11/30 Tue.-21
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立っている状態で暗くなると、反射的に足がすくむ。
メイは、調理場と同じ怖さを味わった。
けれども、あの時とは違うことがある。逃げ場所がないのだ。
調理場からは明るいダイニングに逃げ込むことが出来たけれども、ここではどこに逃げようもなかった。
ただ立ちすくむしかできない。
昨日、部屋を暗くされた時はもうベッドの中で。
ああいう風に横になっている状態だと怖くないのに、こうなると途端にメイは何がどこにあるのか分からなくなる。
いや、冷静になれば分かるし、真実の真っ暗闇というわけではないから、目さえ慣れればいいのに、先に身体がパニクるのだ。
とりあえず、手探りでベッドに戻ろうとする。
何かに触っていないと、落ち着かなかった。
あ、どこ…ど…!
立ったまま伸ばした手で、ベッドなんか触れるハズがない。
方向はあっていたけれども、彼女は思いきりベッドのへりにつまずいた。
「きゃあっ!」
ばふっ!
暗いと何でも怖いものだ。
悲鳴をあげてしまったメイは、ベッドにつっぷした。
全然痛くなんかなかったが。
次の瞬間。
パッと明かりがついた。
跳ね起きるソファのスプリングとほぼ同時だった。
つっぷしていた彼女も、何とかその後に身体を起こすことができて。
明かりをくれた相手の方を見ると、カイトは――彼は、いまにもソファから飛び出してこんばかりの体勢だった。
ソファのへりに片足をかけた姿勢で止まっていた。
見開かれたグレイの目。
それと目が合う。
はぁー…。
グレイの目が閉じると同時に、すごく長い吐息がこぼれた。
安堵の。
そう、それは安堵の吐息とよく似ているように思えた。
あ。
自分の悲鳴が、心配させてしまったことに気づく。
「あ…さっきのは…その…えっと……ビックリしただけで…ごめんなさい」
慌てふためいた言い訳なんて、うまく出来るわけもない。
最後は、まともにしゃべれない自分が恥ずかしくなって、声を小さくして謝るしかないのだ。
どうしよう。
胸によぎるのは、そんな思い。
いまの事件について、ではない。
いや、いまの事件でも、と言った方が正しいか。
どうしてカイトはそんな罪作りなことをするのだろう。
悲鳴をあげようが泣こうが放っておいてくれるなら、こんなに胸が締め付けられたりしないのに。
そんな優しさを向けられてしまうと、ひどく苦しくなってしまう。
カイトは、リモコンを持ったままの手でバリバリと頭をかいた。
「寝ろ…」
唸るように、絞り出すように、カイトはそれを言った。
いろいろ心の中に言いたいことはあるようだが、結局その言葉しか出てこなかったような、そんな雰囲気の声。
彼という男は、本当に言葉が苦手のようだ。
だから乱暴で強引な態度や、結論だけを持ってくるようなしゃべり方をするのである。
でも、すごく優しい。
メイは、彼に庇護されている小動物のような気持ちになった。
いや、犬や猫だった方がよほどマシである。
カイトへの愛情を表現するのに、何の足かせもないのだから。
「でも! 私だけベッドだなんて、そんなの…やっぱり、おかしいです」
ベッドの上に、座り込んで訴える。
立ったところを、また電気を消されたら困るからだ。
何とかして、その気持ちをちゃんと伝えたかったのだ。
カイトは働いていて忙しくて、今日だってきっと疲れてきているに違いない。
だから、こんなに寝るのが早いのだ。
昨日は彼女の事件のせいで、随分遅く寝させてしまったし。
つらいに違いないのに、その上にソファだなんて。
身体が休まないだろう。
「いいから…寝ろ」
突きつけるように、しかしカイトはその一点張りだった。
相手の許可も意見もへったくれもない。そうしろ、と命令しているのである。
メイの眉はハの字になった。
会話の形が命令になったら、どうして彼女が拒めようか。
「あの…やっぱりソファと交代しては…くれま…」
彼女の最後の抵抗は、しかし、ソファからのギロッという睨みでついえた。
うつむいて、メイは言った。
「電気…消してください」
スプリングがはねて、ソファに戻った音がする。
またカイトがそこにひっくり返ったのだろう。
フッ、と明かりが消える。
メイは、まだベッドの上だった。座ったままなのだ。
目をどんなにこらしても、もうソファの彼の姿は見えない。闇が深く邪魔をしているからだ。
とりあえず、自分の下にある毛布を引き剥がした。
ギシギシとベッドがきしむ音が大きく感じてビックリしながらも、ひきはがした毛布にくるまる。
まだ。
全然眠くなかった。
そうして、彼がベッドで眠らないというのなら、せめてカイトの寝息を感じるまで、こうして起きておきたいと思ったのだ。
座ったまま、メイは全身をアンテナにした。
全てソファの方へとそそいで、耳と心を澄ます。
ギシッ。
ソファがきしんだ。
彼が寝返りでも打ったのだろう。
ばさっと毛布をかけ直すような音も聞こえて。
メイは目を閉じた。
そうすると、もっと彼の気配を拾えるような気がしたのだ。
それは全て、ジグゾーパズルのすごく小さな一個の切片。
カイトという完成図を仕上げるためには、どうしても必要な破片でもあった。
ふーっと吐き出される息。
きっといまは仰向けで、天井に向かってそんな息をついているのだろう。
息を殺して、メイはその音を拾い集めた。
自分の身じろぎ一つで、取りこぼしたりしないように。
目を閉じた瞼には、背中がよみがえる。
いつも彼女を引っ張っていく背中。
心の中だったら。
何度抱きしめても、誰からも咎められたりしない。
今日、抱きしめたくて出来なかった気持ちで、せめて心の中で彼女はカイトの背中を抱いた。
きっと、こう。
いろんな記憶をモンタージュして、カイトの背中の感触や体温を作り上げようとする。タバコの匂いも混ぜて。
でも、形が固まる前にぐにゃっと歪んで、ビジュアルもバーチャルな感触も、手からすり抜けてしまう。
うまくいかない。
何をやってんだろう。
そんな自分に気づいて、ちょっと笑ってしまった。
慌てて口を押さえる。
カイトに気づかれたのではないかと思ったのだ。
けれども、ソファの気配はさっきと変わらない。でも、まだ寝息じゃなかった。
さっきみたいに、ふーっと吐き出すような息は分かったのだけれども。
繰り返されている普通の呼吸を感じられない。
まだ、起きている証拠である。
そうして、アンテナを立てて、10分が過ぎた。
いや、暗いから分からないだけで、実は30分くらい過ぎてしまったのかもしれない。
とにかく、それでもなお規則正しい寝息が聞こえてこないのだ。
もしかしてもう寝ているのだろうか。
あんまりソファが静かなので、メイは不安になる。
カイトの寝息は静かなのかもしれない――そう思いかけた。
もう少し待つ。
でも静かだ。
もっと待った。
でも、限りなく部屋が静かであることしか分からない。
眠った、の?
やっぱり自分の想像違いで、この静かさが彼が眠っている証なのかもしれない。
そうメイは思った。
しかし。
「…何で寝ねーんだよ」
ぼそっと。
かき回したスープ鍋から、入れたハズのない具が見えた気分だ。
ブロッコリーは入れていないハズなのに。
彼が起きているだけでなく、自分が起きていることまでバレバレだったのである。
ギクッとしてしまうが、動けるハズもない。
いまバタバタと動けば、ベッドがきしむ。
そうすれば、カイトの言葉通りです、と彼に宣言するようなものだ。
口を閉ざしたまま、メイは息を殺した。
「何だ…寝ちまってんのか」
またぼそっと。
独り言のように、カイトは呟いた。
それにほっとするが、安心のため息なんかつけるはずもない。
いい誤解をしてくれているのだから、このままカイトにはそう思われていたかった。
「はぁー…」
メイが眠っていると分かったからなのか。
カイトはため息をついた。
肩の力が抜けたような、本当にほっとした息。
やれやれ、という言葉が後ろにくっつきそうだ。
「やっぱ、ダメだ…」
呟かれたのは、それだけだった。
メイは固まったままベッドの上だったけれども、カイトはソファから起きあがると、暗闇の中を器用に歩いていた。
ガチャ。
ドアが開けられる。
廊下につながるドアだ。
廊下はまだ電気がついていて、彼の姿が一瞬シルエットになる。
パタン。
しかし、すぐ閉ざされて、またメイは闇の中に取り残された。
ダメって…。
何が?
彼が最後に残した言葉がひどく気になる。
悪い予想が、取り巻く闇のように胸にまで忍び込んで来ようとするのだ。
メイは毛布の自分の身体を抱えた。
早く帰ってきて欲しかった。
1人でこんなところにいたくないのだ。
随分長い時間が経ちすぎて、ついに彼女が座り込んだままうとうとし始めても――カイトは帰ってこなかった。