01/10 Mon.-11
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カイトがお風呂に行っている間、彼女にはやらなければならないことがあった。
それは、かなり切実なことで―― そして恥ずかしく、いささかマヌケなことでもあった。
でも、やらなければ自分が困ることである。
タオルでくるんでバスルームから持ち出した、洗濯済みの下着を、どこかに干さなければならないのだ。
そうしないと、明日の朝の着替えがないのである。
しかし、カイトも寝起きするこの部屋に、下着を干すワケにも行かない。
部屋を飛び出すと、前に自分が寝起きしていた客間の方に駆けて行く。
カギが開いていることを祈りながら。
ドアは開いていた。
部屋は前のままだった。
きっと、ハルコが片づけないでいてくれたのだろう。
いつか彼女が、帰ってくるのだと信じていてくれた証のように思えた。
出ていく時は、もう二度と戻れないと思った部屋。
でも。
彼女は、この部屋に帰ってきたワケではないのだ。
カイトが拒まない限り、彼の部屋で生活することになる。
その感慨に浸りかけたメイは、はっと我に返った。
早く干して帰らないと、カイトが先にバスルームから出てきそうだったのである。
前に、彼がお風呂の間に、シャツのしみを落とそうとした時、その失敗をしてしまった。
あの時も、ひどく怒られた。
きっと、今度も怒られてしまうのだろう。
暖房の吹き出し口が当たるあたりに、恥ずかしいけど置いておくしかない。
洗濯ばさみとかは下にあるのだ。
そこまで取りに行っているヒマはないように思えた。
そして、暖房をつける。
自動で2時間後に切れるようにセットして、そこを出ようとした。
その前に、ちらっとクローゼットの中を見ると、残していった服もそのままだった。
とりあえず、明日の服には困らずに済むようだった。
慌てふためいて、カイトの部屋に戻る。
幸い、彼はまだお風呂から出てきていない。
ほっとして、ソファに座る。
そうして、自分の膝を見てしまった。
シャツの裾から、こぼれているのだ。
いや、膝だけじゃない。もうちょっと上の腿まで見えている。
やはり、いくら男物のシャツとはいえ、丈や厚みが頼りなかった。
しかし、今更シャツを変えてもらうわけにもいかないし、そんなことをお願いしようものなら、また彼が引き出しをひっくり返しかねない。
結局、カイトの迫力に押されてから、引き出しの中身を片づけていなかった。
あのままではシワになって、着られなくなるのは分かっていたが、あそこまで念を押されたのだ。
後から入るカイトに、引き出しを開けて確認されてしまったら言い訳がきかないので、しょうがなく今回は我慢することにした。
明日、彼が会社に行っている間に、片づけてしまおう。
多分、アイロンをかけなければいけないだろうが。
いろんな細々したことを考えているうちに、ドアは開いた。
ちょうど、意識がそれていた時だけに、不意打ちと同じだった。
ドキンと心臓が跳ね上がってしまって、その勢いで立ち上がってしまう。
彼の姿を見ると、余計に心臓が勢いをつける。
カイトは、パジャマ姿だった。
しかし、上のボタンは開け放していて、素肌の胸が見える。
頭にひっかぶっていたタオルを落としながら、彼が近づいてくると―― その胸を、拭いそこねた水滴が滑り落ちるのさえ見えた。
あ。
メイの心臓は、つぶれそうだった。
カイトが、『男』というオーラをまとって近づいてくるのが分かったからだ。
もう、今にも抱きしめられそうなのに、彼はその衝動を抑えるかのような雰囲気で、彼女の手を握ったのである。
その手が熱かったので、余計にドキッとしてしまう。
引っ張られた。
「寝るぞ…」
何かを抑えきれないような声で、そんなことを言われてしまう。
これから起きることを、予感させずにはいられない音だ。
握られた手から、彼の微かな呼吸の乱れさえ伝わってしまいそうだった。
メイは、はい、と答えるしか出来なかった。
そうなのだ。
やっぱり結婚してしまったのである。
何度自覚しても、自覚したりない気持ちが、また彼女の胸の中を走り抜けていった。
※
ベッドに、上がってしまった。
お互い、ぎこちない態度になってしまって、気づけばベッドの上で向かい合う形になる。
これから、どうすればいいのかなんて分からなかった。
意識のすべてはお互いに向けているのに、最初にどう触れ合ったらいいのかさえ分からない。
あっ。
メイは、そこでハッと気づいた。
まだ、自分はちゃんと結婚に対する挨拶をしていないのだ。
カイトに対して。
いくら婚姻届を書いたからと言っても、こういうことはちゃんとしていなければいけないように思えた。
ええっと。
こういう時は。
大慌てで言葉の検索をかけると、幸いすぐにそれを見つけることが出来た。
本当は。
届を出す前に、言わなければいけない言葉なのだろうが、あの状況では思い出すことも出来なかった。
ちょっと遅れてしまった挨拶。
メイは、彼に手をついた。
柔らかいベッドのスプリングが、彼女の動きを少し不安定にした。
「あの…ふつつかものですが…末永く…よろしくお願いします」
ぺこり。
多分、こんな言葉。
間違っていないはずだ。
頭を上げる。
カイトは―― 動かなかった。
驚いたような、呆然としたような表情で、固まったままメイを見ているのだ。
「変なこと…言いました?」
心配になって、彼女はそう聞いてみた。
やはり、挨拶としては遅すぎたのだろうかと心配になったのだ。
ハッ!
そんな風に、カイトの呪縛は解けた。
ようやく目に力が戻って、でも、動かないまま彼女をじっと見る。
戸惑いのグレイの目の色が、はっきりと見てとれた。
そう。
カイトは―― 戸惑っているのだ。
こんな挨拶に、慣れていないのだろうか。
まあ、結婚の挨拶なんて、普通慣れている人はいないだろう。
一体、どういうタイミングで彼のギューっというヤツが来るのか、まだタイミングの計れていないメイは、何とかその間合いを計ろうとしたが、今回その衝動はないようである。
しかし、ぎゅっとされないならされないで、彼女は寂しいのだ。
あの腕の温かさとか強さとか、それを感じると、戸惑ったりドキドキしたりするが、幸せな気持ちになるのである。
彼が、自分を好きだという証拠のようにも思えるのだ。
一体、どこを好きになってもらえたのか、分からないのは不安になる。
カイトは、そういうことは一言も言わないので。
それなのに婚姻届などという、とんでもない道を突っ走ったのだ。
カイトは、その現実をどんな重みで受け止めているのだろうか。
しかし、いまの彼は押し黙ったままだ。
カイトが、言葉が苦手なのは分かっている。
だが、言葉でなければ分からない瞬間も、たくさんあるのだ。
「末永く…」
メイは、ほとんど無意識にぽつりと呟いていた。
その言葉は、これからおそらく一生という意味。
これが―― カイトを戸惑わせてしまったのだろうか。
「ふつつか者ですけど…末永く…一生…側に置いてくださいね」
不安が、彼女の視界を少し曇らせる。
言葉が震えてしまった。
何か言って。
メイは、それを強く願った。
指が。
動いた。
自分のではなく、カイトの指が。
そっと、彼女に触れて。
それからゆっくりと抱き寄せてくれた。
ベッドのスプリングのせいで体勢を崩してしまって、倒れ込むようにカイトの胸に引き込まれた。
ぎゅっと。
身体に回された手に力がこもる。
言葉は、ずーっと後だった。
それまで、強く抱きしめられているだけだ。
「おめーは…ふつつかなんかじゃねぇ」
切なくて、まるで苦しそうな声だった。