01/11 Tue.-1
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「おはようございます…」
声に――反射的に目が開いた。
自分でも、信じられない覚醒具合だ。
はっと頭をもたげると、ベッドに寝ているのは自分だけ。
このだだっぴろい空間に、彼一人がバカみたいに眠っていたのである。
慌てて部屋の電気をつける。手探りでリモコンを見つけだして。
まだ、冬の朝は薄暗いのだ。
ベッドのそばにメイが立っている。
その明るさに、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべたのは最初だけで、すぐににこっと笑いかけてくれるのだ。
まるで、何もかもが普通の朝のように思えた。
あぁ?
錯覚してしまいそうだった。
いままでの出来事が、全部夢だったような気がするのだ。
昨日の出来事も、その前日の出来事も。
いや、もっと昔までさかのぼったような気がする。
まだ、彼らは思いを交わしていなくて。
彼女が出ていく前の状態なのでは、と思ったら、すごくイヤな気分になった。
もう、絶対そんなハズはないのだと、自分に言い聞かせる。
なのに、その自分の意識の奥底が、ずっと疑っているのだ。
「今日は、油揚げとタマネギのおみそ汁ですよ」
下にいますね。
本当は。
抱きしめさえすれば、その意識の奥底とやらを追い払えるのである。
そんなことは、最初から分かっていた。
しかし、分かっていないメイは、笑顔でそれだけを言い終わると、部屋を出て行ってしまったのである。
ちょっと彼が呆然としている間に。
非常に腹立たしい事態だった。
おかげで。
彼は、当社比1.5倍の速度で支度を済ませて、階段を駆け下りたのだった。
「あ、早かったですね…」
座っててください。
計算よりも、カイトの登場が早かったのに驚いた顔をする。
途端、あわただしく茶碗やお皿を動かし始めた。
彼は、乱れた呼吸を繰り返す。
大慌てで支度をして、とにかくここに駆け下りてきたのである。
上着とネクタイをひっ掴んだ状態のままだ。
とにかく、自分の欲望に忠実に、メイに近づこうとした。
彼女を抱きしめようと思ったのだ。
なのに。
トレイに朝食のお皿などを乗せて、彼女が戻って来たのである。
すごく、忙しそうな動きで。
「もうこれ置くだけですから、座ってください」
にこにこ。
笑顔で、カイトを急かしたてるようだ。
言葉が早口になっているせいか。
「昨日買ったみりん干しもありますよ…おいしいですよ」
全然、彼の心を気づいていない。
いまのカイトには、みりん干しなんてどうでもいいことなのだ。
そんなものを買ったことすら、覚えてもいなかった。
かちゃかちゃと、トレイをテーブルにおろしたメイは、作業を続けている。
その身体を、抱きしめようとした。
座って、朝食を食べさせられてしまう前に。
トレイの上のものが、全てテーブルに並べ終わられた。
腕を伸ばす。
しかし。
「いけない!」
メイの身体が、慌てて反転した。
パタパタと、調理場の方に走り去ってしまう。
カイトは――手のやり場を失った。
抱きしめるはずだったのに、逃げられてしまったのである。
まさか。
ホントに夢だったんじゃないだろうな!
かっと、苛立ちの血が巡る。
そんなことだけは、あってはいけなかった。
あんなに苦労して結婚までしたというのに、全てが夢オチだったなんて、シャレにもならない。
「お湯かけっぱなしでした…」
自分の失敗に照れたような笑顔で、メイが帰ってくる。
しかし、そのまま自分の席に座ってしまう。
カイトが動けないでいると、きょとんとした彼女の視線が上げられた。
どうかしたのか、とでも聞きたげな茶色の目。
クソッ!
一人、マヌケ面で突っ立っている自分に気づいて、乱暴な動きで席につく。
一番大事なことを後回しにさせられた気分だ。
なのに、メイはにこっと笑った。嬉しそうに。
全然、嬉しくねぇ。
ぶすったれたまま、彼女の作った朝食に箸をつける。
みそ汁をすする。
間違いなく、メイのみそ汁だった。
茶色の瞳が、自分を見ている。
分かっていた。
「うめぇ…」
ちら、とその椀から視線だけ上げて、彼女を盗み見る。
世界で―― 一番幸せそうな笑顔をしていた。
そうじゃねぇだろ!
たかが、みそ汁をうまいと言ったくらいで、どうしてそんなに幸せになれるのか。
それよりも、自分の甲斐性で笑顔を浮かべさせたかったのだ。
何でも欲しいものは買ってやれるのに、いままでお金絡みでそんな顔をさせたことは、一度もなかったような気がする。
これでは、いったいどういう時に、彼女が幸せなのか分からないではないか。
イライラしたまま食事が進む。
無意識に、またかきこむような状態になりかけた時。
「カイト…ここですか?」
ドアが、開いた。
はっ!
声は――シュウだったのである。
そうだった。
カイトは忘れていたのだが、先週はすべて彼の車で会社に出社したのだ。
最後こそ、自分の車で帰ってきたけれども。
だから、今日もその予定でシュウはやってきたのだろう。
部屋にカイトがいなかったので、わずかな可能性でこっちを見に来たのか。
カチャリ。
ドアが開く。
シュウが、その眼鏡の顔をのぞかせた。
視線が、室内をぐるっと一周する。
途中、カイトのところと、メイのところで一旦停止した。
「おはようございます、カイト」
しかし、メイがいることに、取り立てて驚いている様子もない。
淡々とした口調だ。
「今日の出社はどうします?」
私でしたら、もうすぐ出ようかと思いますが。
てめー、知ってやがったな。
メイが家政婦に来ていたことを、きっと知っていたに違いない。
だから、全然存在に驚かないのだ。
よくよく考えれば、ハルコの考えだけでは、この家で働くことは不可能だ。
そして、きっとこの男は許可したのだろう。
また、利益のどうのということを考えて。
「てめー 一人で行け」
噛みつく声になってしまう。
「分かりました」
シュウは怯む様子もなかった。
出ていきかけた身体を止めて、メイを見る。
彼女は、シュウの登場で、食事を中断したままだった。
「就業時間には、ちょっと早いようですね」
そして、時計を見たのだ。
カッと、頭に血が昇った。
シュウは、まだ彼女を家政婦だと思っているのである。
だから、そんなセリフが出てきたのだ。
「こいつは、家政婦なんかじゃねぇ!」
怒鳴っていた。
シュウは、眼鏡の向こうで怪訝そうな瞳の色をたたえる。
「私の知る限りでは、彼女は家政婦として、この家に雇用されているはずですが?」
そんな情報遅れのバカ男に、カイトは二度と忘れないように教え込まなければならなかった。
「こいつは…!!!」