12/01 Wed.-12
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頑張らなくちゃ。
メイは、寒い廊下を突っ切って部屋まで戻ると、小さな拳を固めた。
この場合の頑張るとは――カイトの役に立つためのことである。
ハルコがいない時に、彼に重宝がられる存在になりたかったのだ。
『おめーがいてくれてよかった』
そう思ってもらいたかった。
勿論、彼の性格からしたら、その言葉を聞くことは不可能に近いだろう。
しかし、何もしないでいる役立たずよりは、たった一つでも何か出来れば、自分の中での心苦しさが違うのだ。
それに。
普通は、好きな人のために何かしたいと思っても、いろんな制約があってなかなか出来るものではない。
しかし、メイには現在取り立てて仕事がない。
それに、同じ家に住んでいるのだ。
これで何も出来なければ、本当の役立たずだ。
きっと。
しかし、いろんなことをすると、カイトは怒鳴るだろう。
いままでの経験から、それは分かっていた。
しかし、ソウマやハルコやシュウへの態度で、それが珍しい行動でないことが、統計学上、明らかになったのである。
カイトは、気に入ってる相手にも分け隔てなく怒鳴るのだ。
その事実で、随分とメイの心は軽くなった。
彼のためになることは、怒鳴られてもしてもいいんだと――許されたような気分だったのである。
おかげで、心が軽くなった。
何千万という価値のある女に、自分はきっとなれはしないだろうけれども、定期積み立て預金のように地味な額には、きっとなれる。
だから、一生。
彼のための家政婦でいたってよかった。
そうしたら。
「一生…側にいられるもの…」
ふっと。
思いが口からこぼれて、慌てて手でふさぐ。
びっくりした。
言葉に出した意識はなかったのだ。本当に、ぽろっとこぼれ落ちた言葉。
気をつけなきゃ。
自分を戒める。
思いは外に出してはいけないキマリなのだ。
それが、メイの中にある法律。
でも、何とか隠しきれれば、きっといい家政婦になれるんじゃないかと思った。
勿論、根拠なんかはない。
でも、カイトを思う気持ちがあれば、テキパキと能率よく、じゃなくてもゆっくり綺麗に出来そうな気がしたのだ。
そう思うと元気がわいてきた。
明日から、ハルコにいろんなことを聞いて、この家のことを知ろう。出来るようになろう。
通いでは出来ないことが、きっとたくさんあるハズなのだ。
メイは、張り切っていた。
たとえば。
朝ご飯。
彼らは、朝食を取らずに仕事にいくらしい。
ハルコも、支度をする時間には出勤してこないから――多分、誰も作らないから食べないのだろう。
朝食は、大事なのに。
いつも父親に朝食を食べさせて出かけさせていたメイは、そのころの生活のリズムを身体で思い出そうとする。
彼らが仕事に出かけたら、ハルコと一緒に掃除とか洗濯とかをしよう。
この家は広すぎて、毎日通ってるハルコですらローテーションのような掃除しか出来ないらしい。
メイが手伝えば、きっともっとピカピカにできる。
布団を干して、気持ちよく眠ってもらおう。
メイは、まるでママゴトのように、頭の中にいろんなシミュレーションを走らせ始めた。
ベッドの端に座って、もっともっとシミュレーションを広げようとした時。
ドンッ。
まるで、靴の先でドアを蹴っ飛ばしたような音がした。
「は、はい!」
反射的に背筋がぴょんと伸びる。
ビックリしたのもあるが、こんなノックをする相手は、きっとカイトだと確信したせいでもあった。
シュウやソウマが、ましてやハルコがこんなノックをするハズがない。
勿論、ハルコがいるわけはないのだが。
カイトとはさっき別れたばかりだ――ワインを渡しに行ったので。
なのに、わざわざ部屋を訪ねてくるなんて。
何だろう?
メイは、慌ててドアに近付いていった。
誰かとも聞かなかったし、相手もしゃべらなかった。
けれど、メイはもう確信があったので、ドアを開けた。
カイトが――いた。
予想ピッタリだ。
メイは胸をドキドキさせながらも、嬉しかった。
しかし、その表情をすぐに曇らせてしまう。
カイトに、覇気を感じなかったからだ。
いつも感じる、すぐ怒鳴りそうなオーラは、いまはどこにもない。
そういえば、さっき部屋を訪ねて行った時もそうだった。
あの時は、まだソウマとケンカした機嫌が直っていないのだろうと、彼女は理解していたのだ。
しかし、いまだ表情は改善されていなかった。
「……」
そんな沈んだ顔のまま、カイトは腕を突きだした。
あっと思ったら、彼女の目の前にワインがあった。
さっきカイトに渡したヤツである。
ラベルも残りの量も、前に見た時のままだ。
「あの…?」
それを見た後、メイは視線を上げた。
意図を知ろうと思ったのだ。
「オレは…甘いのは、飲まねー」
声にも、やっぱり覇気はなかった。
どうやら、内容からするとメイにくれるらしい。
けれど、彼女にはワインの行方よりもカイトの態度の方が気になった。
もしかして、病気にでもなったのではないかと思ったのだ。
「あの…カイト様?」
メイは、意識を確認するようにもう一度呼んだ。
それで意識が戻ったワケではないだろうが、カイトの眉がピクッッと動いた。
怒鳴られるっ!
そういう気配が、ふっと頬を掠めてメイは身を竦める。
…。
…。
…あら?
しかし、5秒たってもカミナリは落ちなかった。
そっと目を彼の顔を覗き見ると、忌々しそうに顔を歪めているのだ。
そうして、メイにぐいっとワインを押しつけてくる。
反射的に受け取ると、ばっと手が離れた。
そっぽを向く顔。
また、覇気がない。
「…い…で呼ぶな」
ぼそぼそっ。
蚊の止まるような声。
よく聞こえない。
「え…?」
耳をカイトの方へと向ける。
「絶対…様づけで呼ぶな」
またぼそぼそっと。
やっぱり、絶対変である。
病気か、それとも相当ひどくソウマとケンカしたか、どっちかである。
「あ…すみません、やっぱりイヤですよね」
でも―― 一番、しっくりくる呼び方のような気がしたのだ。
やはりお気に召さなかったらしい。
予感はあったのだが。
それで怒鳴られても、そのうちカイトの方が呼ばれるのを諦めてくれるんではないかと思っていた。
なのに、今回の反応は怒鳴りではない。
まるで傷ついているように見えて。
その呼び方を、二度と出来そうになかった。
「じゃあ…何て呼んだらいいですか? カイト…さん?」
彼の見たこともない沈み具合を前に、メイは会話を続けようとした。
どうして、こんな悲しい顔をするんだろうと。
それが分かると、だんだん胸がしめつけられてくる。
ぎゅっとワインを抱く手に力を込めた。
カイトは、首を横に振る。
「カイト…」
彼は、自分自身の名前をぼそっと呟いた。
どうしちゃったんですか!?
メイは、心の中で悲鳴を上げる。
どう見ても、どう聞いても、目の前にいるのはカイトじゃなかった。
ソウマさんったら、何てひどいことを!
あんないい人を責めたくなかった。
けれども、こんな酷い状態にまでしなくてもいいのである。
あれだけ言葉を上手に扱える人なら、からかう程度だって調整できるハズなのに、と。
メイは、ぎゅうっと眉を寄せた。
「カイ…ト」
彼女は。
今日の夕食までの彼女なら、絶対にそういう呼び方はしなかっただろう。
けれども、こんなに沈んでしまったカイトを、少しでも力づけたかった。
だから、一生懸命頑張ったのだ。
頑張って…彼を呼んだ。
まるで、仲のいい友達のような呼び方。
ソウマは、彼をこう呼ぶだろう。シュウも、多分。ハルコは…ちょっと違ったか。
すごく、心苦しい呼び方だ。
でも、ここで彼女が違う呼び方をしてしまったら、もっとカイトを傷つけてしまいそうで――頑張った。
「カ…イト」
もう一回。
ダメ…。
何だか、泣いてしまいそうになって慌てて顔に力を入れる。
好きが――涙で溢れてきそうになったのだ。
そんなことをしちゃいけないと、自分を必死でコントロールする。
カイトの辛そうな目が、そのまま彼女の表面を撫でる。
「ワイン…大事に飲みますね。ありがとうございます、カイト」
言葉に、織り交ぜてみた。
カイトの沈痛を元に戻したいと思って、わざと明るい口調で。
でも、言葉はひどくちぐはぐだった。
他人なのか親しいのか分からない言葉になってしまって、バツが悪くなる。
けれども。
まるで、2人そのもののようなちぐはぐさだった。
カイトが怒鳴り回っている間、メイは何かとすぐ沈んでいたのに。
メイがやる気になった途端、カイトが沈んでしまったのだ。
天秤の神様は――目が見えないらしい。




