11/29 Mon.-3
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ボーゼン。
メイは、ワケが分からないまま、その部屋まで連れて来られた。
ずっと空調をつけっぱなしにしていたのか、ひどく暖かい部屋である。
それだけではなかった。
すごく広い部屋――いや、すごく広い家なのだ、ここは。
タクシーが、郊外の一軒家の門の前で止まった時、正直びっくりした。
いくら郊外とは言え、こんな洋館があることは知らなかったのだ。
カイトと名乗った男が、リモコンみたいなのを操作する度に、門が開いたり玄関までの明かりが灯ったり。
何が何だか分からない彼女には、まるで魔法のように見えた。
彼からの説明は全然なく、とにかく部屋の中まで連れてこられる。
キョロキョロ。
メイは落ちつかずに周囲を見回した。
な、何をされちゃうの?
メイの一番の不安は、そこだった。
たとえ、カイトがお金持ちであっても、何の裏もなく彼女の借金を払うハズがない――そう考えたのである。
当然の思考だった。
大体、まだ借金が本当になくなったという事実を、メイは信じられないでいるのだ。
父親が死んで、遺産の整理をしたら借金だらけで。
ヤクザみたいな人たちが来て、連れていかれたのが、あのボスのところだった。
『大丈夫よ、あんたが借金を返せばいいの』
うちで働きなさい。
そう言われたのが数日前のことだった。
メイは23歳で。
大学卒業して働き出したので、そう長い年月はたっていない。
自分自身の蓄えなどスズメの涙程度で、とても父親の借金を払えなかった。
だから、会社も辞めた。
もっと稼ぎのいい仕事につくために。
頑張れば、一ヶ月分の給料を一日で稼げるわよ、と言われたその職につくために。
それでも、あのボスはきっと、借金取りにしてはいい人だったのだ。
父親の供養を終わらせるまでは待ってくれたのだから。
葬式の費用も出してくれた――でなく、貸してくれた。
どんな店で働くのかなんて、分からなかった。
ただ、今日の夕方に連れてこられた店を見て、背筋が冷たくなった。
ランジェリー・パブ。
名前だけは聞いたことがあった。
そういうお店があるということくらいは。
イヤ……。
その言葉が喉まで上がりそうになった。
しかし、頭のスミでは分かっていたことでもあった。
女一人でそんなに稼げるカタギの商売など、ありはしないのだ。
控え室では他の女性たちが、ほとんど全裸のような騒ぎで化粧や髪の手入れをしていた。
目のやり場がなく、オロオロしていると。
「はやく……ほら」
彼女に衣装が投げられた。
白い下着。
こんな格好で人前に出るのだ。
「あんた初めて? 大丈夫、すぐ慣れるよ」
「そんな化粧じゃダメダメ……アタシがやったげるから」
「ちゃんとお手入れしないと、ボスはそういうとこ厳しいからね」
彼女らは、みな自分と似たような境遇なのだろうか。
よくメイには分からなかったが、それでも先輩たちの手で、着替えと化粧をすます。
鏡を見た。
そこに、自分はいなかった。
鏡を見た。
カイトに連れて来られた部屋にも、姿見があったのだ。
メイは、まだそこにいない。
似合わないベタベタの化粧と、似合わない派手な毛皮と。
これは、誰?
毛皮を脱ぐと、下は男を喜ばせるための下着なのだ。
これは……だ――
「おい!」
不意に声をかけられて、びくっとメイは震えた。
続き部屋になっている隣の部屋からだ。
自分を連れ去った男の声。
水音が聞こえた。
目をやると、ウィスキーで汚れたままのシャツの袖を肘までまくりあげて、彼が戻ってきた。
「風呂入ってこい」
顎でその部屋を指す。
強引な態度だ。
思えば、最初からこの人は強そうな人だった。
背はそんなに高くなく、見た目に迫力は全然ないのに、でも彼は強そうに見えたのだ。
目とか表情とか態度とか、そういうもので相手を威嚇するのだ。
「あの……でも」
毛皮のふちをぎゅっと握って、メイは自分でも何が言いたいのか分かっていなかった。
「とっとと、その極楽鳥みてーな毛玉と、媚びる下着と酒とタバコの匂いと、全然似合ってねー化粧を捨ててきやがれ」
全部気に入らねー。
とにかく、カイトは一気にその気に入らない項目を並べ立てた。
すごくイヤそうな顔だ。
顰めっつらで言い捨てるような言葉。
短気な性格らしく、すぐ語尾が荒くなる。
あの店でもそうだった。
あ。
メイは、何となく悟った。
確かに借金はなくなったのだろう、自分は。
代わりに、カイトに買われたのだ。
要するに、彼女にとってはボスが替わっただけ――それだけに過ぎないのである。
そして、無傷で済むワケがなかったのだ。
そうよね。
メイはうつむいた。
うつむいたまま、彼の言うバスルームへ向かったのだ。
バタン、とドアを閉めて。そのまましばらく動きを止めていた。
ドアの向こうのカイトが、離れていく音を聞いた。
それに少しホッとする。
このまま、乗り込んで来られるんではないか―― 一瞬、そういう不安がよぎったのだ。
しばらく、背中ごしにドアから彼の気配を探すけれども、もう何も感じなくなった。
毛皮を脱いで、泣きそうになりながら下着を外す。
でも、まだ全然裸になった気がしなかった。
顔に張り付いている仮面のせいである。
バスルームに入ると、お湯が張ってあった。
湯気だらけのそこに入ると、彼女はまず化粧を落とした。
クレンジングなんかここにはない。
ただの洗顔料で、何度も何度も顔を洗った。
でも、まだ落ちていないような気がしてしょうがない。
濡れた手で、鏡のくもりを取りながら、身体が冷えてるのも構わずに、何度も顔を洗う。
ようやく。
自分の顔が出てきたような気がした。
次は身体だ。
まだしみついているお酒とか、タバコとか、いやな人に触られた感触とか。
しかし、幸い一番最後のは、ほとんどなかった。
何しろ、カイトが一番最初の客だったのだ。
ぎゅっと。
彼にぎゅっとされた時があった。
驚いたけど、あの時は本当はイヤじゃなかった。
ビックリはしたけれども、全然いやらしい感じはしなくて。
何か、こう、もっと。
別の感じがあった。
彼のことは、全然分からなかった。
笑っていたかと思うとイライラしだしたり、抱きしめたりいなくなったり――そうして、ボスにアタッシュケースを開けた。
泡だらけになりながら、メイは網膜に残った映像を呼び起こした。
信じられない光景ばかりだった。
ボスの言葉に怯むどころか、彼は不敵な笑いさえ浮かべて、アタッシュケースを開けたのだ。
身体を流す。
でも、まだ髪にタバコや酒の匂いがしみついているのが分かって、髪を洗った。
男物のシャンプーらしく、トニックめいたすっとした感じが広がる。
女の人は、いないらしい。
それは、風呂場の様子を見て分かった。
しかし、男だけで暮らしているには、イヤに綺麗にしてある。
他の部屋に、いるのかもしれない。
分からないことだらけなせいで、メイはグルグルといろんなことを考えてしまった。
しかし、考えが尽きるよりも先に、身体の方が綺麗になった。
頭がぼーっとなるまで、湯船に浸かる。
本当は、出たくなかった。
あのカイトは、そういう人じゃないと思いたかったのだ。
いや、ありえない話だ。
それでも、心のどこかで信じたがっていた。
あの抱きしめられた感触から。
しかし。
これが現実なのだ。
メイは、一度、目をうんとぎゅっとつぶった後、覚悟をして風呂場を後にしたのだ。
脱衣所に置いてあるのはバスタオルで。
他に着替えはなさそうだ。
しょうがなく、身体にタオルだけを巻き付けて。
そうして。
脱衣所を出た。
そこに――カイトがいるのだ。