12/02 Thu.-18
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あ、やっぱり…。
メイは、身が縮む思いだった。
カイトが、ひどく驚いた顔をして彼女を見ていたからである。
見事に動きまで固まっているのが分かった。
やっぱり、呆れるような申し出だったのだ。
それもそうだろう。
最初にあれだけの借金を返済してもらった相手に、しかも、家にまで置いてもらってる相手に、更に金を貸せと言っているのだ。
普通なら、呆れて当然である。
ああ、でも違うの!
メイは弁解しようとした。
くだらないことのために使うワケではないのだ。
それは確かに、汚れてもいい洋服というのは、余り大きな声では言えないかもしれないけれど、あとはおみそ汁の具であるとか、そういうもののために使える金額があれば。
頭では分かっているものの、いざそれを言葉として出そうとするとうまくいかなくて、いたずらに口を開けたり閉じたりするので精一杯だった。
うまくしゃべらないと、またカイトに怒鳴られてしまいそうな気がしたのだ。
沈黙は長くはなかったけれども、この空気を平気な顔で味わえるほど短くもなかった。
ついに、もう何でもいいからしゃべろうと決意して口を開けた時。
カイトは、いきなり彼女に背中を向けた。
ドスドスと大股でダイニングを出ていくではないか。
あっ!
メイは、不安のどん底にたたき落とされた。
その背中があっという間にドアを開けて、その向こうに消えた時―― ヘナヘナと床に座り込んでしまう。
勇気を振り絞ったのだ。
何度も、言おうかやめようか考えて考えて、迷って、でもようやく口にしたのである。
なのにカイトは行ってしまった。
無言で。
ああ、どうしよう。
きっと呆れられてしまったんだと思ったら、目の前が真っ暗になる。
せっかく、いままで何となく良い方向に流れてきていると感じていたのに、それがいきなりリセットされて、「はい、ふりだしから」とスタートに戻されてしまった気分だった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう…。
ダンダンダンダン!
え?
ダンダンダンダン!
メイは、顔を上げた。
ダンダンダンダン!
音の方を見る。
ダンダンダン、バタン!
カ――イトだった。
あの床を震動させるほど強い足音で近付いてきて、たったいまドアをぶち開けたのは、カイトだったのである。
肩が上下しているのは、急いでいたせいか。
メイも、慌てて床から立ち上がる。
何事かと驚きながら。
ダンッ!
極めつけの一撃を、カイトはテーブルの上に強く置く。
ピン札だった。
いままで、誰にも使われたことのないような、触ると切れてしまいそうなお札。
それが、一分の狂いもなく正確に重なっていて、帯で止められている。
帯?
メイは、驚いて目を見張った。
見れば、カイトはその帯留めを3つもそこに叩きつけていたのである。
ま、待って!
一瞬、メイの計算機は壊れた。
とっさに、全部でいくらなのか計算できなかったのだ。
しかし、カイトはそれを置くや、顰めっ面のまま同じ勢いで出て行こうとするではないか。
これには、メイも更にビックリしてしまって。
「カイト!」
悲鳴のように――彼を呼び止めた。
名前で。
いつもの『あの…』では、止まってくれないような気がしたのだ。
もう、神経すり減らしてまで、その名前で叫んだ。
ビクッッ。
カイトの身体が震えて、そして、止まった。
「あの……」
しかし、ここからはいつものメイになってしまう。
ああ、何て呼び止め方を、と自己嫌悪に陥りながら。
「足んねーのか!」
振り返りざま、カイトが目をむいて怒鳴った。
違うんですと、彼女はうまく説明する自信がなくて、お札に近づいた。
そうして、その山の一つの中から、1枚だけ抜いたのだ。
「これで…その…十分です」
大切にお借りします、ありがとうございました。
その一枚を胸に抱いて、ぺこっと頭を下げる。
「……?」
それで全ては解決するハズだった。
けれども、頭を上げたメイが見たものは、いまにも爆発しそうに顔をひん曲げているカイトの表情だった。
奥歯を強く噛み合わせている顎の動きと、眉間の影。
それと角度を強くした眉。
間違いなく怒鳴られるハズだった。
けれども、カイトはそのままダイニングを出て行ったのである。
残りの札束を置きっぱなしで。
う、ウソ!!!!
メイは大慌てだ。
こんなところに、大金と自分を置き去りにしていったのである。
いくらカイトが金持ちとは言え、こういうことはきちんとしていなければならなかった。
これは、自分が稼いだお金ではないのだから。
札を抱えて追いかけようと廊下に出る。
しかし、彼は振り返る様子もなく、すごい足取りで遠くに消えていく。
階段にかかったのか、曲がった後背中が見えなくなる。
とんでもない結末に、メイはとにかく追いかけた。
これを返さないといけないのだ。
ちゃんと安全なところに。
お願い、待って!
小走りになる。
階段ののところに出た時、ちょうど帰ってきたらしいシュウと出会ってしまう。
反射的にぺこっと頭を下げはしたものの、もう見えなくなったカイトを追いかけるために、階段を駆け上がった。
豆台風のように。
その台風にまばたきを一つした後、眼鏡の位置を直すシュウ。
何事もなかったかのように自室に戻っていった彼を、メイが見届けることはなかった。
とにかく彼女は、この階段をいままでで最速で登ったことだけは間違いなく。
部屋のドアに手をかけたところのカイトに、ようやく追いつくことが出来たのだ。
「カイ…っ!」
呼ぼうとしたけれども、息が切れてうまく呼べなくて。
ようやく足を止めてくれた彼の前で急停止しても、乱れた呼吸を整えるのが先決だった。
でないと、言葉が出せそうにないのだ。
しかし、急いで言わなければならないことがあった。
「こ、こんなに…お借りできません!」
ずいっと彼にお札の塊を差し出す。
「持ってろ!」
しかし、返事は一喝だった。
有無も容赦もない一言。
「でも!」
メイも引けない。こんなに過ぎるお金を借りたかったワケではないのだ。
とりあえず1枚あれば、当座のやりくりで何とかなるのである。
「返せなんて言ってねー!」
なのに、信じられないことを言うのだ。
人がいいにもホドがある。
この調子では、彼の財産を食いつぶしかねなかった。
「ダメです! 絶対、ダメです!」
だから、今までになく強い口調で拒否した。
「この一枚をお借りできたら、いまの私には十分なんです! それ以上のお金を、無駄に使って欲しくありません!」
言葉が、ちゃんと出た。
いつもなら、あのー、そのー、とつっかえるのだが、この時ばかりはちゃんと言いたいことが言えた。
「もしも、不要なお金なら…これで…また、別の人を助けてあげてください」
お願いします。
メイはもう、十分してもらったのだ。
まだ、カイトが恩返しのツケが終わっていないと思うのなら、他の同じような境遇の人を救って欲しかった。
そうすれば、このお金だって全然無駄じゃないのである。
彼女は、その気持ちを強く込めて頭を下げた。
「そんなん…!!」
カイトが怒鳴りかける。しかし、ぴたっと口を閉ざした。
何を言いたかったのかは、彼女には分からない。
メイは顔を上げて。
そうして、もう一度お金の山を強く差し出した。
もう、こんなに大金は自分には必要ないのだという意思を込めて。
しかし、まったく気が済んでないという顔のカイトと視線がぶつかる。
ささやかなフォローを一生懸命口にした。
「ただ…今後、生活必需品等でお金が必要になったら、ハルコさんの預かられている生活費の方を少し分けていただければ…それだけ、お願いできれば、本当にこれをお借りする理由がないんです」
勿論、無駄遣いなんかしません!
ちゃんと、言えた。
よかった。
メイは、ホッとした。
自分の気持ちを、綺麗に言葉に乗せることが出来たのだ。
後は、カイトがどう受け止めてくれるかである。
頬の筋肉が、何かをこらえているようにピクピクと痙攣していた。
また、奥歯も強く噛み合わされていて。
おこら…ないで。
メイは、そんな彼を見つめながら祈った。
「好きにしろ!」
札束はひったくられ――そうして、カイトは部屋に消えた。
バターン!
部屋のドアは、彼女の髪を揺らすほど強く閉ざされた。
しかし、メイはそのドアの前で嬉しさに微笑んでしまった。
ちゃんと気持ちが通じたのだと、そう思えたら、顔が勝手に幸せを表現してしまったのである。
その笑顔のギャラリーは、ドアだけだった。