12/02 Thu.-2
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言えたぁ…。
メイは、部屋のドアから出るなり、嬉しさにくるくる回り出してしまいそうだった。
頼まれてもいないことをお節介にも勝手にした上に、カイトの安眠まで妨害したのだ。
怒鳴られて当然だったのに、そうならなかったのである。
それも、これもソウマ効果だった。
彼が、カイトに怒鳴られるということは、イヤなことや悪いことだけではないと、実践で教えてくれたのである。
けれども、そのソウマは昨夜、彼をひどく落ち込ませてしまったようで。
はぁ。
昨夜の表情を思い出すと、胸が苦しくなってためいきがこぼれてしまう。
あんな表情のカイトには、慣れていないのだ。
きっと、もっと慣れていない顔がたくさんあるのだろう。
そのたびに、自分の胸はこうなってしまうのか。
本当は、自分が首を突っ込むべきことではないと分かってはいるのだけれども、気になってしょうがなかった。
早く元気になって欲しいな。
怒鳴られなくて嬉しかったけれども、それが出ない間は、まだ彼が本調子じゃないように思えて――本当は、どっちがいいのか分からなくなってしまいそうだった。
けれども、とりあえず言うべきことは言えたのだ。
それに。
ちょっとだけ、寝顔も見られた。
しかし、窮屈な箱の中に詰め込まれてるみたいな表情だったので、つい本当に起こしてしまった。
起こす勇気は出ないだろうと、自分でも思っていたのに。
何だか苦しそうだったから。
眠ってまで、彼は心安らかではないのだろうか。
仕事柄、肉体的にも精神的にもいろんな負荷がかかっているのは想像できるけれども。
眠る時くらいは、何の負荷も束縛もないはずなのに。
おかげで、メイには大きな目標が出来てしまったのだ。
彼が、自分の家で安眠出来るような――どうしたらいいのか、まだはっきりとは分からないけれども、置いてもらえる限りは、そうできるように頑張りたい、と。
健康的な食生活から、手始めだ。
買い物には行ってないので、冷蔵庫を開けてあるものを探して。
パンと、あとは卵でとじるだけの、ありあわせのオムレツ。
カイトが降りてきたら、ぱっとフライパンで魔法をかけて、あったかいオムレツが出来上がりだ。
コンソメ・ブロックがあった。これでスープを作れた。
今日はこれだけでも、ハルコが来てから買い物の許可が取れたら、明日からおいしい朝ご飯を作ってあげられる。
メイは、階段を降りて調理場の方へ向かおうとした。
「あ…」
「おや…」
階段の下の方にさしかかった時、一階の廊下の方からタテナガの身体が現れた。
もう一人の住人、シュウである。
メイは、たたっと階段を降りると彼に向かって笑顔で軽く頭を下げた。
「おはようございます」、と。
少しの沈黙があった。
シュウは、彼女の心のメーターか何かを、計測しているかのような目で眺めた後、「ああ、おはようございます」と事務的な口調で答える。
きっと、会社の挨拶なんかもこのような口調なのだろう。
けれども、メイはめげなかった。
「朝食の準備が出来てます…ご用意が済んだら、ダイニングの方にいらして下さいね」
カイトに言ったのと同じような論法で、そう言い置くと、すぐにダイニングに身を翻した。
これ以上あそこにいたら、朝食についての質問や、どう彼が考えているかを、やはり事務的に聞かされそうな気がしたのである。
言いたいことだけ言って、相手が驚いているうちに逃げる――それが、今朝のメイの手だった。
でないと、きっと。
カイトには感情的な強さで負けて、シュウには論法の強さで負けるのだ。
何故、そんなことをするのかと詳しく聞かれても、うまく答えられそうになかった。
「そうしたかった」と言うのが、一番正しいことだ。
しかし、それを言っても納得してはくれないだろう。
彼らが朝食のために、この部屋にくるかどうか。
本当は、自信はなかった。
朝食を食べない理由を、ちゃんと聞いた訳ではない。
時間がない、食欲がない、作れない。
理由はいくつもあるけれども、それのどれに属しているか、今日朝食を作りながら不安に思ったことでもあった。
食欲がない、だったらアウトだ。
でも、「作りましょうか?」と聞いたら、絶対に「すんな!」と言われることは分かっていたから。
だから、黙って作るしかなかったのだ。
おみそ汁…作りたいな。
メイは、調理場に入ってコンソメスープの水面を眺めた。
ハルコの献立は、西洋系の食事がメインだ。
勿論、それも嫌いではないけれども、彼女は毎朝みそ汁を作っていたので、ついついそっちが恋しくなってしまう。
いまだったら、里芋とか…。
ネギもいっぱい入れて。
メイは、八百屋に買い物に行ってる気分になっていた。
しかし、はっと我に返って卵を割りほぐし始める。
いっぱい空気を入れて、ふわふわのオムレツを作るために。
カシャカシャカシャッ。
プラスチックのボウルの中で卵が渦を巻く。
泡立て器がプラスチックを叩いて、メイの好きな歌を歌うのだ。
だから。
誰かが近くに立っているのに、すぐには気づけなかった。
ふっと、気配が首筋を撫でて。
びっくりして、ばっと振り返る。
カイトだ。
来てくれた!
メイは、嬉しさが一瞬に跳ね上がった。
胸が、ジンジンするくらい喜んでいる。
「あ、すぐ持っていきますから、座っててください!」
慌てる指でフライパンに火を入れながら、メイは嬉しさを隠しきれない声で、彼にそう伝えたのだ。うわずる声を抑えきれない。
身体の中に、鉄琴が入っているようだ。
キン、カン、コン、コン。
一足飛びに高い方を叩いていく音に、メイは足が地に着かなくなりそうだった。
先に炒めていた具を、一人分フライパンに落として軽く温めるために炒めて。
次は卵だ。
あれ?
メイは振り返った。
カイトが、まだそこにいたのだ。
彼女の真意を測りかねているような怪訝そうな、でも戸惑ったような顔のまま。
シャツのボタンは、暖房が入っているとは言え、まだ途中までしかとまってなかった。
ネクタイも、相変わらずぶらさげたままだ。
その姿が。
慌ててここまで来てくれた証拠のように思えて、もっとドキドキした。
そして、緊張した。
自分が、フライパン作業中だったことを思い出したのだ。
彼のためのオムレツを、失敗するわけにはいかった。
見られていると思うと、手元が狂いそうになる。
卵を入れる時も、フライパンの中で位置を調整する時も、じーっと視線が射抜いているような気がして、指先が震えそうになった。
うまく、やらなくっちゃ。
役に立つってことを、彼に見てもらえるチャンスなのだ。
ふわふわの黄色い塊を、フライパンの上で少しずつ転がして。奥の方へと移動させて。
手首を返す。
くるっ。
くるっ。
オムレツの表面に、うっすらと茶色いトラ模様を一筋描いたけれども、無事完成して心底ほーっとした。
フライパンを傾けて、お皿に滑らせる。
嬉しさでいっぱいになる。
綺麗なオムレツを、カイトの目の前で完成させられたのだ。
「出来ました」
くるっと振り返りながら、笑顔が止められなかった。
調理実習で満足に出来上がったものを、先生に見せている気分だった。
けれども、カイトはオムレツを見ていなかった。
メイの顔をじーっと見ていたのだ。
ドキン!
それに気づいて、彼女は動きを止めてしまった。
いきなり目が合ったことに驚いて、心臓は飛び出したがっている。
しかし、カイトはすぐに顔をそらして、表情を歪めるような動きをしたかと思うと、ダイニングの方へと行ってしまった。
ガタン。
乱暴な動きで、椅子に腰かけた音がする。
メイは、少しずつ動きを取り戻した。
まだ完全に自分のものには戻ってきていなかったけれども。
オムレツを見る。
別に問題はなかったような気がした。
調理場の壁の端にかけてある鏡を、首を伸ばして覗く。
顔の方にも、別に問題はないようだ。
やっぱり、お節介だったかな。
喜ばしい雰囲気でないことは分かった。
それに、ちょっと落ち込みかけるけれども、いまカイトが席についた事実を思い出して立ち直った。
彼は、席に着いたのだ。
ということは、朝食を食べるつもりなのである。
メイは、そのお皿を急いで席まで届けることに決めた。
早くしないと、時間に彼を連れて行かれてしまう。
仏頂面のままのカイトの目の前に、太陽を一つ配達した。