。
余りの不思議な構図に、それだけで一つ物語が出来てしまいそうだった。
コンピュータと札束を抱えた野獣の姿が頭を掠めて、ふっとメイは笑ってしまった。
「う…」
彼女の心の騒音にでも気づいたのだろうか。
ベッドの方から、うめくような声が聞こえる。
ドキン!
慌てて、メイは振り返った。
毛布の卵を蹴り割るように、カイトはそこから生まれた。
面倒くさそうに身体を半分だけ起こしたのだ。
頭を抱えるような手の動き。
寝癖の頭。不機嫌そうな顔。
そして。
昨日のままの姿。
トレーナーにジーンズだったのだ。
男の人らしいというか――カイトは、その辺に全然頓着をしないのである。
もしかしたら、会社に着ていくワイシャツのまま眠ってしまうこともあるのかも。
想像すると、少し怖いけれどもおかしくなった。
「おはようございます」
勝手なことをしたと叱られそうで、お札を背中で隠すようにしながら朝の挨拶を、笑顔で呼びかけた。
バッと驚いた動きで、カイトが頭を動かす。
きっと、彼女がいるとは思っていなかったのだ。
驚いた顔のまま、じっと彼女を見ている。
目を大きく見開いて。
ああ。
カイトは、きっとまだ彼女のいる生活に慣れていないのだ。
こうやって、毎朝起こされるという感触も。
「朝ご飯出来てますから、用意が出来たら下りてきてくださいね」
でも、もしかしたら何か怒鳴ろうとか思っているのかもしれない。
その可能性も捨てきれず、メイはその部屋を出ていこうとした。
昨日のように、言うだけ言って逃げようと思ったのだ。
それに、カイトがお金のことに気づいてしまうかもしれない。
床ではなく、机の上にあることを。
そうなるとまた、彼の朝食の時間が少なくなってしまいかねなかった。
「今朝は、ネギと豆腐のおみそ汁です。あと、鮭も焼いてますから」
カイトが他のことに気を取られないように、朝のメニューをまくしたてながらその部屋を出て行く。
パタン。
ドアを閉めたら、そのままふーっと一つ息をつく。
よかった。
今朝も怒鳴られなかった。
もしかしたら、カイトは単に低血圧で、朝から怒鳴る気がしないだけかもしれない。
あっけに取られているだけかも、慣れていないだけかも。
理由は、何だっていいのだ。
もうすっかり上機嫌になったメイは、軽やかな足取りで階段を駆け下りた。
そのまま――歌い出しそうな気分でダイニングに戻った。