12/02 Thu.-1
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本当は。
本当は、オレは――
自覚が出来た途端、うちのめされる結果となったカイトは、何も出来ない女を目の前に置いていた。
そんな彼女に、「カイト」、と呼ばれた。
んな顔で…。
目を細めて、何でそんなに彼女は切ない顔をするのか。
明るい笑顔を浮かべようとはしているのだろうが、眉間の間にある薄い影と、少し下げられた瞼がカイトを苦しめる。
呼び捨てにするのは、メイにも苦痛があるのだろう。
それでも、そんな表情になってまで彼女は自分を呼んでくれる。
カイトがそう望んだから。
これで、少しは近づけたと思いたかったのに、全然気力は元に戻ってこない。
逆に、沈む一方のような気がした。
何で。
何で抱きしめられねぇんだ?
自分のまいた条件やら宣言やら、いままでのことを思い出して見ても、気づいたらその鎖でがんじがらめになっている。
何度繰り返したところで、同じことだった。
けれども。
どんなにがんじがらめになっても、彼女はそこにいるのだ。
その事実だけは変わらないのである。
たとえ、触れることが出来なくても。
心が震える相手が、同じ家にいる。
おそらく多分、これからも。
カイトが――彼女をひどく傷つけたりしなければ。
そう。
彼が触れない限り、メイはここにいてくれるような気がした。
そうして、『おかえりなさい』と言ってくれるのだ。
いつか、自分も言うことが出来るだろうか。
『ただい…』
ガシャン!
ワインが割れた。
足元で、赤いワインの瓶が割れて飛び散る。
メイに渡したのを落としたのかと思って、カイトはばっと顔を前に向けた。
そこに彼女がいるはずだった。
しかし、いたのはソウマだった。
え?
「はっはっは、しょうがないヤツだな…男なら男らしく、ちゃんと告白したらどうだ?」
脳天気な笑顔で、いきなり脈絡もない話をし始める。
待て。
さっきまで、メイがいて。
ここは客間の前だったはずなのに、どう見てもダイニングの光景に変わっている。
「カイト…」
呼ばれて。
振り返っていたのは、シュウだった。
「最近、勤務態度がたるんでいますね…あのアタッシュケースはどこへやったんです?」
話の内容と順番がめちゃくちゃなことを言い出す。
シュウは、決してこういうことは言わないヤツだ。
いや、前半と後半をバラバラに言うことはあるだろう。
しかし、一度の言葉の中に混ぜたりしない。
分かった。
これは、夢なのだ。
カイトは、いま、夢を見ているのである。
最初のメイがいたのも?
やや混同している意識ながらも、彼はここが夢であることを、ちゃんと知ることが出来た。
そうなれば怖いことはない。
「何も知らねークセに、勝手なこと言うんじゃねぇ!」
だから、思い切り怒鳴る。
ここは、自分の意識の世界なのだ。誰にも、聞かれたり見られたりすることはない。
「オレぁ、あいつを大事にしてーんだ! あいつを幸せにしてやりてーんだ!」
カイトは、怒鳴ってから気づいた。
彼女について、はっきりと自分がそう思っていることに。
それは、確かに――抱きしめなくても可能なことである。
抱きしめなくても、メイを幸せにすることは、きっと出来るのだ。
それどころか、逆に抱きしめてしまったら壊してしまいかねないこと。
彼女の信用も、向けられる優しい笑顔や言葉も、全て一度に失ってしまうかもしれないのだ。
そんなことは、許せなかった。
好きだと思っても。
抱きしめたりしなければ、ずっと彼女を側に置いておくことができる。
カイトは、夢の中で怒鳴りながら気がついたのだ。
それは、きっと苦痛を伴うだろう。
彼は男で――女を手に入れる方法をいくつも知らないのだ。
今よりも、もっと欲しいという欲求に押しつぶされそうになったらどうすればいいのか。
んなこたぁ!
ソウマを縦に破る。
笑っていた彼は、いつの間にかポスターになっていたのだ。
シュウも破る。
ほぼ縦にまっぷたつみたいになって、力無く足元に落ちた。
「んなこたぁ、やってみなけりゃ分かんねーだろ!」
傷つけるかもしれないということは、裏返せば傷つけないかもしれないということ。
それは、カイトの双肩に全てかかっているのだ。
触れない好きがあっても――いいのだ。
きっと、このままうまく。
「カイト…」
メイだ。
彼女はポスターにはならず、そこに立っている。笑顔で。
そして、名前を呼んでくれた。
瞬間、電流が身体に走り抜ける。
「カイト…」
もう一度呼ばれる。でも、反応出来ない。
そこにメイがいるという事実だけで、心が巻き取られていくような気がした。
まるで綿菓子のように、棒にくるくると。
ただ、見つめているしかできない。
夢なら、触れても――
「起きて下さい…カイト」
パチン!
催眠術を解く時に叩かれる、手のような音がした。
カイトはそれにビクッと来て、ばっと目を開ける。
「おはようございます、いいお天気ですよ」
え?
カイトは、がばっと半身を起こしながら今を把握しようとした。
誰がそこにいて、自分に何が起きているのか分からなかったからである。
しかし、見間違いようもなかった。
そこにいたのは、メイで、彼に向かって微笑んでいたのである。
弱い冬の朝日の中で。
な、な、なななな…!!
余りに驚いて、カイトはベッドの上をばっと後ろに飛び退いた。
すぐに行き止まりである。
声は、失われたままだった。
メイが、自分の寝起きを襲ったのだ。
いや、襲ったと言っても、すぐ横に立っているだけだが。
ま、だ…夢ぇ見てんのか?
カイトは、呆然と彼女を見る。
夢なら抱きしめてもいいはずだ。
しかし、彼はいまがどっちなのか分からなかった。
どっちなのかが分かるまで、触るワケにもいかないのだ。
「支度が出来たら、下に降りて来てくださいね…朝ご飯、作ったんです…ありあわせのものですけど」
にこっ。
最後に一回微笑むと、メイはぺこっと頭を下げて部屋を出て行った。
パタン、と。
置き去りにされたカイトは、呆然としたままだった。
とりあえず。
頬をつねってみる。
痛かった。
「夢じゃ…ねぇ」
ようやく、声が出てくる。
起き抜けの掠れた声で、二回せき込んで元に戻した。
いま目の前で起きた現象は、間違いなく本物だ。夢でも幻でもない。
その彼女が、いま何と言ったか。
「朝ご飯…だぁ?」
眉を顰める。
聞き慣れない単語だった。
まだ、キツネに頬をつねられているような気がした。