11/30 Tue.-13
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「そう…だったんですか…」
メイは言った。
彼が、どうして自分にあんなによくしてくれたのか、ようやく理由を話してくれたのである。
カイトも、彼女と同じ立場だったことがあったのだ。だから、その人への恩返しの代わりに助けてくれたのである。
それは、ひどくメイを納得させた。
昔を思い出したのだ。
母親が死んだ時、彼女はまだ小学生だった。
父親は仕事をしなければならない身で、母親のように娘に構うヒマはない。
そういう時に、いつも面倒を見てくれたり、助けてくれたりしたのが近所の人たちで。
夕食のお裾分けも、一緒に旅行に混ぜてもらったことも、熱を出した時に病院に連れていってくれたことも、メイはどれも覚えていたし、ずっと感謝していた。
カイトも、それと同じ気持ちを味わったことがあるのだ。
だから、彼女を助けたのである。
同時に、かぁっと恥ずかしくなった。
一瞬だって、彼に何かされると思って身構えた自分が恥ずかしかったのだ。
女だから助けたワケではないのだ。
それは、単なる偶然に過ぎなかった。
本当のカイトは、というと。
言葉の乱暴な足長おじさん。
おじさんと言うには、余りに若い風貌だが。
きっと。
これまでも、彼女以外に他の人も助けてきたのだろう。
そんな優しいカイトを捕まえて、何かされるとか、されないと変だとか、代償だとか裏だとかいろんなことを考えてしまった自分が、何とも浅ましく思えた。
「ばかやろ! 同情される言われなんかねぇ!」
何を勘違いしたのか、カイトが怒鳴る。
きっと、メイと同じ身の上だったということで、同情しているとでも思ったのだろう。
「……すみません」
メイは、小さくなりながら言った。
これまでのバカな自分の考えを見透かされているようで、もっと小さくなりたかった。
だから、彼は言ったのだ。
何もしねぇ、と。
自分が、何かされるとビクビクばかりしていたから。
安心させようとしてくれたのだ。
こんなによくしてもらって、お金を返さなくてもいいとまで言うのだ。
そんな!
それでは、メイの気が済むハズもなかった。
「でも…」
働けば。
それは、物凄い年月がかかるかもしれない。
一生かかってもダメかもしれない。
けれども、でも一部は返せるかもしれないのだ。
そうしたら、そのお金でまた誰かを助けられるのだ。
しかし、メイは思考も言葉も続けられなかった。
フォークが、カンカンと耳障りで苛立った音を立てたからである。
「メシだメシ! ハラ減った!」
カイトが、まるでいい加減にしろ、とでも言わんばかりにに口を開けたのだ。
あ!
メイは、ばっと立ち上がる。
彼はネクタイ姿なのだ。いや、ぶらさげているだけだが。
とにかく、仕事を終わって帰ってきて空腹のハズなのに、自分のワガママに付き合わせてしまったのである。
慌てて保温プレートの上のナベのフタを開けると、おいしそうなビーフシチューが湯気を上げていた。
「すぐよそいます…」
皿を取って、メイは彼の分をつごうとした。
ガタッ。
カイトの立ち上がる音がする。
皿を持ったまま、メイはついつい彼を目で追ってしまった。
すると、カイトは手を伸ばしてもう一枚の皿を取ったのである。
さっさと自分でよそい始めた。
「あ、あの…私が!」
ここまで付き合わさせておいて、あんな恥ずかしいところばかり見せておいて、この上、こんなささいなことまでも自分でされてしまったら――メイに立つ瀬はない。
「おめーを、家政婦にする気で連れて来たんじゃねぇ」
金のことは忘れろと言ったろ。
褐色のシチューが。
いきなり白いシャツに跳ねた。
気にせずに、また次をよそうカイト。
本当は、こんなこと慣れていないのだろう。
けれども、彼女に負い目を感じさせないために。
「あっ! やっぱり私がよそいます!」
でないと、この空間にいてはいけないような気がしてしょうがなかった。
「いいって言ってっだろ…って、ほら、終わったぜ」
カイトは、親指についたシチューを舐めながら椅子に戻ったのだった。
シャツには、五つほどシミが残っている。
まるで、カシオペアのように。
メイは、結局持っている皿を、自分の分にしなければならなかった。
そんなにおなかはすいていないのに、カイトがじーっと責めるように睨んでいるのだ。
湯気の立ち上るシチューを、ちょっとよそった。
「まだだ」
即座にツッコミが入る。
しょうがなく、もうちょっとよそう。
「んなんで足りっか!」
がばっと立ち上がって、カイトは皿を寄越せと手を伸ばす。
そんな。
メイは、思わずその皿を死守しようとした。
この上、自分の分まで彼によそってもらった日には、本当に彼女は役立たずになってしまう。
心を決めて、カイトの手から逃げるように思い切りよそった。
「そーそー…それでいーんだよ」
ニッ。
あ…。
メイは、一瞬目を取られた。
カイトが。
目を細めて満足そうに笑ったのだ。
途端、胸に溢れかえる温かい水。
その水が、全部『好き』の色をしていた。
彼女は、慌ててフタをした。
いまの気持ちを、彼に見られなかったが心配だったのだ。
しかし、カイトは再び椅子に戻って、そうしてパンを一つ掴んでいた。
ホッとした。
「あっ!」
そこで、メイは一つ思い出した。
ハルコに言われていたのである。
『冷蔵庫にサラダを入れているから』
慌てて立ち上がると、教えてもらっていた調理場に走り、冷蔵庫を開ける。
その明かりの中に、ラップをかけたままのサラダがいた。
ほっとして取ろうとした時。
「バカヤロウ! いきなりいなくなんじゃねぇ!」
頭の後ろから怒鳴り声が飛んでくる。
慌てて振り返ると、カイトが怒っていた。
あ。
メイは、いままでの自分の行動を思い出す。
彼に何の説明もせずにここに走ってしまったのだ。
「ご、ごめんなさい…サラダを…」
言い訳にもならないけれども、冷蔵庫から取り出したサラダを見せる。
「そうならそうと言え!」
思い切り顔を歪めて、カイトは足音も荒くダイニングに戻りだした。
同じ年齢くらいだろうが、彼はもしかしたら、自分のことを子供のように心配してくれているのかもしれない。
まるで子供のよ――
また泣き出したい自分がいた。もう、泣かなかったけれども。
カイトは、女としての彼女には全然興味はなかったのだ。
その事実は、ついさっき『好き』という自覚が生まれてしまったばかりのメイには、どうしたらいいか分からないほど重い材料だった。
彼が、ますます素晴らしい心を持った人だということが分かって、『好き』が、もっともっと届かないところまで行ってしまったのである。
こんな、どこから生まれたか分からない、昨日今日の付け焼き刃の恋じゃ、絶対に彼の目に触れさせられないのだ。
もしも。
いや、そんなことは出来ないだろうが、もしも万が一、彼にこの思いが伝わってしまったら。
きっと彼に顔を顰められる。
そして、拒絶される――『そういうつもりで助けたんじゃねー』と。
絶対に。
絶対に、この気持ちを外に出してはいけない、と。
誰にも見えないところにしまって、カギをかけて、鎖をかけて、重石をつけて、深い海の底へ――サンゴがはえるくらいまでずっと、ずっと。
そうして、カイトに出来る限りの恩返しをしよう。
お金を彼が望んでいないというのなら、身の回りの世話くらいならできるかもしれない。
「何してんだ!」
なかなかついてこない彼女に、また声が飛ぶ。
「あ、はい!」
メイはサラダを持って小走りに駆けだした。
幸せなんだわ…これは。
彼女はそう思った。
好きな彼の側で、たとえ想いを伝えられなくてもカイトの役に立てるなら、それできっと幸せだ、と。