12/02 Thu.-16
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メイは、まだ動揺から立ち直っていなかった。
そんな状況の時に、カイトがダイニングに現れたのである。
黒いトレーナーにジーンズ姿だ。
思えば、私服らしい私服を見るのは、これが始めてだった。
こんな格好もするんだ――当たり前の話だが、不思議に思ってしまう。
いつもと、またかなり印象が違っていた。
こうしていると、会社の社長であるとかいうことを忘れてしまいそうになる。
普通の同世代の男の人にしか見えないのだ。
カイトは黙って席について。
見とれていたメイは、慌てて保温プレートの上の鍋を開けようとした。
「あつっ…!」
慌てすぎた。
蓋の裏側の熱い水滴が、ぱっともう片方の手に散ったのだ。
反射的に声をあげてしまった。
ガタッ!
声とほぼ同時に、カイトは椅子から立ち上がり、向かいのメイの方へと身を乗り出す。
その勢いに、彼女はビックリしてしまった。
「あ、すみません…大丈夫です。ちょっと飛んだだけで」
メイは、慌ててフタを持ったまま弁解した。
事実、大したことはなかった。
ただ、熱い水滴が何滴か手に落ちただけである。
フタも落としたりしなかったし、ヤケドなんて大げさなものは何もなかった。
一瞬、叱られるかと思った。
元々やらなくてもいい、と言われているようなことをしているのだ。
それなのに、こんなソコツな真似をしてしまって。
また、作るなと言われるんじゃないかと思って心配になった。
「あの…ホントに全然…」
立ち上がっていたカイトは、彼女の言葉にぎゅっと口をつぐむと、ドスンとまた椅子に戻った。
すごくイヤそうな顔を横にそむけた。
唇も眉間も歪んで、いつもと違う影になっている。
きっとイラついたのよね。
そうよね。
ドンくさい自分に、メイは落ち込みそうになる。
けれども、ここでおとなしく落ち込んでいるワケにはいかない。
カイトに食事をして欲しいし、落ち込むくらいなら最初から作るな、と言われたら――それは、イヤだったのだ。
「すぐよそいますね」
気を取り直して、フタを脇に置くと支度を始める。
肉じゃがの匂いのついた湯気が、あったかく部屋に回っていくのが分かった。
この匂いが、彼の食欲をそそっていますようにと祈りながら、肉じゃがをたっぷりとお皿によそった。
それから、炊き立てのご飯。
途端。
洋館は、一瞬にして茶の間になった。
あ。
メイは、この何とも言えない違和感のある光景に、恥ずかしくなった。
こんなにオシャレな家なのに、ダイニングのテーブルの上は―― けれども、彼女の得意料理はどちらかというと、こういう系列なのである。
心配になってカイトを見た。
こんな洋館を手に入れるような人だ。
もしかしたら、洋風が趣味の人なのかもしれない。
そうだったら。
もっと心配になっていく。
ジロッ。
料理を彼の前に置いたはいいけれども、立ち去ろうとしないメイに、睨みが飛んでくる。
慌てて自分の席に戻った。
彼女も、よそって食べる準備をしないと、また怒られてしまうのだろう。
よそいながらも、心配は拭えずにチラチラとカイトの方を見てしまう。
別に態度が変わった様子はない。
ただ、じっと肉じゃがを見ていた。
「あの…どうぞ」
自分の分の支度が済むや、メイは『食べて』という懇願の目で彼を見た。
食べて、そして朝のように『うめーよ』と、どんな口調でも表情でもいいから言って欲しかったのだ。
本当であろうと、そうでなかろうと。
無言でカイトは、じゃがいもの塊を口の中に突っ込んだ。
メイは、全身で構えてしまった。
彼の一挙一動が心配だったのだ。
どんな反応が出るか、心配と緊張が最高潮に達する。
しかし―― カイトは、ジャガイモを口に入れるやいなや、すごい顰めっ面になった。
驚きというか、どちらかというと耐えられない驚きという顔。
目を白黒させている。
慌ててコップの水を口の中に流し込んだ。
そのすごい勢い。
ウ…ソ。
とてもじゃないけれども、おいしい料理に対する態度じゃなかった。
目の前が真っ暗になる。
そんなにとんでもない味付けなのかと、胸が冷たくなった。
ウソ、ウソ。
メイは慌てた箸の動きで、肉じゃがに手をつけた。
塩と砂糖を間違えてはいないハズだ。
ちゃんと味見もしたのである。
保温中に何かあったのかと、メイは肉の破片を口の中に入れた。
「……」
絶句した。
まばたきをする。
何故なら、肉じゃがは―― 味見した通りの味だったのだ。
本当に普通の肉じゃがの味がしたのである。
普通の人が、過剰反応するようなものじゃなく、それはハルコにも確認してもらった。
なのに、カイトの口には合わなかったのだ。
ウソ…。
彼の味の好みは知らない。
けれども、嫌いなものと好きなものは、軽くハルコが教えてくれた。
嫌いなものは、何も入れていないハズである。
メイは、どん底に沈んだ。
カイトのためにと思っているのに、全然そうならないのである。
箸を置いた。
「す、すみません…」
声が沈む。顔もうつむいてしまう。
自分が唯一出来ることと思っていたことが、足元からひっくり返されてしまったのだ。
つらくてたまらなくなった。
しかし。
うつむいたメイの向かいで、箸と陶器の乱暴にぶつかる音が始まった。
それは、途切れる様子はない。
え?
慌てて顔を上げる。
カイトは、肉じゃがに箸をつけていたのだ。
そうして、一呼吸置いて口に運ぶのである。
「あ、そんな無理して食べないで下さい!」
驚いて、彼を止めようとした。
きっと作った彼女に悪いと思って、カイトは無理をしているのだ。
おいしくないのに、我慢して食べようとしてくれているのである―― そうメイは思った。
なのに、無言でカイトは今度はご飯を口に突っ込む。
ご飯で流し込もうとしているように見えて、ますますハラハラした。
確かにおいしいと思ってもらえなかったことは悲しいけれども、決してそれは、我慢して食べて欲しいワケではないのだ。
けれども、カイトは食べる手を止めない。
自分の料理に手もつけられないまま、そんな彼を呆然と見ていた。
どうしたらいいのか分からなかった。
信じられなかった。
カイトは、空にした肉じゃがの器を持って立ち上がると、おかわりをしようとしたのである。
「どうして…?」
メイは椅子に座ったまま、彼を見上げた。
もうワケが分からない。最初にあんな表情をするような味に感じたハズなのに、どうしておかわりまでするのか。
「肉じゃが…おいしくないんですよね?」
自分で言いながら、目頭が熱くなった。
こんな料理の失敗くらいで泣いていたら、キリがない。
でも、心は沈むばかりで。
今すぐに、その気持ちを浮上させることは出来なかった。
なのにカイトは、ムッとしたような眉になる。
「誰が、まずいっつった」
物凄く不機嫌な声だ。
やっぱり、おいしくなかったんだ。
メイが、そう思ってしまうくらい。
「最初に食べた時…いえ、やっぱり作り直します!」
ばっと立ち上がって、彼からオタマを奪おうとしたが、奪い返すことは出来なかった。
それどころか返り討ちだ
手を伸ばそうとしたところを、思い切り怒鳴られたのである。
「オレは食いたいもんしか食わねぇ。マズイなら、おかわりなんかするか!」
そのソニックに、彼女はビクッと目を閉じた。
「でも…」
怒鳴られた後、ようやく目を開けると、カイトは短気な動きで肉じゃがをよそっている。
これ以上、口出しするなと彼の手が拒否しているが、メイは我慢出来なかった。
「でも、最初に…」
あんなにおいしくなさそうに。
無理して。
おかわりまでして。
「あれは!」
カイトは、よそい終わった器をテーブルに置くと、ガンと背もたれにぶつかるような強い勢いで椅子に戻った。
そらされた視線と一緒に、また怒鳴るような声が出る。
「あれは! あれは……熱かっただけだ」
クソッ。
汚い言葉が追加される。
何でオレがこんなことまで言わなきゃなんねーんだ――そらされたカイトの横顔が、そう怒っていた。
え?
メイは、ぱたぱたと瞬きをした。
彼が、何を主張しようとしたのか分からなかったのである。
それじゃあ、口に運ぶ時に一呼吸置いていたのは、おいしくないのを覚悟しているワケじゃなくて――がつがつご飯を食べていたのは、一瞬でも早くこういうおいしくないものを食べ終わりたかったからじゃなくって、おかわりしたのは、メイに気を使ったワケじゃなくって。
頭の中のこれまでの論理が、ガラガラと崩れていく。
こんなにも、カイトとは言葉が通じないとは思ってもみなかったのだ。
彼の無言の行動を、まだ全然理解出来ていなかったのである。
カイトの言葉通りに意識を軌道修正することが出来ずに、彼女は動きを止めたまま。
「うめーっつってんだよ!」
彼に。
そう怒鳴られたら、一瞬で歯車が噛み合って回り始めた。
カイトを見る。
彼はまた、ガツガツと肉じゃがを食べ始めていた。
「あ…りがとうございます」
怖い誤解は解けたというのに。
彼に無理をさせているんじゃないと分かったというのに。
メイは、胸がきゅうっとなってしまって――危なく泣いてしまいそうだった。
ぐっと、こらえる。