12/02 Thu.-3
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一体、何があったんだ。
カイトは、キツネに頬をつねられたまま、しかしベッドから飛び降りた。
急がないと、何もかもがやっぱり夢で、また自分が目を覚ましてしまいそうだったからだ。
聞き間違いでなければ、彼女は朝御飯の支度をしたと言った。
だから、カイトに食べに降りてこいと。
一体、どういうことなのか。
そんなことをしろと言った覚えも、すると聞いた覚えもない。
寝耳に水とは、まさしくこのことだ。
とにかく。
カイトは、頭パニックのままだったが、急いで着替えて真相を確認しようとした。
顔も洗わずにクローゼットを開けると、放り投げるように着替え出す。
もう彼女は同室ではないのだから、脱衣所まで行く必要もなかった。
脱いだものは、そのまま床に捨てて行く。
シャツをスラックスの中に突っ込みながら、下からボタンをとめていく。
途中でまどろっこしくなって、ボタン作業をやめた。
ベルトをしめて、とにかくネクタイを襟の間にはさもうとした時――気づいた。
自分が、また背広を着ようとしていたことに。
シュウは、今日の予定を伝えてこなかった。
伝えそこねるようなヘマはしない男なので、カイトは今日も開発室に入ることが出来るということだ。
なのに、また背広を着ようとしていたのである。
「……」
無言で、彼は葛藤した。
どうして、自分が背広を着たがるのか、はっきりと気づいてしまっていた。
いや、それについては、最初から分かっていたのだ。
しかし、認めたくなかった。
自分が、そういうムシズの走るようなことを考えていたという事実から、目をそらしたかったのである。
そうして、ムシズが走った。
自分の考えを、はっきり頭の中で言葉にしてしまったのだ。
予定通りの状態に、顔は歪むばかりだ。
クソッ!
ネクタイをむしり取って、床に叩きつけたい衝動にかられたが――出来なかった。
心の中で、メイの少し恥ずかしそうな笑顔が頭をよぎったのだ。
勿論、それは記憶の笑顔だった。
モノホンは、いま一階のダイニングの辺りにいるハズである。
彼女の白い指の、たどたどしい動き。
カイトの許可なく、頭の中で鮮やかなムービーが勝手に流される。
しばらく、カイトは自分の心と戦っていた。
汚い言葉の博覧会だ。
顔をひん曲げて、そこらに頭をぶつけて回りたい衝動をこらえることで、更に身悶えしそうだった。
これでは、まるで病気ではないか。
彼女への気持ちが、こんなにまで自分の細胞を占拠するとは、思ってもいなかった。
いままで、診断しかねていた病気にいきなり名前がつけられて、不治の病と言われたようなものである。
いつ治るとも、どうすれば治るとも分からない。
明日、いきなり消えてなくなるかもしれないいが、このままずーっと影のように焼き付いているかもしれないのだ。
歯噛みしながらも、最後は自分の心を振り払った。
彼女との契約書を思い出したのだ。
カイトは、メイに触らない。
明確に書かれているその文書を見て、彼はネクタイの件を放置することにしたのだ。契約書の抜け穴を言い訳にして。
オレが触らなけりゃいいんだろ! チクショウ!
内心で、そう怒鳴り倒す。
それからは、ドスドスと部屋を出るのだ。
いつまでもこの部屋にいると、自分のいまの姿を思い出してしまいそうだった。
こんな、似合わない格好をしている自分を。
途中でシュウに会ったりしないように、カイトは凄い勢いで階段を駆け下りた。
冷え切った廊下の空気が、開けっ放しの胸元に触りたがる。
しかし、カイトはボタンをとめるより先に、ダイニングへとたどり着いた。
ドアを開けるなり暖かい。
一体、何時から起きてやがんだ?
面白くないことを考えてしまって、カイトは眉を顰めた。
一緒に細められた視界に、彼女の姿はない。
奥の部屋の方で音がする。調理場だ。
カイトは、でもまだ信じられない気持ちを持って、ゆっくりと歩いた。
バードウォッチング中であるかのような慎重さで。
夢でなければ――そこには。
カイトは、息を潜めて開いているドアからのぞき込んだ。
ちょうど。
白い指が、白い卵を割るところだった。
ボウルに滑り落ちる黄色い残像が、カイトの網膜の中で閃いた。
夢ではなかった。
カイトは、彼女をもう一度見た。
間違いなく、あれは夢ではなかったのだ。
メイは、朝食を作っているのである。
何だか嬉しそうなメイの横顔。
ぼーっと。
カイトは、ぼーっとその様子に見とれるしかなかった。
胸がこれからハムにでもされるかのように、一瞬で糸を巻き付けられたのに気づかないまま。
今回のカイトは、音を立てたりしなかった。
フォークを落としたりしなかったのだ。
なのに、はっと気づいたかのようにメイの目が彼を見た。
驚いた目は、瞬間的に嬉しさで弾ける。
巻き付いていた糸が、絞められる番がきてしまった。
きゅううぅっっと。
顎の裏や耳たぶの下や、うなじや唇の内側やみぞおちが、酸っぱい痺れに襲われる。
レモンを、いきなり口の中に放り込まれた痺れだ。
落ち着かない、でも嬉しさでいっぱいの顔のまま、メイが何かをまくしたてている。
でも、カイトは声なんか聞こえていなかった。
フライパン娘になろうとしている彼女を、じーっと見ていた。
いや、目を離せなかったのだ。
ずっと――見ていたかった。
違う彼女に見えた。
カイトが好きだと気づくまで、彼女はこんなにキラキラしていなかったような気がする。
もっとくすんでいた。
昨日、彼の中で爆発が起きて、褐色の石が転げだしたのを知っているかのようだ。
あの時から、メイはもっと光を反射するようになったのだ。
一晩たったら、なお。
いままで、息をひそませていたものが芽吹いている。
より、自然に近いメイに、きっと戻りつつあるのだ。
一番最初の、あの人工的でイヤな匂いのするところから連れ出した日。
確かにあの日も花は咲いていた。
けれども、新芽はなかった。
昨日、それが吹いたのだ。
ツタのように一気にしゅるんと腕を伸ばして、朝日に鮮やかな緑の葉をつけたのである。
そして、カイトの身体に絡んだ。
ひどすぎる事態だ。
化けの皮がはがれて、出てきたのが実はイヤな女であったら、カイトは金を握らせて追い出していただろう。
しかし、やはり酷い。
日を追うごとに、鮮やかさと光を増していくのだ。笑顔も、瞳も。
カイトの自覚を、知っているハズなどないのに。
「出来ました」
振り返る嬉しそうな顔。
一瞬にして、カイトの中に緑の森を作っているのを知っているだろうか。
真ん中に、一番綺麗な花を抱えている森を。
しかし、花はカイトの視線に驚いた。
彼女の瞳に、すごい顔つきの自分が映っているように思えて、ばっと踵を返した。
濡れ光るチョコレート色は、何でも反射してしまいそうに思える。
いままで、こんな気持ちは必要なかっただろ?
ナシでも生きてこれただろ?
何で、勝手に花なんか咲かせてんだ!
どんなに心の中の存在を罵倒しようとしても、カイトは胸の花をむしり取ることは出来なかったのだ。
だから――理不尽なまま、席に着くしかなかった。