12/02 Thu.-14
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「ああ、もう…」
ハルコは――笑っていた。
カイトに、あんなにまで怒鳴られて、結局シカトされてしまったというのに、それが嬉しくてしょうがないみたいだ。
昨日のソウマもそうだった。
この夫婦には、メイが見ているカイトとは、違うものが見えているに違いない。
「あの…」
意味が分からずに、彼女を見る。
どうしてそんなにおかしいのか。
「ああ、ごめんなさい…私がいなければ、あんなに機嫌が悪いこともなかったんでしょうけど…つい」
さぁ。
目だけ微笑んでいるハルコに促されて、寒い玄関を捨ててダイニングに戻る。
そこには、夕食の準備が既に出来上がっていた。
『これだけ作れるなら、すぐにでもいいお嫁さんになれるわ』
彼女は、出来上がった肉じゃがを味見しながら、そうホメてくれた。
けれども、メイがなりたいのはお嫁さんではないのだ。
そうじゃなくて、コックでも家政婦でも、何でもよかった。
ただ、カイトの役に立ちたかったのだ。
「さて…あの調子じゃ、今日はもう口をきいてくれそうにないわねぇ……」
暖かいダイニングで落ちつくワケでもなく、ハルコは椅子にかけていた上着を取った。
帰るつもりなのだ。
「あの件は任せておいてね…ちゃんと彼に伝えておくから」
ウィンク一つ。
ウィンクされても…。
一抹の不安を覚えた。
ハルコが、予想を上回るようなことを、カイトに言ってしまうのではないか。
それが心配だったのだ。
「あの、本当にそんなに気にしないで下さい…その、私のわがままですから」
作業着が欲しいなんて。
こんなにいい洋服をもらって、別に何もしなくていいとまで言われて、その上でのわがままなのだ。
「ダメよ…もう分かったでしょう? 彼には、…いいえ、シュウも含めると彼らには、女心を感知して気を回すセンサーなんて、全くないのよ。2人の自主性に任せておいたら…あなたが大変なことになるわ」
それがもう少しあれば、男2人で同居なんてこともなかったでしょうに。
ハルコのため息は、本当にしみじみとしたものだった。
彼女ほどよく知っているワケではないので、メイにはコメント出来なかった。
ただ、言っている意味は分かるような気がする。
これから何かを必要とする度に、カイトの手を煩わせる必要があるのは問題だった。
たとえ無駄遣いをしないとしても、生活には最低限の必需品というものが存在するのだ。
当座のところは、ハルコが用意してくれたけれども、消耗品はいつかはなくなる。
その度に、ハルコが来るまで待って相談とか、彼に直接お願いに行くとか―― 非常に困る。
「とりあえずは、あなたにカードを預けておけるように言っておくわね」
しかし、ハルコの言った言葉は、彼女をビックリさせるものだった。
「こ、困ります! カードなんて!」
大声になってしまって、慌てて自分の口をふさぐ。
カードなんて使ったことがなかった。
使ったことのない人間には、カードというものは未知の領域なのだ。
ただ彼女には、食事のための買い物と、本当に些細な必需品を買う現金があればそれで事足りるのである。
カードを預かるなんて責任重大なことが、出来るハズもなかった。
「あら…いやなの? カイトみたいなことを言うのね」
聞けば、彼もカードは持たない主義らしい。
その分現金を持ち歩く趣味があるそうで。
ただ、家政婦のハルコにだけは、請求されるたびにいちいち現金を渡すワケにもいかないので、しょうがなくカードを一枚作っているらしい。
ひとしきり、そういうことを話した後。
「分かったわ…それじゃあ、私が預かっている現金を少し預けておくわ。正式には、ちゃんと彼に伝えておくから」
彼女は置いていたバッグの中をさぐる。
「あ、別に今でなくても…私、許可取ってきますから」
大体。
自分のことを、ハルコに言ってもらおうと思っていたのがムシが良かったのだ。
こういうことは、ちゃんと自分の口でお願いしないと。
メイは、彼女の行動を止めた。
「…構わないのに」
彼女は苦笑した。
しかし、怖いことを付け足す。
「けど…そういうお願いは、あなたがしない方がいいかもしれないわよ」
どうなっても責任は持てないもの。
苦笑しながらも、でも、少しそうなったら面白いとでも思っているのか、ハルコの目が悪戯っぽく輝いた。
「え?」
彼女が何を言わんとしているのかは、メイには理解出来ない。
「でも…こういうことは、ちゃんと自分でお願いしないと」
いつでもハルコがいてくれるワケではないのだ。
このまま、彼女におんぶだっこではいけないのである。
「そう? それなら頑張ってらっしゃい」
にこっ。
ハルコの微笑みは、元気になれるような気がする。
「はい」
その元気をもらって、メイはぺこっと頭を下げた。
「それじゃあ、夕食にもついでに呼んであげたら? 私はもう帰るから」
でないと、出て来てくれそうにもないわね。
天井の上の方を見上げる。
真上はカイトの部屋というワケではないのだが、暗に彼のことを指しているのは、はっきり分かる。
「はい、いろいろありがとうございます」
メイは、上着を羽織って出ていくハルコを見送りに玄関まで行った後、階段を上り始めたのだった。
コンコン。
ノックは、少しおそるおそる。
ハルコにああは言ったものの、少しまだ怖い。
カイトはさっきまで、火がついたように怒っていたのだから。
まだ怒ってるんじゃないかと、それを心配しているのだ。
機嫌の悪い時にお願いなんか出来るハズもない。
様子を見て、切り出すかどうか決めようと思った。
中からは返事はない。
お風呂?
そう思いはしたが、一応ドアに向かって、「メイです」と、名乗った。
すると。
ドスドスと、恐竜のような足音が聞こえる。
それが凄い勢いでドアに向かって近づいてくるのだ。
まだ怒ってる!
メイは、タイミングの悪い自分に気づいて、反射的に身を固くした。
もう少し後で、食事に呼びにくればよかった、と。
バタン!
目の前で、ドアが勢いよく開く。
ビクッと、彼女は身体を震わせた。
あ。
しかし、目は閉じなかった。
はっきりと前を向けていた目に、いきなりカイトの顔が飛び込んでくる。
慌てて飛び出してきたという顔。その目の中には、ちゃんと自分が映っていた。
怒った顔――じゃなかった。
よかった。
メイは、それにホッとした。
けれども、彼女が何かを言い出すより先に、カイトはハッと我に返ったように、首だけ突きだして左右を見る。
「あ、ハルコさんは帰られました」
それを言うと、彼は別にそういうんじゃない、と言う風な顔で、突然周囲を伺う動きをやめた。
不機嫌顔のまま、横にそらして止める。
まだワイシャツ姿だ。
朝のように、前ボタンをいくつか外したまま。ネクタイや上着はない。
彼は部屋に戻ってから、自分の身の回りのことを何もしていないようだ。
「あの…夕ご飯の支度が出来てます」
お金のことを切り出そうと思ったけれども、先に食事をしてからでも遅くないのでは、とメイは思った。
いや違う。
最初に切り出して、もし怒りでもされたら――彼が夕食を抜いてしまいそうな気がしたのである。
だから、先に食べて欲しかったのだ。
「肉じゃがなんですよ…ジャガイモがほくほくしてて…それにそれに、いっぱい煮込んだので、味はしっかり…」
何を夕食の解説をしているのか。
彼の視線が、夕食の話題でこっちに向いたのに気づくと、何故か胸がドキドキして、口が勝手に動いてしまったのだ。
なのに、彼は無言でじっとメイのしゃべるのを見ているのだ。
「きっと、おいしいです…えっと…多分」
カイトに夕食を食べて欲しかった。
だから、いきなり大風呂敷を広げた途端その大きさに気づいて、彼女はぱっと4つ折りにたたんだのだ。
それきり、次の言葉が見つけられなくてメイは黙ってしまった。
ああ、ダメ。何かしゃべらないと。
朝のように強引に、『それじゃあ、下に来てくださいね』と言って逃げればいいのだ。
そうしたら、多分カイトは来てくれるんじゃないか――そう思った。
けれど、今度はうまく口が開かなくなる。
重い沈黙に、いたたまれなくなった時。
カイトは、無言のまま部屋に戻ろうとした。
ウソ!
何か呆れられるようなことを言っただろうか。
メイは驚いて、もうほとんど本能で。
カイトの腕を掴んで引き止めてしまった。
一瞬。
時が止まった。
彼女は、自分が何をいましたのか分かっていなかったのだ。
手のひらに、しっかりとシャツの感触。
「あっ! ごめんなさい!」
ばっと手を離した。
何て大胆なことをしてしまったのか。
無理強いして食べさせてもしょうがないのに。
どうしようと、オロオロしながらカイトを見ていると。
彼は、顔を歪めてため息をついた。
「着替えるだけだ」
髪の毛の中に手をつっこんで。
言いたくないかのように、唇をひん曲げて。
メイは。
そのまま、ヘタヘタと座り込んでしまいそうだった。
よかった。
怒ったワケでも、夕食を食べないワケでもないのだ。
着替えて来ると言ってるのである。
力が抜けそうになりながら。
「あ…すみませんでした。それじゃあ、下にいますから」
自分でも意味のない、しかも妙な笑顔をしていることは分かった。
そして、逃げるようにドアから離れて戻り始める。
しばらく背中に視線を感じた後、ドアはパタンと閉まって。
その頃のメイは、階段にさしかかっていた。
身体に震えが残っていて――危なく足を踏み外すところだった。