12/02 Thu.-12
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メイが何が言うたびに、それはハルコを喜ばせるだけの結果となった。
それはもう、おかしくてしょうがないという気持ちを押さえきれないかのように、肩を震わせるのである。
そんなに、おかしいことを言ってるのかしら。
と、かなり心配になった。
けれども、何度そう聞いても『違うのよ、そうじゃないのよ』と笑うのだ。
笑いの内容に、嘲りとか呆れはない。
純粋におかしくてしょうがないかのようだった。
しかし、ハルコはずっと笑ってばかりいたわけではない。
ようやく落ち着いた彼女に、メイはお願いした。
今日から、やりたいことがいろいろあったのだ。
この家のことを覚える。
何がどこにあって、どういうクセがあって。
家は生き物だ。
生き物には性格がある。
ポリシーもある。
窓がサビついて開きにくい、というようなささやかな病気も持っている。
ハルコについて回って、いままで勝手に触れられなかったものを知ろうと一生懸命になった。
「ここだけ…窓枠が違う」
カイトの部屋を掃除する時。
普通の掃除の時は窓拭きまではやらないのだが、今日はメイがいて。
彼が帰ってきたとき、ピカピカにしておきたかったのだ。
雑巾を持ったまま、デスクの横の窓辺にたたずんで、その窓枠を眺めた。
つや出しのモップを持ったハルコは、顔を上げると微笑んだ。
「ああ……それは…」
くすくすくすくす。
一度ツボにはまると、なかなか笑いが止まらないようである。
「それはね…仕事がうまくいかなかった時に、彼がノートパソコンを投げつけて壊しちゃったのよ」
出てきた言葉は、メイを絶句させた。
短気な男だとは知っていたけれども、まさか八つ当たりで窓まで壊してしまうなんて。
「去年の話ね…その時は、私はまだこうやって家に頻繁に出入りはしていなかったから、翌日にシュウから聞いたのだけれど…冬だったのに」
後先考えないんだから。
ほほほほほ。
笑いのツボが落ちついてきたのか、笑い方が穏やかになってくる。
ほほほって。
そんな笑顔で済ませていいものなのかと、メイは困った眉になってしまった。
付き合いが長いと、そういうところにも慣れるものなのだろうか。
「彼はね…」
ふっとハルコは、モップを持ったままちょっとだけ上を見た。
「彼はね…思い通りにならないと、本当にすぐ怒ったり暴れちらしたり手がつけられなくなるのよ…自分の興味のない方向になると、途端に冷めているのに、本当に欲しいものの前では、いつもそうなの」
だから、彼の態度を見ていたら、いま一番何が欲しいのかすぐに分かるのよ。
モップの柄を握り直しながら、ハルコは彼女の方を見る。
『分かる?』と伺うような目で。
ああ。
メイは、少し胸がチクンと痛んだ。
付き合いの長さという壁が、ハルコの前に見えたのである。
彼女は、本当にカイトのことをよく知っているようだ。
もしかしたら、彼の心まで――
それは、まだ自分にはないものだ。
きまぐれに偶然に奇跡的に、翻訳がうまくいく時はあるけれども、あとの彼の心の中は、無限のブラックホールなのである。
怒鳴りや怒り一つ取っても、まだうまく理解出来ないのだ。
「そうなんですか……」
そう答えることしか出来なかった。
カイトのことを知るのに、他の人の言葉ではどうしようもないのだ。
知識として知ることと、肌で覚えることは違うのである。
たとえ、ここでハルコの言葉を丸飲みしたとしても、それは何の応用もない知識に過ぎない。
学校のテストではいい点数が取れたとしても、実地でうまくいくとは限らないのだ。
「そうなんですかって…」
ハルコは、困ったような笑顔になった。
えっ、とメイは瞬きをした。
彼女を残念がらせるような言葉を言ったのだろうか。
もっと、分かったような反応を返した方が良かったのか。
「あの…」
心配になって、ハルコを見つめる。
ここでのナビゲーターは、彼女しかいないのだ。
カイトに何かを習うなんてとんでもないし、シュウという男には、冷たい視線で一瞥されそうだった。
彼女の夫なら、いろいろ教えてくれるかもしれないけれど、次にいつ来るかなんて分からない。
毎日のように現れるハルコだけが、頼りだというのに。
「ああ、違うのよ…そうじゃないの…」
何かを誤解したと思ったのだろうか、ハルコが小さく首を振る。
脇を向いて小さく呟いた後、彼女はモップを動かし始めた。
それ以上、メイも追求できなて、窓を拭くことにした。
ガラス磨きのスプレーを吹きつけて、持ってきた椅子に乗って――
やりにくい。
それもそのハズだ。
彼女はスカート姿なのだ。
しかも、安物のスカートとは思えないロングフレアーで。
花柄はとても可愛いし、すごく気に入ったのだが、掃除をするのに余りに向いていない衣装だ。
汚してしまいそうで、ヒヤヒヤしてしまう。
レンタル衣装を来たモデルのような気分で、彼女は注意深く窓拭きをした。
でも、やっぱり気になる。
家の掃除をする時は、いつもジーンズとか汚れてもいいような格好だった。
「……」
これから、毎日こういう衣装で掃除、というのはかなり問題ありだ。
しかし、クローゼットの中はそういうものばかりで。
ジーンズとかエプロンとか、汚れても平気なものは何一つなかった。
ハルコを見る。
前から思っていたのだが、彼女は今でも秘書で通用するような衣装だ。
ブラウスにタイト姿である。
なのに、そのまま掃除をしていた。
立ち居振る舞いの質が、最初から自分と違うのが、端から見ているだけででも分かる。
書道の時間に、どうしても服をスミで汚していた自分とは、根本的に違うのだ。
きっと彼女なら、ドレス姿でもスミを飛ばしたりしないだろう。
「なに…?」
じーっと見ていたのに気づいたのだろう。
椅子の上に登ったままのメイに声をかける。
「え…あの…いえ…」
いきなり聞かれても、何と言えばいいのか分からないのだ。
彼女は、椅子の上でしどろもどろになった。
こういう慌てる状態になると、大抵ロクでもないことが起きる。
椅子から転がり落ちるとか。
とりあえず、予測が本当のことにならないように、椅子から下りた。
しかし、もしもこれからここに置いてもらえ続けるというのなら、できれば仕事の出来る服が一着は欲しかった。
でも、こんなにいい服を買ってもらってるのに、もう一着、だなんて口が裂けても言えない。
うーん、うーん。
メイは、頭を悩ませた。
「あの…まだ、一回も着てない服がいくつもあるんですけど…返品とか…出来ませんよね?」
おそるおそる。
言葉に、ハルコが目を見開いた。
「どうして? 気に入らなかったの?」
いきなり、物凄く心配そうな顔になる。
しまった、と思った。
そうなのだ。服を見立ててきてくれたのは、ハルコなのである。
浅はかな考えを口にしてしまった自分を恥ずかしく思った。
「いえ! 違います! みんなステキな服ばかりです!」
慌てて、握り拳でそれを否定した。
「でも…どれも、とても綺麗な服なので…お掃除とか料理とかで汚してしまいそうで…それで」
それで、返品が出来るというのなら、そのお金の一部で安い服をと思ったのだ。
ハルコは、とても不思議そうな目で彼女を見ていた。
「仕事の出来る服が、欲しいということ?」
その不思議を確認するかのように、ゆっくりとした口調で聞いてくる。
不快にさせてしまったかもしれない。
メイは、「はい」と小さく頷きながらも、心配のムシに噛みつかれてしまった。
「ああもう、社長ったら…」
しかし、そこでため息をついたハルコの口から出たのは、メイへの非難でも何でもなく、ここの主人への呆れた呼び声だった。
ふっとこぼれた呼称は、昔のクセか。
「…全然、気が利かない人なんだから」
大きなため息。
どうして、いきなり話題がカイトに行くのか。
話のジャンプについていけいメイは、雑巾片手に戸惑ったままだった。