11/30 Tue.-20
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出られねぇ。
風呂上がりのカイトは、メチャクチャ緊張しながら、部屋に戻る扉の前にいた。
このドアを開けたら、またメイのいる場所に戻るのだ。
けれども、その勇気がなかなか起きなかった。
風呂という時間だけでは、自分の信用は回復しなかったのである。
しかし、いつまでもこうしているワケにもいかず、カイトはようやく覚悟を決めてドアを開けた。
ガチャッ。
勢い込んで開けたはいいが――
あ?
カイトはまばたきをした。
あると予想していた、あの黒髪が見えなかったのである。パジャマも。
もう寝てしまったのかと、ベッドの方へ行きかけるが、毛布の中に身体の厚みはなかった。
枕はベッドの側に落ちたままで。
いねぇ!
室内をぐるっと一周するまでもなく、それははっきり分かった。
彼女は、この部屋にいないのだ。
まさか…。
出て行ったんじゃ。
冷たい手が、カイトの心臓を触った。
全身が、一瞬にして凍り付く。
バカヤロウ!
その感触を振り払うように、カイトの身体は急速解凍された。
どころか、一気に沸騰した。
足にロケットスターターをつけたかのように、彼は駆け出していたのである。
ドアを壊れんばかりの勢いで開け、廊下に飛び出す。
左右を見るが、やはり人影はない。
カイトは、迷うことなく階段の方へと走った。
きちんとボタンを止めていない、パジャマの裾を翻して。
メイ!
彼女の名を心で叫びながら、彼は階段にさしかかった――ところで、急停止した。
いたのだ。
カイトが探していたメイは。
階段の下の方に。
いまから部屋に戻るところだったのか。登って来ようとしている状態で。
けれども。
状況など、どうでもよかった。
彼女は、そこにいたのである。
それを確認した瞬間に、カイトは全身の力が抜け落ちそうになった。
下手したら、そのままヘナヘナと座り込んでしまいそうだった。
思わず、階段の手すりに寄りかかる。
いなくなったのでは、なかったのだ。
その事実が、彼の身体に乱暴な安堵を押しつけたのである。
本当に、本当に、全て自分じゃないような気がした。
この身体中も、心も。
…クソッ。
手すりを掴んで、カイトは一歩階段を下りた。ゆっくりと。
胸の裏側がジンジンした。
何で、彼女がいなくなることをこんなに自分が恐れているのか――いや、いなくなった時の仮定を、いま突きつけられたような、そんな気がした。
メイがいなくなると。
自分は、ああなってしまうのだ。
その事実が、信じられなかった。
足の裏が冷たいことなんて全然感じずに、彼は階段を下りた。
あと3歩。2歩。
そうして、1歩。
うつむいた彼女の真ん前で止まって、カイトはまだ半乾きの黒い髪を見る。
何で。
何で、部屋から出てたんだよ、おめーは。
そう言いたかったのに。
怒鳴りたかったのに、カイトの口は開かなかった。
まだ、ショックから抜け切れていないのである。
けれども、彼女が何かを後ろに隠しているのは分かった。
ショックのせいか、自分でも何の気負いもなく彼女の腕を掴むことが出来た。
そのまま引っ張ると、白いものと一緒に手が出てくる。
メイの細い指に握られていたのは。
彼の。
白い。
シャツ。
カイトは、目を見開いた。
シャツにも驚いたのだが、それだけじゃなくて。
メイの腕が、余りに冷たかったから。
こんなに冷たくなるまで、彼女は何をしていたのか。カイトのシャツなど持って。
もし、これが今日彼が着ていたシャツであるなら、脱衣所で脱いだハズである。
出てくる時の緊張にかまけて、床に脱ぎ捨てたハズのシャツのことなど気にしてもいなかった。
今日着ていたシャツ。
カイトは、眉を顰めた。
シミをつけたことを、思い出したのだ。
食事の時に、シチューをよそうなどという、慣れないことをしたせいである。
シミをつけたこと自体は覚えていた。
ただ、それどころではなかったし、細かいことは気にならなかった。
しかし。
気になった人間がいたのである。
メイは、おそらく、彼のシャツのシミを抜いていたのだ。
バカ野郎…。
シャツのシミなんて放っておけばいいのだ。
こんなに冷たくなるまで、風呂上がりの半乾きの身体のままで、するほどのことではないのだ。
見れば、彼女も裸足だ。
冷たくないハズがない。身体中冷え切っているのは間違いなかった。
シャツなんか、どうでもいいんだよ!
この、バカ!
心の中で激しく怒鳴っているというのに、口はまだ開かない。
ただ。
狂おしく、抱きしめたかった。
何度目の衝動だろうか。
自分でも分からなかった。
その衝動のままに従ったのは、最初の一回だけだ。
まだ、この家に来る前の彼女を抱きしめた。
初めて覚えた瞬間で、こらえきれなかったのだ。
何度も覚えたからといって、楽にこらえているワケではない。
ただ、それは彼女に誓った約束を違えることだ。
プライドを賭けて許せないことだった。
メイは、まだ顔を上げない。
きっと、彼に怒られるとでも思っているのだ。本当に、怒鳴ってばかりいるので。
それは、おめーが!
言いかけるけれども、それもまた怒鳴りになりそうで。
口にずしっとカセがはめられる。
もう一度、心の中でクソッと呟きながら、カイトは彼女の腕を引っ張った。
早く暖かい部屋へ連れ戻したかったのだ。
こんな冷たく、静かで、そうして角度のある空間にいたくなかった。
ぐいぐいと引っ張って。
そう。
またカイトは、彼女を引っ張るハメになっていたのである。
部屋に戻って、メイを中に引っ張り込むと、ドアをガンと乱暴に閉める。
そうして――腕を放した。
彼女は、放されたままの場所で立ち止まっている。
胸にシャツを抱えたまま。
ムッ。
そのシャツに腹が立った。
そんなものがあったから、メイはあんな真似を。
グイッとシャツを掴んで引っ張ると、指が追いかけるように、でもすぐに引き剥がされた。
構わず奪い取ると、そのまま床に投げ捨てる。
メイは声も出さなかった。
ただ、慌てた目で追って。
そうすることも腹立たしかった。
シャツなんか、どうでもいいだろ!
また、強く腕を掴む。
そうして引っ張った――ベッドへ。
つめてー手ぇしやがって、チクショウ…チクショウ!
どんなにカイトの体温を分けても、彼女は温かくならないような気がする。
そう思うと、物凄く腹が立った。
「あっ…!」
そんな彼女の身体をぐいと引っ張って、ベッドの上に転ばせる。
ピンクのパジャマの身体が、シンプルなベッドの上に、まるで花を咲かせたようだった。
それを見ないように、カイトはぱっと視線をそらした。
別に。
彼女は裸というワケではないのに。
「あ…あの…っ!」
ベッドの上で起きあがったのか、彼に向かって声が投げられる。
しかし、聞かなかった。
そのまま、カイトはソファに向かったのである。
一体、いま何時だと思っているのか。
日付変更線など、まだ遠い時間なのである。
普通の日であっても、たとえ彼女がいなくても、眠いハズなどないのだ。
なのに、そんな時間にも関わらず、カイトはソファに転がしておいた毛布を掴んで広げた。
そうして、ソファにひっくり返る。
オレは眠いんだ!
そんなオーラを全身から発し、毛布にくるまる。
手で、照明のリモコンを掴みながら。
「そんな、ダメです!」
何がダメなのか。
メイが悲鳴のように言った言葉も無視して、明かりを消そうとした。
が。
彼女が、調理場で暗闇を怖がったことを思い出す。
指が躊躇してしまった。
そのせいで。
「ベッドで寝てください…私がソファで寝ますから!」
忌々しいことに、せっかくベッドに置き去りにしてきたメイが、また降りたってきてしまったのだ。
そうして、カイトの方へと近付いて来ようとしていた。
内容と行動にムッとした彼は。
荒っぽい指の動きで、照明を落とした。
部屋が、いきなり真っ暗になる。
「あっ…!!」
声が――立ち止まった。