11/30 Tue.-11
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泣いているのは、きっとカイトにはバレただろう。
手を離して、振り返ったから。
メイは、顔を上げたりしなかったけれども。
そんな時だった。
もう1人の男が帰ってきたのは。
そうなのだ。
メイはうっかりしていたけれども、この家にはもう1人いたのである。
朝に会った、あののっぽの男。
どうやら、この家に住んでいるのは2人だけのようである。
涙を見られると、あらぬ誤解を受けるかもしれない。
メイは慌てて目をこすった。
びっくりしたおかげで、ちょっとだけ悲しい気分が物陰に隠れる。
そうしている内に、外界では言い争いのような状態に発展していた。
のっぽの男が、カイトに何かを渡しながらクレームをつけているようだ。
目を拭き終わってぱっと顔を上げると、のっぽの男の背中のせいで、彼の姿が見えなかった。
すっぽりと向こう側なのである。
だから、いま彼がどんな顔をしているのかなんて、メイには分からない。
泣いた彼女を、いや、昨日という過去のある彼女を、どういう風に思っているのか。
それを表すはずの、グレイの目が見えないのだ。
「大体…」
男が振り返った。
いきなりのことにびっくりする。
眼鏡の向こうの目が、まっすぐに彼女を捕まえたからである。
やっぱりその目に、歓迎する色は一色も入っていなかった。
分析されるような目だ。
値踏みとはまた違う。
そうではなく、もっと科学的に解剖されているような冷静さが伝わってくる。
こんな目にさらされたことはなかった。
彼の前にいるだけで、自分は箱から出されたばかりのコンピュータのような気になる。
「大体…あなたがそんなにしてまでも早く帰らなければいけない理由である、この女性とは何者なんですか」
その男は、メイに話しかけているようで、実はそうじゃなかった。
目は確かに彼女に固定しているけれども、言葉は背中のカイトに向かっている。
メイは、止まった。
彼の言葉を、よく飲み込めなかったのである。
いや、ちゃんと聞こえたが、まるで喉の途中でつかえているようで、ごくんと胃袋に落とせないのだ。
ただ、喉で異物感を訴え続ける。
「てめーにゃ、関係ねぇ!!!!」
メイの飲み込みがうまくいくよりも早く、カイトが物凄い音量で怒鳴った。
自分が怒鳴られたような錯覚にかられて、反射的に頭をかばってしまった。
殴られるワケでもないというのに。
それは、目の前の男も同じだったようである。
物凄い音量に耳をやられたのか、顔を歪めて、それからまたカイトの方を振り返るのだ。
また、メイに見える情報は背中だけになる。
「そんなに大声を出さなくても聞こえます…しかし、その動揺が私の言っていることの証明にも思えるのですが」
しかし、その背中は怯む様子はない。
カイトとどういう関係かは知らないが、敬語を使ってはいるものの、明確な立場の上下があるようには見えなかった。
などと。
悠長に、背中を眺めていられるハズがなかった。
メイには、考えなければならないことがあったのだ。
そう。
さっきの男の言葉。
そこまでして、早く帰らなければならない理由。
まるでカイトが、途中で仕事を切り上げて帰ってきたかのような発言だった。
残りを全部、この背中に押しつけてきたような。
この女性。
表現された言葉に、内心で首を傾げる。
まるで自分のことのようだ――いや、自分以外に指している相手はいない。
それは、間違いなかった。
ということは。
カイトは、メイのために早く帰ってきた。
そういう結論になる。
そんなこと!
メイは、ビックリした。
符号が合ったのはいいが、まるっきりそれが信用に値しなかったのだ。
彼は、勘違いをしているのである。
カイトが、どうして自分のために早く帰ってくる必要があるのか。
メイの想像では、該当するものが何もなかった。
どういう原因かは知らないけれども、少なくともこの男は誤解している。
もしかしたら、彼女について何の説明もしていないのかもしれない。
どこから連れてきて、どういういきさつだったかとか。
その事実には、ほんのちょっとだけほっとしたけれども、誤解のタネはそれだけとは思えなかった。
朝、カイトのベッドにいたところを起こされたのだ。
彼はバスルームにいて。
まるで。
まるで、だが。
何かあった2人のように見える。
ベッドとソファで寝たと言っても、誰が信用してくれるだろうか。
事実、メイだって何かされないのは変だ、くらいは思ったのだ。
しかし、カイトは何もしなかった。
彼女に女として何も感じていないか、興味がないか、もしくはまったく別の目的があるのか。
「んだとぉ?」
背中の向こうで、物凄く怒ったようなうなり声が聞こえた。
怒って当然だ。
ひどい勘違いなのだから。
どんな条件が揃って、確信的に思えたとしても、それはまったくの誤解なのだ。
自分の存在が、この2人の関係を悪くしているのではないだろうかと不安になる。
カイトの方は怒りっぽくて、うまく状況説明ができないタイプのようだ。
このままでは、すごくイヤなことになる。
メイは、勇気を出した。
「あ…あの!」
縦長の背中に向かって、大きな声をかけた。
空気が止まったのが分かった。
彼女の言葉の乱入に、男2人が空気まで止めてしまったのだ。
まさか、入ってくるとは思わなかったようである。
もしかしたら、自分は差し出がましいことをしているのかもしれない―― 一瞬そう思ったメイは怯みかけたが、せっかく振り絞った勇気は、幸い逃げてはいかなかった。
背中が振り返る。
眼鏡の中に、自分が映った。
「あの…違うんです…そういうんじゃないんです」
しかし、いざ口を開けてみたら、ロクな言葉が出てこない。
メイは、昨日の説明がうまく出来ないことに、そこで初めて気づいたのだ。
「あの…彼は…その、私を助けてくれたんです…ただそれだけで、他は何にもないんです、本当です!」
言葉を探るようにしゃべり出すと、何とか納得させられそうな単語にぶつかる。
ワラにもすがる気持ちで、その言葉に捕まって、彼女の言葉は滑り出す。
「だから、早く帰ってこられたのも、きっと別の理由だ…と…思い…ます」
私のためじゃないです。
そんな誤解で、ケンカしないでください。
うまくつなげようとした言葉は途中で切れて、心の中だけで呟かれた。
口をつぐむ。
そんなコトはありえない。
世の中は、本の中とは違うのだ。
悪い魔法使いから助けてくれた男が、まったく無償で見返りも期待していないことなんてありえるハズがない。
まだ、彼女はそれを申告されていないだけなのだ。
この心にずっしりと残る借用書を、破れるワケもなかった。
カイトはこともなげに破ったけれども、彼女は出来なかったのだ。
でも、本当に破ってしまうなんて。
法的拘束力を持っているそれを、彼は破った。
信じられない。
まだ――彼女は、カイトという男を全然知らないのである。
借金のカタが何なのかも。
それが分からない内は、いろんなものが精算出来るまでは――ここから出ていけないように思えた。
出て行けと言われるまで。
それを、もし言われたら。
言われるかも。
メイは、次に言う言葉も見つけられずに、黙りこくった。
男が観察している視線だけが、身体の上に虫のように止まっている。
「出てけ…」
カイトが唸るように言った。
メイは、ビクッとしてしまう。
いま、自分の想像した言葉を見透かされたような気がしたからだ。
顔が上げられない。
もし顔を上げて、視界のどこかに自分をさげすんで怒っているような目を見つけたら、そんなことになったら。
メイはぎゅうっと目をつむった。
「出てけってんだろ!」
カイトが、落雷のように怒鳴る。
そんなの…そんなの。
我慢出来ない涙が溢れてきた。
苦しくて苦しくて、苦しい。
もう、ここにはいられなかった。
この空間にいることなど出来ない。
彼の目を見てしまう前に。
「ありがと…ござい…した」
ペコリ。
それを言うのが、精一杯だった。
メイはだっと駆け出す。
部屋を飛び出した。
そのまま、外に出ていけばいいのだ。
彼女の荷物なんて、ここには何もないのだから。
※
どこに行けるワケでもなかった。
メイは、もう借金はなかったけれども、それ以外のものも何もなかったのだ。
しかし、この家を飛び出すことだけは出来る。
簡単なことだ。
部屋を出ると、廊下に出る。
右に走ったら広いフロアに出た。いろんな方向に分岐する空間。
それから右を向けば階段がある。登ったら二階に行ける。
まっすぐ進めば、一階の部屋につながる廊下に行けるだろう。
左に曲がったら――そこには、玄関がある。
もう、すぐそこだ。
ひっく。
涙を止められないまま、メイは走った。
何で泣いているのか、まだ分からないままだ。
いや、分かっているのかもしれない。
それを、はっきりと自覚するのが怖かった。
ずっとずっといままで怖かったから、フタをしていたのである。
息を止めた。
でないと、もっと涙が溢れてきそうだった。
もうすぐドア、ドア。
彼女は手を伸ばした。
バンッ!
メイは――ブレーキをかけるのを失敗してしまった。
目測と勢いが折り合わなかったのである。
思い切りドアにぶつかって、大きな衝撃と音が伝わる。
でも、痛いなんて思ってもいなかった。
次にしなければならないことがあるのだ。
霞む視界でノブを探そうとする。
バンッ!
が。
ドアが大きな振動に揺らいだ。
ノブを掴みかけるのに成功しかけていたメイは、思わずその衝撃に手を滑らせてしまう。
――影が。
自分の身体に、影が落ちていた。
自分の身体に、影が落ちていた。
覆い被さるような影。
頭が真っ白になる。
顔の側に、腕があった。
メイの身体を囲い込むように両方の大きな手が、強く玄関の扉に押しつけられていたのである。
そして、影が。
ゼイゼイと、荒い息づかいが聞こえたのはそれからだった。
「バカヤロー!!!!」
ビリッ。
真っ白な彼女の頭の中身を、ひっちゃぶるような怒号が上がった。
この声は、間違いなくカイトだ。
しかし、それが誰かという情報よりも、余りの近距離とドアという反射板があって、メイは土管の中に押し込められたような思いを味わった。
わんわんと、何かが狭い空間を反射しているような音が、耳の中で止まらなかったのだ。
「誰が、てめーに出てけっつった! 人の話はちゃんと聞け、アホ!」
正常な聴覚に戻り始めるより先に、囲いこまれたまま、どんどんと声が続いた。
脳が情報を処理しきれない。
壊された聴覚と、思い切り走った鼓動と、この狭い空間に押し込められた状態と――不安なことだらけだ。
あ。
あ…あ…。
メイは、そのまま止まり続けた。
唇だけが、ひどく震えているのが自分でも分かった。
「オレが出てけっつったのは…!」
そこで、ふっと怒鳴っていた声がぴたっとやんだ。
ドアと彼の隙間で、微動だに出来ない。
ちょっとでも動けば、身体のどこかに触れてしまいそうだったからだ。
スタスタスタスタ。
いきなり静まり返った空間の中を、冷静な足音が通り過ぎていく。
一時期近くなったけれども、だんだん遠くなって。
歩幅にもリズムにも狂いのない足音が続いた。
玄関での喧噪など、知らぬ風だ。
ガチャ、パタン。
ドアが開いて閉まる音。
もう何の音もしない。
沈黙が流れた。
その沈黙を壊したのは、やはりカイトだった。
こらえきれないように、息が吸い込まれる。
彼女の分の空気が、薄くなってしまいそうなくらい。
また怒鳴られる。
そう予感したが、外れた。
「オレが…出てけっつったのは…あのシュウの野郎だ」
ざけたことヌカしやがったから。
声が――物凄くバツが悪そうな音に変わったのだ。
こういう事態を人に見られたせいか。
それとも、自分の言ってる言葉のせいか。
メイには分からなかった。
けれども、分かったことがあった。
あ…。
信じられなかった。
信じられられないことだらけの中で、これが一番信じられなかった。
私…。
彼は触れんばかり、すぐそこだ。
息づかいだって、彼女の頭の後ろ。
本当に側。息が当たるのだ。
走ったせいで乱れ続ける胸――違う。
この胸の乱れは、違うのだ。
分かったのだ。
私…私、この人が…。
この人のことが。
……好き。
「ふ…え…」
好き、好き…苦しい。
止まった涙がまたあふれ出す。
信じられなかった。
やっぱり、何回噛みしめても信じられなかったのだ。
けれども、一度好きだと思ったら、次から次へと思いと涙があふれ出す。
何で、出て行けと言われてあんなにショックだったのか。
ハルコの存在が、カイトにとって大事な人だと誤解したときに涙が流れたのか。
全部、符号が合った。
カイトを、好きなのだ。
どこから、なんて言われても分からない。
最初は、ただの辛い仕事のお客さんだった。
あの店から助けてくれて、ベッドを貸してくれて、服まで用意してくれて――追いかけてまで来てくれた。
そうして、何もしないでくれた。
出て行けと言わないでくれた。
ダメ。
自分を止める。
ダメ、なのだ。
何て辛い恋をしてしまったのか、自分は。
好きになるには、余りに大きな壁があったのだ。
昨日の今日で、どのツラさげてカイトに好きというのか。
これでは、まるで彼がお金持ちだから好きというようなものである。
信じてもらえるハズもなかった。
きっと――彼にさげすまれる。
ゾッとした。
そんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだった。
そうでなくても、こんなに辛いのに。
彼に囲まれて逃げられないメイは、この泣き顔をどこにも持ち出せなかった。
しかし、逃げ場所が一カ所だけある。
「う…っ」
メイは、ずるずると座り込んだ。
顔を覆い隠しながら。
「バカヤロウ…泣くな!」
声が降ってくる。
いや、だんだん近くなる。
「泣くなっつってんだろ!」
今度は、すぐ真横から聞こえた。
彼までも座り込んでしまったのだ。
両腕で、まだ囲い込んだまま。
「んなコトより…メシだ! メシ食わねーと、承知しねーからな!」
すごく…好き。
怒鳴られてばっかりでも、その声は怖いけれども、でも、好きだという気持ちが止まらない。
まだ、もっと泣いていられるハズのメイの腕が引っ張られる。
上に向かって。
そして。
ぐいぐいと引っ張られた。
最初もそうだったように、泣いているメイを強い力で歩かせるのだ。
来た道をもどる背中。
シュウと呼ばれた男の縦長の背中じゃない。
興奮しているせいか、肩をいからせている背中。
泣いて。
泣いて食事など出来る状態じゃないというのに、彼女を無理矢理ダイニングに引きずり戻したのだ。
手もつけられずに用意されたままの食事と、温かい部屋。
無理矢理椅子に座らされる。
ガタン。
向かい側に彼が座った。
「オレは、おめーが食い終わるまで、ぜってーここを離れねーからな!」
一言一言を突きつけて噛み砕かせるように、カイトは語気を強くして言った。
フォークもスプーンも持たないまま、メイは顔を上げられなかった。
どうして上げられようか。
目の前には、男がいるのだ。
それは、自分が恋焦がれた―― けれども恋焦がれるワケにはいかない相手だった。