12/02 Thu.-5
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カイトは、自室にはいなかった。
いつもの統計でいけば、そこにいるはずだったのだが、ベッドはもぬけの空だ。
となると。
シュウは、彼の部屋を後にすると階段を降り始めた。
もう一つの可能性をたどるしかない。
朝、カイトがそこにいたことなど、これまで一度もなかった。
しかし、今朝イレギュラーと出会ったのである。
ちょうど、いまこの辺りで。
イレギュラー ――予測不能なカオス理論。
それは、女性の姿をしていた。
勿論、シュウにとっては彼女はイレギュラーではない。
自分の人生に障るところなどなかったし、これからもその予定だ。
しかし、鋼南電気の社長であるカイトは、最初から異常な反応を示し続けていた。
計測器の針が、いつもとは違う数値ばかりを返してくるのだ。
確かにカイトという存在は、短気で感情的で思いつきで行動するところが強い。
けれども、いまの現象とは明らかに本質が違っていた。
子供の頃から、知っている相手である。
彼は、シュウが年上であろうと知ったとこではなく、傍若無人の限りを尽くしてきた。
お菓子を取られた回数から、蹴りを入れられた回数まで、頭の中にはきちんと記憶されている。
勿論、いまは蹴りを入れられる回数のカウントが増えるだけで、お菓子を取られるカウントは増えてはいなかったけれども。
それに、今回新しいカウンターが追加された。
イレギュラー・カウンターだ。
いつもと違う言動、態度、行動―― その数が、物凄い勢いで増えている。
彼女が来るまで、そんなカウンターは必要なかった。
いや、元々カイトという存在を、本当に理解はしていない。
シュウでは計り知れない行動や言動があるのせいだ。
イレギュラーを除いても。
しかし、それらはいい意味で会社にとって作用していたために、彼は放置していた。
今回のは、違う。
会社にとっては、余りいい意味ではなかった。
仕事中にしなかったことをカイトはした。
私生活でもしなかったことを、カイトはした。
シュウは、ダイニングの入口にさしかかった。
ここにいるに違いないと踏んだのだ。
ノックをする。
返事はなかった。
しかし、中で音はしているし、彼のノックで一瞬その音が全て中断されたのだ。
間違いなく、人がいる証明である。
シュウは、ドアを開けた。
「おはようございます」
いることを予測しながら、ドアを開けたのだ。
案の定、カイトの茶髪が見える。
食卓についていて、朝食中という風景だった。
イレギュラー・カウンターが上がる。
彼は、こんなに朝早くから朝食を食べないのだ。
その時間を費やすよりも、出社ギリギリまで寝ていた方がマシ、というタイプだった。
開発室などで、栄養補助食品や、どこから買ってきたともしれない怪しげな何かを食べていることはあったが。
おまけに、今日もワイシャツ姿である。
また、カウンターを1アップさせる。
あんなに背広嫌いで有名な男が、連続でこの騒ぎだ。
一体、何があったというのか。
一度だって気まぐれで済ませられない事実だというのに、こうも続いては完全にどこか故障しているとしか思えなかった。
「あ、おはようございます…すぐ支度しますね!」
しかし、カイトと会話を交わすより先に、イレギュラーの元が席を立ち上がった。
調理場の方に向かおうとしている。
ソウマが言うには――彼女が、カイトの片思いの相手らしい。
片思い。
好ましく思っている感情を、特定の相手に一方的に向けること。
シュウの記憶の辞書では、そういう言葉で表現してある。
この場合、カイトは彼女のことを好ましく思っているが、相手には伝わっていないということだ。
彼は、欲しいものは絶対に手に入れる男である。
これまでカイトの人生を見てきたシュウが、知っている数少ないことだ。
そんなにたくさんのものに執着はないが、絶対手に入れると思ったら、彼は本当にすごいエネルギーをつぎ込む。
いままでとは同一人物とは思いがたいパワーすら感じるのだ。
しかし、どうしたことか。
カイトのパワーは彼女に確かに向かっている。
それは分かるのだ。
しかし、押し流してはいない。
力の流れは、彼女のすぐ側まで押し寄せてはいるけれども、接触はしていないのだ。
……?
それが、シュウには理解しがたかった。
ソウマの言うように、好意を持っているというのならば、理解しがたいカイトの熱い感情というものが、彼女を襲っていてもおかしくはないのである。
どうやらカイトが、攻めあぐねているのは分かった。
手をこまねいているとか、二の足を踏んでいるとか、表現はいろいろあるけれども、とにかくそういうものである。
シュウは、立ちあがっている彼女をじーっと見た。
前から分析しようとしてはいたのだが、すぐにカイトに邪魔されるし、今朝の廊下での場合は逃げられてしまった。
攻めあぐねる要素というのを、見いだそうとしたのだ。
でなければ、このまま仕事に差し障り続けるのである。
円滑な仕事のサイクルを取り戻すためには、彼女がいなくなるか、カイトが手に入れるかいずれかの方法しかないと、シュウは踏んだのだ。
いわゆる、カイトの敵だと思えば、シュウにだって分析しようがあった。
仕事上の敵を陥落させるには、いろんな方法がある。
カイトは、いつも駆け引きナシの直接攻撃系で力を見せつけたりするが、シュウのやりかたはそうではない。
もっと外堀から埋めて――
「すんな!」
しかし、カイトの大声で思考が中断された。
調理場に向かおうとしている彼女を、怒鳴り声で止めたのだ。
「え…あ、でも、朝食の準備を…」
怒鳴り声にオロオロとする反応。
彼女は、カイトとシュウの顔を、どうしたらいいのか分からないかのように交互に見比べる。
ああ。
そこで、シュウは自分が断らなければならないことを思い出すのだ。
「私は、もう朝食を済ませました…朝は、いつもブロック栄養食と決めています」
見れば、食卓には偏った栄養素のものが並んでいる。
カロリーをムダに摂取する炭水化物やタンパク質だ。
最低限、人間が生活できる量のカロリーでいい。
シュウが吟味したブロック栄養食なら、必要な栄養分がバランス良く配合されている。
おまけに、食事を終えるのに時間もかからない。
こうやって無駄な時間を費やす必要はないのだ。
すると。
彼女は、ぽかーんとシュウを見た。
何を言われたのか分からない顔だ。
反応の早い、知能が高いタイプの女性には見えなかった。
仕事の能率が悪そうな反応である。
「それより、カイト…そろそろ出ませんと、出勤時間に間に合いませんが」
まだ食卓についているカイトが、黄色いタンパク質の塊を目の前にしているので、現状把握のための言葉を差し出す。
まるで、メッセージカードのように。
ギロリ!
反射的に、彼の睨みが飛んでくる。
言った内容が、おそらく気に入らないのだろう。
気に入ろうが気に入るまいが、事実は事実である。
シュウは、そういう表情にはまったく動じなかった。
これまで、彼が運転する限りで遅刻をしたことはなかった。
勿論、仕事上、出張だったり朝一番の仕事が入ったりで会社に向かわない時もあったけれども、それ以外の通常勤務の時は、決して遅刻していない。
その精密な内部タイマーに、その残りカウントが刻まれていた。
もう、そんなに多くの猶予はない。
渋滞のことなどを考えると、カウンターに余裕が必要だった。
「あ…すみません。明日はもっと早く用意します」
彼女の内部タイマーは、アナログのようだ。
ひどく沈んだ表情で、カイトにわびる。
「あやまんな! 謝るくれーなら、最初から作んな!」
ギャーン!!!
吠えるカイトの声に、シュウの眼鏡もずれた。
「あ…」
彼女は、その怒鳴りにショックを受けた表情だ。
自分のしたことを、根本から否定された気分のようだ。
かなり、感情に振り回されやすい性格だった。
「クソッ! そうじゃっ…何見てんだ! とっとと会社にでも何でも行きやがれ!!」
暴れ出しそうな勢いで何かをまくしたて始めたカイトが、いきなりがっと振り返ってシュウに怒鳴りつける。
これは、おそらく八つ当たりというものだろう。
「しかし…車は一台は車検中ですから、私が行ってしまうと、交通手段がなくなるでしょう」
どうやって出社する気なのか。
「オレが乗れるのがもう一台あんだろ! 遅刻もしねー! これで満足だろ! 出てけ!!」
怒鳴る怒鳴る。
シュウは、また眼鏡を直さなければならなかった。
しかし、これだけ感情的になっていても、判断力は欠けていないようである。
彼を理論でねじ伏せたのだ。
断る理由はない。
「はい…では、先に行きます」
シュウは、ためらわなかった。
カツカツと、靴を鳴らしながらダイニングを出たのである。
今回は、いつもよりももう少し彼女を観察は出来たのだ。
だが、とてもじゃないが、カイトにとって大きな価値を見いだすことはできなかった。
だが、シュウは――ひどい勘違いをしていた。
カイトは、有能な秘書が欲しいわけではなく、恋に突き落とされているのである。
全身をめぐるオイルに、そのカオス理論が組み込まれるには、まだかなりの時間が必要だった。