11/30 Tue.-14
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ほっ。
カイトは、安堵した。
メイがシチューの皿を空っぽにしたのだ。
その間中、カイトは親の敵のように睨んでいた。
目を離した隙に、彼女がテーブルの下のポリ袋の中に捨ててしまうという、妄想がつきまとってしまったのだ。
勿論、そんなことをするハズもなく、彼の考えすぎ以外の何者でもないのだが。
「…ごちそうさまでした」
キッチンタオルを一枚箱から取り出しながら、メイはため息のようにその言葉を口にした。
口を軽く拭いた後、いくつか内側に折り畳んで、ご丁寧にテーブルまで拭くのだ。
しかし、その行動よりも言葉の方が、彼に妙な違和感を与えてくれる。
ごちそうさまなんて言葉を聞いたのは、何年ぶりだろうか。
大げさな話でなく、年単位の騒ぎだった。
何しろ。
仕事が忙しいカイトたちである。
会食や接待のジジィたちは「ごちそうさま」を言う上品な連中はいないし、そんなことに口を使うよりもたくさん話すことがあった。
それ以外は、店屋物やレストラン、ファーストフード、挙げ句はこの家に住みながらカップラーメンを食べたりもした。
ほとんどが1人だ。
わざわざシュウを呼び出してまで、一緒に食べる理由などなかった。
ヤローの顔見ながらの食事なんて、仕事の時だけで十分である。
完全なワーカホリック状態だった。
こんなに早く仕事から帰ってきたのは、何ヶ月ぶりだろう。
ああいう対外的な仕事がなくても、彼は開発室にこもる人間なのである。
先にシュウが帰ることだってあったし、そのまま会社の仮眠室で夜明かしすることだってあった。
まっとうな時間の夕食。
向かいに女がいて、まるで普通の食卓のように――不慣れなその感触に、戸惑ってしまうのだ。
カイトは、すっかり自分の食事は終わっていて。
今更、「ごちそうさま」なんて言えるハズもなく、居心地悪く無言で立ち上がった。
カチャカチャ。
しかし、それを陶磁器の音が邪魔をする。
ん?
カイトは、音の方をみやった。
メイが汚れた皿を重ねている。スプーンやフォークも上に乗せるのだ。
じーっっっ。
カイトは、観察をしていた。
するとメイは立ち上がって、その皿を持って調理場の方に行こうとするのである。
案の定、だ。
「すんな!」
カイトの言葉は、『だるまさんがころんだ』よりも、威力があった。
彼女は、ぴたーっと止まってしまったのだ。
ガシャッと、持っていた皿が音を立てる。
落とさなかったのは幸運だったか。
彼の言葉は、メイを驚かせるために存在するらしい。
それを言うなら、彼女の態度のどれもこれもが、カイトが望んでいるものではなかったが。
「え…でも、このままじゃ…」
お皿を持ったまま顎だけが彼の方を向いて、そうして目が片付けさせて欲しいと訴えている。
「それは、おめーがやるこっちゃねぇ…ハルコが明日やる」
置け。
カイトは、訴えを受け入れなかった。
「でも、いまのうちの方が汚れが落ちるんですよ…明日の朝になったら…」
洗剤のCMにでも出るつもりなのか、彼女はいま洗うことの有効性を彼に伝えようとする。
「おめーを家政婦として連れてきたんじゃねーって、何べん言ったら分かんだ!」
そういうことを、彼女に強いたくないのだ。
借金のことを忘れないから、メイは労働しようとしているのである。
そう、カイトには思えた。
「あの…」
でもまだ皿から手を離さない状態で、彼女は口ごもる。
「置け」
カイトも強硬だった。
「でも…」
メイは、まだ戸惑っている。
「でも、じゃねー!」
カイトは、問答にイライラし始めていた。
せっかく彼が楽な道に続くドアを開けているというのに、どうしてメイは歩いてこないのか。
「でも…汚れたお皿を片付けないと…私…眠れないんです!」
言わなくちゃ!
そういう決意の声と目が、ばっとカイトに向けられる。
は?
カイトは、目が点になった。
「家でもずっとすぐ片付けていたから…どうしても気になるんです。疲れてても、お皿洗わないで寝ちゃうと、必ず夜に目が覚めて…それで結局洗いに起きてきちゃうんです…だから」
懇願の目が強くなる。
ぱちくり。
カイトは、まばたきが止まらなかった。
信じられない世界だったのだ。
皿が汚れているだけで気になって眠れないなんて、初めて聞いた話だった。
確かに、シュウも会社を始めた最初の頃、経理の仕事もやっていて、帳簿が一円でも合わないと眠れなくて起き出してくる、とか聞いて爆笑した記憶があった。
くだんねー、と。
そのお皿バージョンがいたのである。
くだん…。
しかし、シュウの時のように笑い飛ばせなかった。
しつけの行き届いた家庭で育ってきたことを、見せつけられた気がしたのだ。
彼女にとってはいままでという年月は、カイトのようにハチャメチャな人生ではなかったのである。
それが狂ったのが、ごく最近。
あんな店で働くハメになると決まった時、メイにしてみれば地獄に落とされたような気持ちだっただろう。
本当に。
カイトは、痛烈に実感した。
本当に、アタッシュケースを開けてよかった、と。
彼女を救う力が、自分にあって本当によかった。
でなければ、彼女はいつまでもあの職業だ。
想像するだけで耐えられない。
余計な思いがいろいろくっついた、フジツボ岩のような目でメイを見る。
彼女の茶色の目とまっすぐにぶつかった。
「お皿…あの…すぐ終わりますから」
お願いします。
どうして皿一枚のことで、そこまで必死になれるのか。
カイトは大きくため息をついた。
「五分しか、待たねー」
カイトは、どすんと席に座る。
最大の譲歩だった。
彼が考えているのとは違う理由で、メイがしたいというのなら、どうして止めることができようか。
たとえ、それが自分の望まないことでも。
「え…あ、よかったら部屋に戻ってらっしゃってく…」
彼女は、最後まで言えなかった。
当たり前だ。
カイトが、ギロリと睨んだのだから。
「あと4分45秒」
カイトは頬づえをつきながら言った。
「…!」
メイは、スタートボタンを押したように動き出した。
まず自分の皿を調理場の方に持っていき、戻ってくるなりカイトの皿を片付け始めたのだ。
「オレのは…」
しなくていー。
言おうと思ったのに、メイの頭にはもう残りタイムしかないようで。
カシャンカシャンと手早く重ねてしまうと、バタバタと調理場の方に消えていくのだ。
あんなに早く動けるとは思っていなかったカイトは、言いかけた途中の言葉を失ったまま席に取り残された。
ふぅっ。
開けた口を閉じるだけでは芸がなく、カイトは吐息をついた。
本当なら。
カイトは、今頃まだ仕事をしているだろう。
時計はまだ夜の8時くらいで。
これから、彼はこの家で何をすれば時間をつぶせるか分からなかった。
深夜2時よりも早く眠れないカイトの体質からすれば、あと6時間も空白の時間があるのだ。
寝るだけの家のため、ロクなヒマつぶしがない。
この家には、テレビすらないのだ。
シュウも持っていない。
オーディオはあるが、ただ音楽を聞くだけの時間の過ごし方なんて、カイトの辞書にはない。
それじゃあ仕事をすればいいのだが。
カチャカチャ。
皿の歌声が始まる。
もっと耳障りだと思っていた。
何か、魔法でもかけながら皿洗いをしているんではないかと思てしまう。
壁一枚隔てられた状態では不安になって、カイトは立ち上がった。
そうして、隣の部屋に続くドアのところに立つ。
メイは、まるで鼻歌でも歌い出しそうな感じで、嬉しそうに皿を洗っていた。
その横顔が、カイトの位置から見える。
壁によりかかった。
彼女を見る。
カイトは、もう残りタイムのことは忘れていた。
皿洗いが、そんなに楽しいのかよ。
彼といた時とは、全然違う笑顔だ。
あの、ランパブで見たほっとした時の笑顔とは、また違う笑顔。
きっともっと、彼女はそれを隠している。
内側にいっぱいしまいこんでいるのだ。
なのに。
カイトは見ていた。
狂おしいほどに――悔しかった。




