12/01 Wed.-4
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顔を洗って着替えを済ませて、身だしなみを整えて。
こっそり分かる範囲だけ、部屋の掃除を済ませた頃――ハルコがやってきた。
「おはよう…」
にっこりの微笑みは、昨日と何も変わらない。
「おはようございます…」
まだ、彼女にはどういう表情を作っていいのか分からない。
昨日の別れ際に、初めて彼女が夫持ちであって、おそらくここにハウスキープらしきことをするために通っているだろうことが分かったばかりなのだ。
正確に、カイトとどういう関係なのかは、まだよく分からなかった。
「あら…昨日と同じ服なの? 別のにすればいいのに」
せっかく色々買ってきたんだから。
そんなメイを見て、少し残念そうだ。
彼女は、困って曖昧に笑った。
ついついいつものクセが出てしまって、まだ全然綺麗なこの服を捨て置いて、次の服を着るなんてことは出来なかったのだ。
いままでずっと、洗濯するのは自分自身だったから。
「朝食、まだでしょう? 彼はいつも朝食は食べないから、それに付き合っていたら美容に悪いわ」
それ以上、服のことを言わないかと思うと、今度は食事に誘うのだ。
あたかも、ハルコがこれから用意をしてくれるかのような口調で。
メイは慌てた。
「あ…そんな、大丈夫です! 昨日の夜のがまだ残ってますから…それを温めていただきます」
自分で出来るということを、アピールしておかないと、このままでは何でも世話になってしまう。
借金を返してもらった上に、身の回りのことまでしてもらうなんて。
そんなバチ当たりなことが、出来るハズもなかった。
せめて、自分のことくらい全部自分でしないと。
いつまで置いてもらえるかは分からないけれども、カイトの側で恩返しが出来る間は、いろんなことをちゃんと出来るようになりたい――怒鳴られない範囲で。
ハルコは、そんなメイの発言に、すごく嬉しそうににこっと笑った。
何がそんなに気に入ったのか、いまの発言を思い出してみても、心当たりはなかった。
「そう? でもね、実は私も朝食はまだなの…少し寝坊してしまって…よかったら、一緒にいただかない?」
そう言われると、断る理由もない。
2人で部屋を出て、階段を下りる。
ダイニングにつくと、何故か昨日なかったお酒の瓶が転がっている。
「カイト君ね…まったくもう」
ハルコは苦笑しながら、それを片付ける。
昨日――カイトは、ここで飲んでいたのか。
その後、ベッドの上のあの騒ぎになったのである。
自爆材料であるその記憶に触れないように、メイは記憶を遠くへ放し飼いにした。
まだ、彼女は冷静にそれを処理できないのだ。
昨夜のビーフシチューの残りと、パンに温かいミルク。
コーヒーは、今は飲まないの。
そうハルコが笑ったのを、メイは耳の余韻に残していた。
昨夜の食事風景とは、何もかもが違っていた。
怒鳴り声はなく、穏やかで静かだった。
けれども、昨日彼の座っていた席を見てしまう。
シチューが指についたのを舐めていた画像が、やや劣化した画質だけれども、記憶の中にコピーされていた。
「ねぇ…差しでがましいかもしれないけれども…彼と、仲直りできなかったの?」
記憶の画像に足を取られていたメイは、その言葉にハッと我に返った。
よく聞こえない。
そういう顔をすると、もう一度ハルコは、いま自分の言った言葉を繰り返した。
仲直り?
メイは首を傾げた。
何のことか分からなかったのだ。
仲直りというほど、カイトと仲がいいワケではない。
彼にしてみれば、メイは被保護者のようなものだ。
「あら…? 私、何か勘違いしているのかしら?」
そんなメイの、不思議そうな顔を見たのだろう。
ハルコは、自分の推理に苦笑していた。おかしいわね、と。
「あ!」
そこで、メイは分かったのだ。
彼女が、自分たちの関係をそういう風に見ていたということを。
メイが昨日泣いたのも、カイトが怒鳴っていたのも――ハルコの目には、そう映ったのだろう。
「あ…違います! そんなんじゃないんです…全然違います!」
急いで否定する。
カイトに妙な誤解をくっつけるワケにはいかなかった。
確かに。
彼のことが好きだけれども、それを言う日はきっと来ない。
この状態では、絶対に来てはいけないものなのだ。
「え…ああ、そうなの…私はてっきり…でも、彼は…」
戸惑いがちに、いろいろな言葉がハルコの唇からこぼれる。
最後は小さく消えていったけれども。
考え込む瞳。
やっぱり。
一つ屋根の下の同じ部屋に、男女が一緒に過ごすのは、絶対に誤解の元だ。
だから彼女も、そしてあののっぽのシュウも、そういう目で見てしまったのだろう。
このままでは、本当にカイトに悪い噂を立ててしまいそうだった。
「あのね…今日電話があったのよ。あなたのために客間を用意してくれって…それで少し気になって…ごめんなさい。変に勘ぐって」
席から立ち上がりながらも、ハルコはまだ少し考えているような顔だ。
「いえ…そんな。私こそ、よくしてもらって…ホントに、信じられないくらいです」
本当なら、いまもまだあの店で働いていたはずだ。
昨日の夜も、ああいう姿で知らない男の人の横に座っていたに違いなかった。
「事情を聞いてもいいかしら? 勿論、ダメだったらいいのよ」
にこ。
お茶のお代わりを注ぎにきてくれる。
メイは、反射的に硬直した。
事情。
彼女が、この家に来ることになった事情のことを、ハルコは言っているのだ。
真実の内容が、頭の中のベルトコンベアに乗せられて見えてくる。
一つ一つ、荷物のように乗って通り過ぎているけれども、どれもこれも見栄えのいいものはなかった。
目をそらしたいものばかり。
言えない…。
メイは口をぎゅっと閉じた。
でも、いつかカイトが言ってしまうのだろうか、彼女の過去を。
いや、そうしないでいてくれるような気がする。
そんな気がした。
カイトは口べたで不器用そうだけれども、すごく優しい人だから。
多分、言わないでいてくれる。
けれど、そういうことを聞いたら、ハルコがいままでと見る目を変えてしまいそうな気がした。
生まれも育ちもよさそうな彼女には、多分、信じられない世界だろう。
「ああ、ごめんなさい…無理を言ったわね」
向かいの空いている席に再び座りながら、ハルコは返事を要求しなかった。
沈黙で察してくれたのだろう。
「いえ…その…」
メイは言葉を探す。
ここにいればいるほど、どっちにしろいろんな人に事情を聞かれる日が来るだろう。
いつまでも、だんまりではいられないのだ。
全部ありのままでなくても。
好意で彼女をここにおいてくれているのだと、それくらいはうまく伝えないと、彼が誤解される。
女を囲っているとか。
自分がいま想像した言葉が、余りに下世話で、でもありえそうな誤解ということに気づく。
カイトを冒涜しているような気がしてしょうがなかった。
でも、誰かが考えてしまうかもしれないのだ。
そんな誤解で、彼を包みたくなかった。
「…私がとても困っていたところを…あの人が助けてくださったんです。その…私、行くところもなくて」
だから、自分はここに置いてもらっているのだと、メイは下手な言葉ながらに、ハルコに必死にアピールしようとした。
唇が震えてしまうのは、怖いから。
これ以上のことを具体的に聞かれても、何も答えられないせいだ。
カチャ。
ティーカップが小さな音を立てた。
その間、沈黙が流れる。
どこを見たらいいのかも分からずに、ただじっとしていた。
「ごめんなさい…立ち入ったことを聞いてしまって。この話はやめましょう? さぁ…これから、あなたの部屋の準備をするけれど…好きな色は何?」
重くなった空気を取り払うかのように、ハルコは優しい笑顔を浮かべた。
そうして、好きな色を聞いてくるのだ。
好きな、色。
しかし、刹那に翻るのはカイトのグレイの目で。
灰色はそんなに好きじゃなかった。
けれど、昨日くらいから、一番好きになった色なのだ。
ただ―― 灰色が好きとは口に出して言えなかった。
女性が余り好む色ではなかったし、言ったが最後、ハルコには全部見透かされてしまいそうな気がしたのだ。
「あ…何でもいいです」
そう答えるのが精一杯。
「何でもいい…は、この家じゃ禁止なの。さぁ、好きな色を言って」
けれども、ハルコの笑顔は許してくれなかった。
でも、カイトだってきっと、『テキトーでいい』とか『何でもいいぜ』とか言っているのではないかと思ってしまう。
それとも、事細かに色指定をしているのだろうか。
「言わないと…シーツの色を灰色にするわよ」
気がおもーくなるような、ね。
冗談なのだろうけれども、メイは慌ててしまう。
好きな色を、見透かされてしまったかと思った。