11/29 Mon.-6
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おせぇ。
カイトは、最初ノートパソコンの電源を入れた。
こうして、パソコンの前に座って仕事をしているフリでもしておけば、彼女が着替えて出て来るまでには、荒れ狂っている何かもが、おさまるだろうと思ったのである。
しかし、ネットワークにつないでみても、仕事の続きの画面を呼び出してみても、上の空で、意識の矢印は全て脱衣所のドアに向かっていた。
なのに、10分たっても、15分たっても、ドアが開く気配がない。
いくらなんでも、あのシャツを着るのにそんなに時間がかかるはずがなかった。
おせぇ!
がたっとイスから立ち上がる。
何かあったんではないかという不安と――大体、こういう不安を覚えるところで、更に彼は苛立つのだ。
何をしても、どう考えても、どれもこれも本当に自分らしくない。
しかし、こらえきれずに脱衣所のドアの前まで行く。
あー……うー……。
そうして、カイトは気づくのだ。だから唸った。
このドアを開けるための言葉を、何も持っていないのだ。
もしも、中でまだ着替え中だったら。
裸同然の姿を店で見たとは言え、いまはまたケースが違うのだ。
うーーー。
動物のようなうなり声を内心で立てながら、けれども、もう我慢できなかった。
何やってんだ!
「おい……!」
ガチャ!
考えることを放棄した途端、身体が動いていた。
遠慮会釈もなく、勢いよくドアを開けたのだ。
へ?
そこには――信じられない光景が広がっていた。
彼女は床に座っていて。
肩越しに振り返っている。
驚いた顔だ。
その身体は裸ではなく、カイトが渡したシャツで。
すっかり着替えは終わっていた。
しかし、問題は。
問題は、メイの手に持っているものだ。
「うわっ! 何やってやがんだ!!!」
カイトは、だっと足を踏み込むなり、彼女の手からそれを奪った。
メイは、彼女は、カイトの下着を持っていたのである。
黒いビキニブリーフ。
奪い取るなり、それを後方に投げ捨てる。
何かまくしたてようとするのだが、あんまりビックリしたものだから、カイトはパクパクと口を動かすしか出来ない。
頭にかぁっと血が集まる。
見れば、彼女の横では同じように、彼の下着やシャツがたたまれて、ご丁寧に分類までされて積まれているのだ。
この女は!
着替えろとしか言っていないにも関わらず、彼が散らかした衣服を片付けていたのである。
だから、あんなに時間がかかったのだ。
「す……すみません……つい」
明日困られると思って。
怒られたと思ったのだろう。
いや、実際それと大差はないのだが。
彼女は座ったまま、うつむいた。
自分のシャツを引っ張るようにして猫背になる。
「誰がしろと頼んだ……しなくていーんだよ、んなのは!」
いつまでここにいる気だ。
カイトは、頭に血が昇っている。
怒った、というよりも、彼の下着を扱われた恥ずかしさの方が先走っている。
とにかく、この事実を忘れるためには、はやくこの脱衣所から出ていくしかない。
勿論、メイを置いていくワケにもいかなかった。
続きの仕事などされてはたまらないからである。
座り込んだままの二の腕をグイッと掴んで立たせようとした。
彼女の身体が、瞬間的に硬直したのに気づく。
手のひらは、それを知ったのだ。
慌てて離す。
いま。
メイの体温を、シャツごしにだけれども感じた。
抱きしめた時に、気づけなかったものの破片のようだった。
破片でも何でも――とにかく、カイトの手は彼女を覚えてしまったのだ。
何だ……今の。
手を見る。
まだ、覚えている。
手が、メイを覚えている。
違う。
カイトは、頭を振った。
それどころか、手に一気に血が集まっているかのように熱くなってきたのだ。
いや、本当は――手だけじゃなかった。
ランパブで、ウィスキーを一気した後と同じ熱が、いやそれ以上の熱が身体に回ったのだ。
いまごろ……酔っちまったのか?
ありえないことを思いながら、けれども、そう思わずにはいられなかった。
ただ、分かったことがあった。
この女に――さわれねぇ。
触ったら、ヤバイ気がした。
頭の中の信号が、エラー・ステータスを返してくるが、そのエラー内容はこれまで彼が見たことのない番号だった。
なのに。
なのに、まだ手がさっきの彼女の感触を忘れないのである。
彼は、その手で自分の顎を掴んで、違う感触にすり替えてしまおうとした。
けれども、自分のものとは違う熱が、まだしつこく手にかぶっている。
メイはうつむいたままだ。
頭の上で、彼がどんな葛藤をしているかなんて、知りもしないのである。
奥歯を強く噛んだ。
強く噛んでいないと、信じられないことに、また彼女に触ってしまいそうだった。
ヤバイと、ちゃんと自覚したにも関わらず。
目をそらして、ゆっくりと顎を緩める。
息をつく。
自分を落ちつかせようとした。
女一人に、何をワケの分からない状態になっているんだ、オレは――催眠術のようにそう繰り返し言い聞かせる。
そうして、少しだけ落ち着けた。
「……もう……しねーでいいから……来い」
カイトは、できるだけ静かにそう言った。
「……は…い」
ひどく震えた声を、彼女が出した。
きっと、彼が怒ったように腕を掴んだせいだ。
それで、怖くなったに違いない。
カイトはそう思った。
ズキズキッ。
怖がらせるつもりなどなかった。
ただ、彼女にそんなことはしなくていい、と。
そう伝えたかっただけなのだ。
そのために連れてきたのではないのだから。
しかし、言葉や態度のフォローを何一つ自分で出来ないまま、カイトは彼女がゆっくりと立ち上がるのを見ていた。
水色のシャツから伸びる脚。
下の方を見ないように、カイトは視線を上げた。
しかし、そこからも彼は目をそらさなければならないのだ。
シャツは、女の素肌には薄すぎたのである。
クソッ。
今更、他のシャツを探せる余裕もなく、メイを見ないようにするので精一杯だった。
くるっと背中を向ける、というのが一番てっとり早く、彼はそうした。
脚を振り出すようにして、脱衣所を先に出る。
後ろから静かな足音が続いた。
カイトが、止まる。
後ろの足音も止まる。
カイトが歩く。
後ろの足音も歩く。
また止まる。
後ろも止まる。
きっと、そんなに遠くない距離。
そこに――さっき触れた彼女がいる。
薄いシャツ一枚で。
しかし、振り返れないのだ。
振り返ったら、また彼女の身体を見てしまうのだから。
下着姿でもタオル姿でも、結局シャツの姿でも。
どれも、全然ダメだった。
彼女の役に立つようなものが、何一つないのだ。ここには。
一番簡単な方法がある。
彼女を追い出すことだ。
あの借金返済の金はドブに捨てたとでも思って、メイを追い出して、何もかも忘れることである。
もう彼女は、借金持ちではないのだから、カタギの職につけるだろう。
これで、ああいう商売に手を染めて、似合わない姿になる必要はないのだ。
カイトの『イヤ』とやらは、解消されるのである。
そうすれば、もうイライラしたりしな―― 手が、熱い。
まだ、忘れないのだ。
最初に忘れた分まで覚えておこうとでも言う気か、この手は。
チクショ!
結局、静かに心穏やかになろうと落ちつかせかけた努力は、全てこの瞬間に水の泡となるのだ。
背中を向けたまま、メイに言った。
「ベッドに……行け」
無意識に、押し殺したような声になった。
後ろの空気が震えた。
しばらく沈黙が続いて――けれども、彼女はカイトを追い越してベッドに向かう。
ベッドの側に立つ、脚。
そのまま、じーっと立っている。
カイトは、つけっぱなしのノートパソコンの方へと歩いた。
歩きながら。
「寝ろ」
言った。
しばらく、また無言が続く。
カイトはノートパソコンの目の前に立つ。
彼女には背中を向ける形だ。
ギシッ。
ベッドがきしんだ。
音を聞いているだけで、頭がおかしくなりそうだった。
身体の中から、ざわめくものがある。
苛立ちとか怒りとか、そんなものの数々にうちのめされた木々の影に、ちらりと何かがかすめた。
ばさっ。
毛布の中にもぐりこんだような音。
カイトは、ブツン――という音を聞いた。
彼は、ノートパソの電源を、いきなり切ったのである。
正常終了なんて――全く出来なかった。