12/02 Thu.-8
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ブォンッ!
背広のボタンなんか止めてなかった。
カイトの後方で、バタバタとはためく上着の裾。
私服のまま休日出勤する時などは乗っていくが、背広でバイクなどは初めてのことだった。
しかし、背広のことを気にもしていなかった。
それどころじゃなかったのだ。
白い息で見つめる心配そうな目が、頭に焼き付いていた。
何がそんなに心配なんだよ!
カイトには分からない。けれども、あの目がかえって彼を心配にさせるのだ。
今日は、本当にメチャクチャな朝だった。
妙な夢を見ていたら、本当にメイがベッドの側にいて。
驚いている間もなく、彼女は朝食の準備をしたと告げ、それから大慌てて下りていったら、本当に朝食だった。
カイトの思考では、とうてい追いつかない――もしくは、まったく次元の違う世界に思考があるに違いない。
そうでなければ、あんな彼の思いつきもしない不意打ちが出来るはずもなかった。
いや、カイトにとっては、女の思考の行方など想像つくハズもなかった。
ゲームを作っている会社だ。
RPGだって作る。
主人公の少年には、いつもどこかに少女がいると相場は決まっている。
苦手なのは、その2人の絡みだ。
いつもは、そういうのが好きな鳥肌もののドリーマー社員に押しつけて、彼はそのエピソードには関わらないで仕事をしてきた。
ドリーマー社員が作るイベントシーンを見たことはある。
女が主人公を泣いて止めたり、魔王にさらわれたのを助けに飛び込んできたり。
でも、胸がジンと来たことはなかった。
彼を泣かすほどの恋愛クリエーターは会社にはいなかったが、胸を熱くさせる女は、いま家にいるのである。
見上げてくる目。
あの瞬間、かき抱きたい衝動が跳ね上がって、カイトを振り回した。
抱きしめたら――こんなに胸は痛まねぇのかよ!
しかし、それを試すことは出来ない。
この気持ちを墓穴に放り込むまで、ずっと踏みつけていなければならないのだ。
何で…んな目で。
気をつけて、と。
彼女はわざわざ玄関まで出てきて、そんな言葉を言いたかったのか。
彼女に心を取られたままのカイトのバイクは、渋滞の車の横をすり抜けていく。
バイザーごしの景色は、まだ白く冴え冴えとした朝を映していた。
道半ばまで来た時。
カイトは赤信号で止まらされた。
ヘルメットの角度が微妙に気に入らないことに、そこでようやく気づいた彼は、ハンドルから片手を離そうとした。
が。
離れなかった。
ん?
カイトは眉を顰めて手を見る。
自分の手だ。間違いない。
しかし、手はハンドルに縛りつけられたようになっていた。
自分の思い通りに動かないのだ。
何だ?
思った瞬間。
カイトは、全身が冷凍室にブチ込まれていることに気づいたのだ。
冬の朝のバイクである。
おまけに、彼はただの背広姿なのだ。
そう、ただの背広だけしか着ていなかったのを、今になってようやく気づいたのである。
手袋もない。
これが、手が言うことをきかない大原因だ。
かじかんで、硬直している。
ブレーキだってキンキンに冷えていた。それにかけている指も、やっぱりガチガチだった。
信号が青になった。
クソッ。
こんな当たり前のことすら、カイトはすっ飛ばしてしまったのだ。
冬のバイク通勤なら、それらしい格好が必要だったのに。
手袋も上着も、何でも持っているのに。
あの時は、本当にメイに対しての宣言が、揺らいでしまいそうだった。だから、慌てていたのだ。
心が忙しかったせいで、この寒さに気づかなかった。
こんなところにたどりつくまで、本当に全然寒さなんか感じていなかったのである。
動け、バカ野郎!
気づいたが最後、冷凍庫の身体はなかなか言うことをきいてくれなくない。
肘から動かしてアクセルを開くと、ようやく彼は走り出した。
「おや、珍しい…」
守衛が、バイクで入ってきた彼を見てそう言った。
いや、言ったワケではない。
カイトは聞こえなかった。バイクの音のせいだ。
しかし、守衛が驚いた顔でそんな風に口を動かしたのは見えたのである。
確かに珍しいことだろう。
カイトがバイクで、しかも背広で入ってきたのだ。
こんな例外は、一度もなかった。
それを無視して、端の駐輪場に突っ込んだ。
ドルッドルッと身体の下で、バイクはアイドリングを続ける。
しかし、すぐにエンジンは切れなかった。
手が言うことを効かないのが、今なお続いているのだ。
クソッ。
カイトは、その忌々しさに唸った。
まだ遅刻ではない。
間に合ってはいる。
しかし、それは遅刻じゃない時間まで余裕がある、ということではなかった。
彼は、ようやく右手をハンドルからひきはがして、こわばった指先でキーを回す。
シュルン。
最後の回転を残して、ようやくエンジンが止まった。
顔の中だけが、フルフェイスのヘルメットのせいで温度がある。
しかし、それは何の役にも立たない熱だ。
顔は、身体を制御するものが入っているけれども、指先に代わることはできないのだから。
次はヘルメットで。
これが、一番難儀だった。
外せないのだ。
指先が、無防備な首に当たって冷たいだけである。
腹立たしく思ったカイトは、そのまま首に手を押しつけた。
むきだしであったとしても、何故か首だけは温かいのだ。
背筋を、ぞくっとした冷たいものが走る。
しかし、その犠牲のおかげで、少しは指先に温度が戻ってきて。
はぁ、と一つ息をついた。
少しだけ動くようになった指で、ヘルメットをはずした時には、既にかなり危険な時間になっていた。
これで遅刻でもしようものなら、シュウにどんな目で見られるか分かったものではなかった。
それが、一番腹立たしいことである。
バイクを降りてスタンドをかけ、ハンドルにヘルメットをひっかけると、カイトはビルの中に飛び込んだ。
エレベーターを呼ぶが、なかなか地下まで下りてこない。
苛立ちすぎて、階段を使おうとしたくらいだ。
ようやく開いたエレベーターに乗り込む。
あとは、一番上のボタンと「閉」を押したら一丁上がりだ。
ようやくカイトは落ちつくことが出来た――が、そうでもなかった。
エレベーターは1階に止まり、また新たな社員を飲み込んだのである。
4人ほどの社員が乗り込もうとして、ぎょっとする。
中に社長がいたからである。しかも、ただの社長ではない。
背広姿の社長だ。
こういう日の社長の機嫌の悪さは、誰でも知っているのである。
みんな彼とは目を合わせないように、遠慮がちに「おはようございます」と小さな挨拶をした。
ムカムカ!
そうなのだ、自分は背広なのだ。
その事実は、メイの前にいるときは何とも思わないけれども、こうやってそれ以外の前に来た瞬間に、物凄い苛立ちに変換される。
ハッ!
その怒りが吹っ飛ぶような事実に、カイトは、たった今気づいた。
自分は、ネクタイを綺麗に結んだままだったのである。
一人の女性社員の視線が、ちらりとそれに注がれたのが分かったせいだ。
クソッ!
カイトとしたことが、大失態である。
がっと指を突っ込んで大きく緩めた。
メイに結んでもらったネクタイを、ここまでずっと見せびらかして来たのだ。
クソッ、クソッ…!!
おまけに指もまだ完全ではなく、ネクタイを楽に解かせてくれなかった。
しかも、ここはエレベーターで。他の社員も乗っている。
ネクタイを解くのに、悪戦苦闘するワケにもいかなかった。
結局だらしないな結び目になって、彼の首にぶらさがることになったのだった。
おかげで、いつにも増して不機嫌な社長が出来上がったのである。