12/01 Wed.-2
●
バン!
メイはベッドの上から、脱衣所のドアが開いて出てくるカイトを見ていた。
刹那に走るデジャ・ヴ。
これと同じシーンを彼女は知っていたのだ。
思い出すまでもなかった。
それは余りに近い過去―― 昨日の朝の出来事である。
昨日もあんな風に、会社に行くためにカイトは着替えに入って、そして。
メイは、ドキンとした。
彼がまた顔をしかめて、ネクタイを首にひっかけていたからである。
立てたシャツの襟に顎をぶつけながら。
あ。
ついでに様々なことを思い出してしまった。
ワンショットワンショット、細切れのように思い出す。
メイの脳の円滑なムービーは、いまは品切れだったのだ。
出ていった彼。
追いかけた自分。
階段のところで。
どうしよう。
ベッドの上で、メイは戸惑った。
頭の中は、冷静とか落ちついているとか、そういう言葉とは無縁だった。
それどころか、昨日からの出来事のどこまでが真実なのか夢なのか、判断しかねていたのだ。
一緒に食事をしたのも、腕を引っ張られたのも、シャツのシミを抜いたのも。
同じベッドで眠ってしまったのも。
一体、どこまでが真実なのか。
うまく取捨選択が出来なくて、メイはベッドで戸惑ったままだった。
シュカッ。
そうしている内にカイトは、昨日よりは時間があるのか、ヘアムースでざっと髪をかきあげた。鏡も覗かずに。
ヘアムースの缶は、そのままそこらに転がされて。
準備が整ってしまったようだ。
彼は上着を腕に挟むようにして、出ていこうとした。
あっ!
待って――言いたくて言えない言葉が、反射的に彼女を突き動かそうとする。
けれども、やはり声にはならない。
カイトは、またもネクタイをぶら下げたままだったのだ。
また、出ていった彼を追いかけるのだろうか、自分は。
衝動の流れを掴みかねたまま、メイは伸ばしそうになった指先を、ヒザの上に置いて見つめた。
どうしようと、もう一度心で呟く。
どうし…あれ?
メイは、力無い自分の指先を見つめたまま、そう思った。
いや、指先に異変があったワケではない。
ただ。
少しの違和感が。
何だろう?
その感触が分からずに、彼女は顔を上げた。
キョロキョロとしてみた。
異変は何もない。
ただ、カイトがドアのところにいるだけである。
いまにも出ていきそうに、彼女に背中を向けたまま。
おかしいことなど――あれ?
メイは、眉を寄せた。
カイトが、いるのだ。
背中を向けているけれども、ドアのところにいた。
それが、何よりの違和感だと分かったのだ。
彼の性格が、せっかちだとか短気だとか、人よりも時計の回りが早いとか、そういうことはメイにも分かりかけていた。
そんな彼が、まだドアのところにいるのである。
カイト時間で動いているなら、もうとっくにドアの向こうにいるハズだ。
なのに、ドアが開く音も閉まる音もしなかった。
彼が、グズグズしている。
メイは、じっと目をこらした。
見れば、カイトは上着の内ポケットを探っていた。
何か、小さな声でブツブツ言いながら。
大事なものでも探しているようである。
ああ。
だからね、とメイは納得した。
出かける時に、何か必要なものを忘れると大変だ。
彼女だって、玄関口で何度となく鞄を開けて中身を確認した記憶がある。
それと同じ現象なのだ。
えっと。
そうして、またメイは戸惑いを続けた。
指先を見る。
「カイト…そろそろ降りてきて下さい」
時報を告げるように、ドアの向こうの辺りから声が投げられる。
そんなに近くないところからのハズなのに、はっきりとその声は聞こえた。
怒鳴るようなものではない。
距離と音量を巧みに計算しているような、そんな精密な音だ。
あっ!
行ってしまう!
その最後通告に突き動かされて、メイはベッドを飛び降りた。
カイトはまだドアのところだった。
「わぁーってんだよ! おとなしく待ってや…!」
こっちは、まったく計算されていない怒鳴り声。
それをドアの外に向かってカイトが言っている――が、途中で止まった。
メイが、彼のすぐ側まで駆けてきたので、きっと驚いたのだろう。
怒らないで…。
彼女が出来るささやかなことを、カイトにしてあげたかった。
だから、こんなささいなことで怒らないで。
祈るような気持ちで、彼に指先を伸ばした。
「すみません…」
身体ごと振り返るカイトの胸の内側に、するっと指先を滑らせる。
何の抵抗なくネクタイを掴めた。
「すぐ…すぐ、終わりますから」
カイトの目を見ないようにする。
こんな近くで覗くには、余りに熱い目なのだ。
彼の顎の辺りを見つめたまま、メイは慌てた指でネクタイを締めた。
いまにも間近から、怒鳴り声が飛んできそうだ。
自分の身体が、すっかり構えてしまっている。
チラリ、とカイトの唇が目に入るが、それは少し開いたままだった。
怒鳴るために力を入れる気配がなく、ホッとする。
まだ、侮れないけれども。
「カイト…」
メイは、ビクリとした。
ドアのすぐ側から、その呼び声が聞こえたのである。
出てこない彼を迎えに来たのだ。
あ、どうしよう。
あとちょっとでネクタイは締め終わるけれども、いま開けられたら。
こういう現場を、あののっぽのシュウという男に見られたら。
ただでさえ誤解されているのに。
緊張が走ると、途端に指先が悪い魔法にかけられる。
うまくネクタイが掴めない。
最後の通しがうまくいかずに、メイはもたついた。
それで更に胸がドキドキする。
ガチッ。
そういう金属音がした。
何か分からなかったけれども、とにかく慌ててネクタイと格闘する。
「カイト…いるんでしょう?」
返事のないドアに、指がかかるような音がした。
ああ。
ようやく最後の通しが出来たけれども、ここからきゅっと襟元まで詰めなければならない。
開けられる――間に合わない。
メイは、悲鳴のようにそう思った。
が。
ガチャガチャッ!
ドアノブは回されたようだが、ドアは開かなかった。
ただ無情な、ロックの音を立てるだけである。
あっ!
メイは、ぱっと顔を上げた。
そこには、カイトの目があるはずだった。
彼は――仏頂面で斜め上を向いている。
だから、メイと目が合うことはなかった。
ひん曲がるように閉ざされた口。
眉がイライラしている。
メイは、分かった。
彼が、さっき後ろ手でドアのカギを閉めたのだ。
「下で待ってろ…」
その口が開く。
イライラを押し殺すように、怒鳴るのをこらえるように唸る。
「……分かりました」
室内の空気の温度でも計っているかのような声が、しばらくの沈黙の後に流れる。
足音が遠ざかる。
ほぉっとメイは、ため息をもらした。
が、そんな悠長な時間はない。
わざわざネクタイのために、カイトの仕事の邪魔をするワケにはいかなかったのだ。
きゅっと最後に喉元に上げて、かすかな曲がりを調整する。
でも、嬉しかった。
ネクタイから指を離したくないくらい嬉しかった。
彼女がネクタイを締るのを、許してくれているような気がしてしょうがなかったからだ。
ようやく、ネクタイから手を離した。
そっぽを向いているカイトからでも、終わったことが分かっただろう。
さあ、次は。
グズグズしていられない。
メイは、カイトを見上げた。
「えっと……何か探してらっしゃるんだったら、お手伝いしますけど」
上着の中から見つからないものなら、もしかしたら部屋のどこかにあるかもしれない。
それくらいだったら、役に立てそうな気がしたのだ。
すると。
カイトの顔が、ぱっと歪んだ。
調子の乗っていた自分に、メイはびくっとしてしまう。
ぱっと顔を伏せて、怒鳴りに構えた。
「……もういい」
しかし、怒鳴りではなく、またも押し殺したような声。
「え?」
顔を上げると、カイトは背中を向けてドアに向かっていた。
「別に何も探し…いや、もうあったからいい!」
バンッ!
声は、ドアを開ける大きな音でかき消されそうだった。
メイがあっと思った時には、もうその背中は視界から消えていた。駆け出したのだ。
開いたままのドアから首を出すと、カイトが階段を駆け下りるその背中が見えた。
一瞬ちらっと、彼が喉元に指をかけているように見えて。
もしかして、ネクタイの締め方がきつかったのかと、メイは心配になった。
けれども、それはもう確かめられない。
ガタン、バタン!
いろんなものの音と、怒鳴り声をたてながら――彼は出かけてしまったのだ。