12/02 Thu.-9
◎
おかしいわ…。
車を走らせながら、ハルコは考え事をしていた。
昨日の夜、帰ってきた夫との会話を思い出していたのだ。
その内容は、彼女が考えていたものと大きく食い違っていて、それで首をひねっているのである。
夫の目がおかしいと思っているワケではないが、それならハルコの目が狂ってしまったということになるのだ。
彼女の目には、あの2人が互いのことを好き合っている―― それは、はっきり見て取れたのに。
カイトは、どう見てもあからさまだった。
過去の彼を、よく知っているものならば。
あんな彼を、見たことがなかった。
女性関係には疎かったカイトが、女のために服を用意しろと言ったり、慌てふためいて帰ってきたり。
ことごとく、ハルコの読み通りの結果になってしまったのだ。
好きでしょうがない、という言葉よりも、もっと上の方の言葉が似合うだろう。
トチ狂っている、とか。
その件に関しては、ソウマと意見が一致した。
遅く帰ってきた彼は、『寝ていてよかったのに』とつれないことを言ったが、ハルコだって気になってしょうがなかったのである。
夫は、異様に上機嫌だった。
それはもう、顔が緩みっぱなしである。
「あいつの前で、こういう顔をしているワケにもいかなくてな」
などと、本当に嬉しそうだった。
これは、式が近いのかしら。
ハルコも喜ばしく思っていたのだが、彼が出した答えは、『カイトの片思いで、まだ何も通じていない』というものだったのだ。
本当に驚いた。
メイが、何かワケ有りなのは分かる。
危ないところを助けてもらったと、まるで浦島太郎か鶴の恩返しか、な発言だった。
だが、同じ女の目から見たら、メイだって彼のことを好きなようにしか見えなかった。
女は、どうでもいい男のために涙なんか流せないのだ。
あんな切ない顔は出来ない。
としたら、彼らは両思いなのだ。
けれども、ソウマは片思いだという。
それじゃあ…。
ハルコは、車を門の中に入れながら、呆れたように思った。
じゃあ、あの2人は、お互い好き合っているということを知らないの?
キッ。
車をガレージへと回す。
いつもこのガレージに車を入れているが、今日はちょっと違和感があった。
車が2台ない。
しかし、その話は聞いていた。
車検で1台持っていかれているのだ。
もう一台は通勤で使っているのだから、計算上は合う。
違和感は、それではなかった。
いつもより、もうちょっとガランとしているのである。
あら?
ハルコは、ブレーキを踏んで車を止めながら目を凝らした。
緑の防水シートが、無造作にコンクリートに転がっていたのである。
随分とやせた姿で。
これは、確かカバーとして使われていたハズだ。
バイクの――
シュウが、バイクに乗るハズなどない。
勿論、カイトの持ち物だ。
なのに、どうしてバイクがないのか。
いつもなら車だけがなく、バイクはあの緑のカバーの下にあるはずなのに。
ハルコは首をひねりながらも車庫入れをすると、もう一度カバーを眺めた。
しかし、余りの外の寒さにそれ以上の探索をあきらめて、玄関へと向かったのである。
玄関のドアを開けると、小さな物音が聞こえた。
方向から言えば、ダイニングの方である。
メイがそっちにいるのだろうかと思って、ハルコは歩き始めた。
もしかしたら、朝食を食べているのかもしれないと思いながら。
しかし、昨日までの彼女を見る限りは、そんなことを勝手にやるとも思えなかった。
ドロボウ…じゃないわよね。
片目を細めながら、ハルコは少し物騒なことを考えた。
まあ、可能性的にはメイが一番高い。
何をしているにせよ、そこにいるのではないかと思って、ダイニングのドアを開けた。
「あ、おはようございます」
メイだ。
テーブルの上を片付けているところだった。
あら?
ハルコは、ふっと胸を掠めた違和感に目をこらす。
もう一度、ちゃんとメイの姿を見つめた。
別におかしいところなどない。髪型を変えた訳でも、化粧をしている訳でもない。
見た感じは、昨日と何一つ代わらないハズ―― だった。
なのに、挨拶をした時の彼女の笑顔は。
昨日までの色と、大きく違っていたのだ。
ほこりをかぶっていた家具を磨いたかのように、キラキラとしている。
あらあらあら…まあまあまあ。
ハルコの心の中で、天使が歌った。
これは、きっとすごくいいことの証明なのだと言わんばかりに、胸の中をチビ天使たちが飛び回るのである。
つられてハルコも微笑んでしまった。
メイは、テーブルを片付けている。
しかし、そこは――
あら?
眉を動かす。
そこは、カイトの席だったのだ。
昨日の夕食の内容なら、彼女も作った。
しかし、違うものをメイは片付けていたのだ。
あら、まあ。
また、ハルコの心に花が咲いた。
あのカイトに、朝食を食べさせたのだろう。
それが分かって、すごく楽しい気持ちになってしまった。
「おはよう、メイ…今日はとってもご機嫌ね」
さりげなく行動に目をやりながら、ハルコは心の内に触るような言葉を生んだ。
「あ…そう…ですか?」
さっとメイの頬に、赤いものが走ったのを見逃すハズもなかった。
照れてしまったかのように、彼女は慌てて皿を重ねるのだ。
これは…。
これは、絶対にカイトとの間に何かがあったのだ。
ハルコには、そう見えてしょうがなかった。
昨日までのメイは、もっとおどおどしていた。
しかし、今は見違えるようだ。
まだ、少しおっかなびっくりなところはあるけれども、古い皮を脱ぎ捨てたかのように綺麗になっている。
女が綺麗になる理由。
それを考えると、ハルコはうきうきしてしまった。
こんな気持ちは、いまはそんなにたくさん転がっている訳ではない。
ソウマと結婚する前は、よく彼にイライラしていた。
けれども、同じくらいかそれ以上、胸をドキドキさせていた。
彼は不意にいなくなってしまったり、半年で帰ってくるという約束を破って一年以上外国を放浪したり―― 結婚前に、いろんなことをしてくれた。
元々、古い付き合いである。
大学に入る前、高校、中学、小学。
小学4年生の時に、ソウマは隣に引っ越してきた。
『やぁ』
二階から、引っ越しの風景を眺めていたハルコに向かって、そう挨拶を投げて寄越したのが、全ての始まりだった。
小学4年生ともなると、男女差というものを空気で分かってくるようになる。
だから、隣だからと言っても、そう親しくはならないだろうと思っていた。
けれど。
ある夜、ハルコが寝ようと思ってカーテンを閉めにきたら、ソウマが屋根の上に登っていたのだ。
驚いて窓を開けると、彼が笑いながらこっちを見た。
『今日は月蝕だよ』
その言葉のせいで―― 結婚までしてしまったのだ。
結婚したからと言って、その時の気持ちを忘れてしまったわけではない。
けれども、昔のように相手の一挙一動で、胸を乱すようなことは少なくなってしまった。
そういうハルコにとって、このウキウキは懐かしくて、気持ちがよくてしょうがないものだった。
まさか、カイト絡みでそういう気持ちが来る日があるなんて。
頬を染めた顔を隠すように、メイは調理場の方へと洗い物を持っていく。
その背中を眺めながら、また今夜、夫にたくさんのことを話さなければならないと浮かれてしまったのだ。
朝は始まったばかり。
まだまだ彼女と話せることは、いっぱいあるはずだった。
「ダージリンティーでいいかしら?」
こまネズミのように片付けているメイに、ティーポットを掲げながら微笑んだ。