11/30 Tue.-19
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カイトは、物凄い勢いで脱衣所に突進して行った。
バタン、ドタン!
ドアが開いて閉まると、いきなり世界が静かになってしまう。
そんなにお風呂に行きたかったのなら。
メイは、随分と自分が彼に悪いことをしてしまったことに気づいた。
シャツのことをヌキにしても、やっぱり先にお風呂に入ってもらえばよかったと後悔する。
確か、昨日も。
人にはお見せできない格好のメイを、風呂に行かせてくれた。
あの後、いろいろ混乱したり立て込んだりしたから、きっとカイトはお風呂のタイミングを逃してしまったのだ。
今朝、そのドアから出てきた彼を思い出す。
シュウと呼ばれる男に問いつめられていた時だった。
あの時も。
彼女は、まだ身体になじんでいない新しいパジャマに、落ち着かない気持ちを抱えたままソファに座った。
あの時のカイトは、2人の状況を見るやいなや――のっぽの男に食ってかかった。
守ってくれようとしたのかな。
ぽっと、まるで灯火のような光が胸に浮かぶ。
けれども、メイは慌ててその火を消した。
あっけなく吹き消せるほどの小さな火だったのだ。
そう考えるには、余りに彼女はカイトのことを知らな過ぎたし、自分にとって都合が良すぎた。
確かに、彼はとても優しい人だから。
見た感じや怒鳴り声では分かりにくけれども、すごく優しい人だから、守ろうとしてくれたのかもしれない。
けれども、それはやっぱり保護者的な感情なのだろう。
彼が、むかし誰かに助けてもらった時のことを覚えているだけなのだ。
でも。
好き。
ぽっ。
火が灯る。
慌てて消す。
ぽっ。
また灯る。
また消す、灯る、消す、灯る、灯る灯る灯る灯るるるるる――
メイの心は、まるで看護士の戴帽式のような有様になっていく。
暗い心の中に、ぽつぽつと、1人では消して回れないくらいの火が灯ってしまった。
持て余すくらいの火。
大慌てで、メイは心のドアを閉めた。
余りに隠せない火の数だったからだ。
きっと、誰にでも見つかってしまう。
世界中の人に、自分がカイトのことをどう思ってしまうか、バレてしまうに違いないと。
しばらく混乱したけれども、何とかドアを閉めてしまうと、大きく気になることが一つだけ残った。
シャツ…。
彼の胸のカシオペアは、まだ消えないままだ。
「あっ!」
メイは立ち上がった。
まだ、諦めずに済む方法があったのだ。
けれども、それは前に考えていた方法よりもリスクのあることで。
彼女は、こっそりと脱衣所に近付いた。
ドアに耳を当てて、中の様子をうかがうなどというドロボウまがいのことをする。
水音が聞こえた。
彼は、お風呂に入ったのだ。
それは間違いなかった。
「ご…ごめんなさぁい」
そぉっと。
メイは、ドアの音もしないようにそぉっと開けたのだ。
心の中で、何十回もごめんなさいを言いながら。
すると、幸いなことに一番最初に脱いだようで、ドアを開けたすぐ足元に彼のシャツが落ちていた。
彼女は慌ててそれを拾うと、そっとドアを戻した。
ばっと目の前で広げると、やっぱり見事なカシオペアが残っている。
急がなきゃ!
カイトがお風呂から上がってくるまでに、応急処置だけはしておかないと、また叱られてしまう。
メイは、部屋を飛び出した。
幸い、廊下も階段も電気がつきっぱなしで、彼女は迷うことなく、パジャマ姿のままで階段を駆け下りることが出来た。
裸足だったから出来たことだ。
これがスリッパなら、転げ落ちたかもしれない。
フロアで左に曲がって。
そうして。
彼女が、さっき食事をしたダイニングに飛び込むのだ。
そこもまだ電気がついていた。
暖房もつきっぱなしである。
パジャマ姿の彼女には、ありがたいことだ。
しかし、ダイニングに興味があるワケではない。
そのまま奥の調理場に向かう。
一瞬、暗闇が口をぱっくり開けているようで怖かったけれども、そこに近付いて手だけを闇の中に入れる。
多分、この辺。
知らない家の、電気のスイッチを探すのは大変だ。
カイトがもたれていた辺りの壁を探って、ようやく電気をつけることに成功した。
よかった。
とか、安心している時間はない。
流しに近付いて、シャツを洗おうと思ったが、元に戻した時に全部シャツが濡れていたら、きっと彼は怪しむだろう。
思い出したのはキッチンタオル。
ダイニングに戻って取ってくる。
2枚引っぱり出し、一枚はたたんでシミのあるシャツの下に当てる。
もう一枚は濡らして、石鹸をつけると――メイは、シミの部分を叩いた。
高校時代、うっかり制服を汚してしまった時、学校でこうやってシミの応急処置をしたのだ。
タンタンと、下に当てている方にシミが移るように叩く。
タオルの位置を変えながら、メイはようやく、気になっていたことを片付けることが出来たのである。
後は…漂白したら落ちそう。
メイは、目の前でシャツを広げて眺めた。薄く残っているような気はするが、ほとんど目立たない。
濡れた部分も最小限で、わずかに色を変えた円で済んでいる。
ほっとした。
よかった。
これで、また着られる。
メイは、ぎゅっとそのシャツを抱きしめた。
彼女がネクタイを締めたそのシャツを、またカイトに着てもらうことが出来るのだ。それが、すごく嬉しかった。
石鹸の匂いと――カイトの匂いが混じっている。
タバコの匂い。
あっ!
その匂いを肺に入れた瞬間、メイは慌ててシャツから身体を引き剥がした。
カイトに抱きしめられているような錯覚がしたのと、自分がそれを知っていることを思い出してビックリしたのだ。
ランパブで。
カイトに抱きしめられた。
どうして?
いろんなもののナゾは解けた。
でも、どうしてあの時、彼女を抱きしめたのだろうか。
出会って1時間も経ってない時に。
あの後に、様々な事件がありすぎて、メイはうっかり今まで忘れてしまっていたけれども。
酔って、た、の、か、しら…。
ああいう店だ。
触られるのも、覚悟してなければならない。
カイトもそういう人だったのか――でも、何となく違うような気がした。
ああっ!
しかし、彼女にゆっくり考える時間なんかなかった。
いきなり、足の裏に火がつけられたような気になる。
いつまでのんびりとこんなところにいるのか。
お願い!
まだお風呂にいて。
メイは、シャツを持って駆け出した。
カイトが長風呂であることを祈るしかない。
あ、電気!
慌てる指で調理場の電気だけは消す。
後は一目散だ。
廊下を走ってフロアに出て。それから階段に――
バターンッッ!!!!
物凄い、音がした。
メイは、3段目にかけようとした足を止めてしまう。
上の方からだったのだ。
そう。
ドアが思い切り開けられて、反対側のカベにブチ当たったような――そんな音。
彼女は。
慌てて、シャツを後ろに隠した。
いくらシミを落としたかったとはいえ、ドロボウ猫のような真似をしたことだけは、間違いなかったのだ。
ダダダッッという音を聞いた時、メイの心臓の音かと思った。
けれどもそれは、廊下をすごい勢いで走っている音で。
その音が、止まった。
すぐ真上の辺り。
誰かの驚いた波が、全身に伝わってくる。
顔を上げられない。
言い訳が、いくつでも頭の中に思いついては弾ける。
どれも、彼に言えそうになかった。
一歩。
階段を下りてくる音がした。
さっきまでとは、比べモノにならないくらいゆっくりとした一歩だった。
メイは、唇を噛んで下を向いた。
もう一歩、降りてくる。
また一歩。
それから一歩。
そうしてもう一歩。
一歩。
それが、十回ほど続いた後。
うつむいたメイの視界――すぐ上の段に、裸足の指が見えた。
男の足だった。固そうな親指の爪。
ぐいっ。
片方の腕を取られる。
抵抗なんか出来るハズがない。
メイは、その手にシャツをさげたまま、前に手を持ってこさせられたのだ。
きっと、ハナからバレていただろう。
顔が上げられない。
片腕を取られたまま、止まったままの時間。
お願い…。
メイは、ようやく心にそれが流れた。
お願い…怒鳴ってもいいから…怒ってもいいから…
きらわな……!
震えかけたメイの瞼が、驚きに見開かれた。
腕が。
彼女の腕が、引かれたのだ。
怒鳴り声はなかった。
ただ、食堂に連れて行く時のように、掴んだ腕を放さずに引っ張っていくのだ。
間に、シャツをぶら下げたまま。
顔を上げた。
ストライプのパジャマの背中だった。
その背中を――苦しいくらい抱きしめたかった。
ぎゅうっと抱きしめて、この溢れて止まらない火を、『好き』という言葉に代えてしまいたかった。
彼の背中を見ていると、思いが止められない。
心のドアが閉められない。
でも、出来るハズもなくて。
メイは、ただぐいぐいと彼に引っ張られて行くだけだった。