11/29 Mon.-5
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覚悟を決めて―― 本当は、全然決まってなかったのだけれども、とにかく、メイは脱衣所を出た。
そこに、カイトがいるはずだった。
彼女を買った男。
その事実が胸をよぎる度に、ずしーんと重くなっていく。
けれども。
この姿を、彼が望んだのだ。
メイはタオルを押さえながら、そっと出て行った。
願わくば、彼に見つからないように。
でも、そんなことは不可能である。
ドアを開けた時、ガチャリと、それは律儀にも音を立ててくれて。
音のせいで、カイトの視線が自分に注がれる。
シャツを脱いだらしく、上半身裸の姿で。
そのむきだしの上半身が、これからのことを連想させるようで、メイは胸を痛めた。
あ……見ないで。
とっさに、目を伏せてしまおうとしたけれども出来なくて、ただ彼を見てしまった。
カイトも彼女を見ていた。
しかし。
予想とは外れた表情を、彼はしていた。
『え?』―― そんな風に、驚いた顔でメイを見ていたのである。
……?
どういう意味なのか分からずに、これからどうしていいかも分からずに、メイはそのまま立ちつくしていた。
髪から一しずくの水滴が床に落ちるまでの時間、そうしていた。
ぽたっ。
「ばっ……バカ! 何てカッコしてやがんだ!」
彼は、いきなり怒鳴って立ち上がった。
????
カイトが何を言ったのか、本当はメイは全然理解していなかった。
ただ、怒鳴られたことで身体が反射的に固まってしまう。
「え……でも……あの」
何を彼女は間違ったのか―― とにかく、何か間違ったのだ。
それは分かった。
しかし、分かった時には状況は変わっていた。
彼が怒った顔を、まっすぐそらすことなく彼女に向けて、大股で歩いてきたのである。
――!
瞬間、身体が硬直してしまった。
ぎゅっと目をつぶる。
ドスドス。
しかし、彼女のところで、足音は止まらなかった。
メイは、まだ目を開けられないまま、足音が背中の方に消えたのを知るのだ。
あ……れ?
タオルを押さえたまま、メイは頭の中で何かが食い違ったことに気づいた。
そっと目を開ける。
視界の範囲に、彼の姿はなかった。
慌てて振り返ってもない。
彼は脱衣所の中に入って行ってしまったのである。
開いたままのドアが、中でガタンゴトンと音がしているのを教えてくれた。
あ……そうか。
彼女は、少しほっとした。
カイトは自分に、ではなくて、脱衣所の方に用があったのだ。
でも、その理由なんて彼女が分かるハズもない。
彼は―― すぐ怒鳴るような性格のようだが、怒鳴る理由も分からないし、説明もなく行動が唐突だ。
メイの頭が思考停止している間に、いろんなコトが進んでしまうのである。
そうして、彼女の予測をいつも裏切るのだ。
これまで、何もかも裏切ってきた。
次は何を裏切られるのかさえ、メイには分からないというのに。
どうしたら……いいんだろう。
暖かい部屋なのでカゼをひく、とかそういう心配はないのだが、タオル一つという心許ない格好でいるのは、とても落ち着かなかった。
あの下着姿より落ち着かない。
店では、同じような格好の人がたくさんいたし、仕事だったのだ。
だが、ここでは彼と二人きりで、仕事でもないのだ―― 多分。
あっ!
はっとメイは、顔を上げた。
茶色の目を大きく見開く。
脱衣所には、彼女の脱いだ毛皮とか下着とかがまだ置きっぱなしだったを思い出したのだ。
まさか、いきなりカイトが飛び込むとは思ってもいなかったから。
彼女は慌てて、その扉の中をのぞき込んだ。
どういう状況かなんて、そのときは全然考えてもいなかった。
そして。
また、目を見開くことになった。
脱衣所の床には、引き出しの中のものがひっくり返されていたのである。
タオルだの、シャツだの男物の下着だのが散乱していた。
それでもまだ飽き足らないらしく、カイトは次の引き出しを引っぱり出すと、床の上で逆さまにして放り捨てるのだ。
あ……何?
頭が、またパニックになる。
彼の行動が読めないせいだ。
メイの着ていた毛皮は、もうその衣服の山の下の方に、ちらっと端だけしか見えていない状態だった。
「クソッ……」
服の山をかき回しながら、カイトが舌打ちをする。
また――怒ってる。
いつも、彼は何かに怒ってるような気がした。
それとも、メイが怒らせてしまっているのだろうか。
分からないまま、まばたきもせずに彼の作業を見つめてしまう。
「しょがねー……」
はぁっと大きなため息をついて、カイトは山の中からシャツを掴み取った。
その、顔が上がる。
グレイの目が。
自分を映した時――驚いたように、彼は時を止めた。
まさか、メイに見られていると思わなかったのだろう。
そのまま、しばらく硬直していて。
視線は、彼女の顔の上で止まっている。
自分の目の奥深くと覗かれているような気がして、慌てて目をそらした。
すると、彼も我に返ったようで。
「ほら!」
強い声に呼ばれて、またカイトの方を見なければならない。
メイは、おそるおそる顔を上げた。
その目の前には、水色のシャツが突き出されていたのだ。
彼自体は、そっぽを向いた状態で。
ひどい仏頂面だった。
「あの……」
シャツを眺める。
それから、カイトを。
「早く着ろ!」
一秒でも耐えられないかのような早口で、それを言う。
着ろって……。
シャツを渡されてそう言われるということは、答えは一つだ。
それくらい、メイにだって分かる。
分からないのは、何故か、ということだ。
どうして彼がシャツを貸してくれるのか――頭の中の符号と一致しないのである。
しかし、このままでいるよりは余程よかった。
おそるおそる、シャツを受け取る。
すると。
カイトは、この惨状もそのままに、脱衣所を出て行ったのである。
入ってきた時と同じように、大股でドスドスと。
強い力で、バターン! と、ドアが閉められた。
そのひどい音に、彼女は身を竦める。
えーっと……。
メイは、持っているシャツと脱衣所の様子と、それから振り返ってドアを眺めた。
と、とりあえず。
急いで彼女はタオルを取るとシャツに袖を通した。ボタンを止める。
ラフなシャツなので丈も長い。
ただ、困ることは――生地がそんなに厚くはないので、どうしても身体のラインが気になるのだ。
胸の辺りを引っ張ってみるが、手を離すと途端に恥ずかしい。
や……やっぱり、あの下着!
今日の仕事で使ったあれを探そうとした。
でないと、恥ずかしくてやっぱり脱衣所から出ていけないような気がしたのだ。
足元もすーすーするし。
しかし、最後の引き出しをひっくり返されたせいで、すっかり服の山の下に埋もれてしまっている。
ああ……片付けなきゃ。
メイは膝をついて、とりあえず散乱しているシャツなんかを拾い始めた。
父一人、娘一人だったのだ。
食事や洗濯などの仕事は、全部彼女がやっていた。
衣服を拾ってはたたみながら、メイはまだ混乱からは戻ってきていなかった。
逆に、混乱している時に限って、いまは優先事項ではないことを、しかも細かくやり始めてしまうのである。
おかげで、下着を探すつもりだった最優先項目を、彼女はすっかり忘れてしまった。
でも……どうして?
考えているのは、しかし、それだけだ。
難問を渡されて、彼女の頭の中はグルグルと同じところを回り続けるトラになる。
きっと、最後は――バターだ。
バターになりながらも、メイは彼の服をたたんでいた。