01/10 Mon.-10
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何でこう、落ちつかーねんだ。
彼女が風呂場の方に消えた後のカイトは、ジリジリ焦がれた。
動物園のクマよろしく、室内をウロウロしてしまう。
そういえば、前にこれと同じことがあったような気がする。
記憶が、彼のシャツの裾を引っ張るのだ。
あっ。
思い出した。
彼女を連れ込んだ、一番最初の時のようだったのだ。
あの時のカイトは、ワケの分からない気分に焦れていた。
メイへの気持ちが、一体何なのか分からなかったのだ。
しかし、似たようなシチュエーションではあっても、いまは全然違う。
もう、触れてもいいのだ。
何度も何度も何度も、それを心の中で確認する。
これからは、ずっと一緒に暮らすのだ。
だが、完全な自覚にはならない。
たかが彼女が風呂に行っただけで、こんなに気持ちを持て余すのだ。
いや、一緒にいた時から落ち着かなかった。
そのままジリジリとしっぱなしだった。
あのドアが開いたら、また彼女と出会えるのだ。
そう思ったら、無意識にドアの方に意識が行ってしまう。
女の風呂なのだから、きっとそんなに早くはないだろう。
しかし、横を向いていても。
背中を向けても――気配を、全部そっちの方面に持って行かれてしまうのだ。
クソッ。
本当にどうしようもない状態だ。
彼女が一緒に生活するということを、誰よりも望んだのはカイトではないか。
なのに、こんな状態になってしまうなんて。
ドキッッ!
そんな時、心臓が飛び出しそうになるくらい驚く事件が起きた。
いきなり、バスルームへと続くドアが開いたのである。
彼女が中に入って10分くらいか。
いやに早い。
もしかしたら、彼に気遣って早く入ってきたのではないか。
そう思って、慌ててそっちの方を向くと。
「あ…あの…」
どう見ても、そのドアの中に入った時と同じ姿のメイが出てくるではないか。
髪も濡れている様子はないし、風呂上がりという感じは全然しなかった。
疑問符が飛び交うまま、カイトは目を見開いて彼女をじっと見てしまう。
一体、どうしてしまったのか、そう聞きたいのに、口は相変わらず動かなかった。
「あの…何か、パジャマになりそうなもの…貸してもらえます?」
遠慮がちに――メイは、そう言った。
あっ!
そして、またカイトは己の気の回らなさに気づかされるのだ。
そうだった。
彼女を、強引にあの家から連れ出してきたのである。
完全に身一つの状態で。
それで、何も問題はないと思っていたのだ。
足りないものは、いくらでもこれから揃えていけばいいのだから。
なのに。
今日を越えるための必需品が、彼女は何もないのだ。
昼間に思い出しておけば、買い物に出た時に買ってきてもよかったのだが、あの時は、まだ冷静に考えられない状態だった。
いや、今も似たようなものなのだが。
とにかく。
着替えさえない事実を、どうにかしなければ。
ただし、気に入らないことがった。
それならそうと、早く言えばいいのである。
きっと彼女のことだ。
この10分もの間、脱衣所のところで困っていたに違いなかった。
そして、カイトにお願いするかどうか迷っていたのだ。
遠慮すんな!
昼間、『もっと甘えろ』という衝動が起きたが、あれと同じものがまた首をもたげてくる。
それに苛立ったカイトは、歩みを荒くしながら脱衣所の方に向かった。
彼女の脇をすり抜けて中に入ると、引き出しを抜き取るなり床にひっくり返す。
あ。
また、既視感だ。
昔同じことが――と、思い出す必要もなかった。
やはり、彼女を連れて来た最初の日だ。
「あ! そんなに…あの、一つでいいですから!」
戻ってきたメイが驚いた声をあげる。
脱衣所の床には、彼のシャツ類がどさどさと落とされているのだ。
これだけあれば、どれか気に入るのがあるだろう。
カイトは、無言で部屋の方に戻りかけた。
これからまた、彼女が出てくるまでおとなしく待っていなければならないのだ。
イライラしながら。
脱衣所のドアを閉めかけて、ハッと気づいたことがあった。
振り返って釘を刺す。
「片づけんなよ!」
その件に関しては、メイは前科モノなのだ。
彼女が出てくるまでの時間が、余計にかかってしまう。
おまけに、手間までかけさせてしまうのだ。
「え? でも…」
見れば、既にシャツを拾い集めようとしていた。
油断も隙もない。
「すんな!」
カイトは、イライラを炎のように口から吐き出した。
もう、彼女はそんなことはしなくていいのである。
家政婦でも何でもないのだから。
あ?
しかし、カイトはいま、自分の考えたことに首を傾げた。
何かおかしかったのである。
「でも…あの…その…これからは、私がこの家のこと…しないと…その…」
メイは、戸惑った唇でそう言った。
ガーン!!!!!
そこで、カイトは気づいたのだ。
そうだった。
カイトは、彼女と結婚したのである。
奥さんというものは、家によって多少の違いはあれ、家事などをするものではないのだろうか。
ということは。
メイに、家事という労働をさせることになるのだ。
そこまで、深く考えていなかった。
とにかく一緒に暮らしたい=結婚――その図式は間違っていないが、お互いの肩書きが変わることで、環境や生活の変化が生まれるのである。
いままでは、「すんな」という言葉で防げたものが、これからは防ぎきれないかもしれないのだ。
分かりやすく言えば、この散乱したシャツを、明日にはこびとが片づけてくれる、なんてことはないのである。
ハ、ハルコが…。
彼女がいる、と思いかけたが。
状態を考えると、ほぼ不可能に近いことも分かった。ハルコは妊婦なのだから。
汗がだらだら流れる。
これから彼がちらかせば、それを片づけるのはメイだ。
服を汚せば、洗うのは絶対メイなのである。
カイトは。
脱衣所の中に、足を戻した。
「どれか…取れ」
床に山積みになったままのシャツをちらりと見て、彼女に指示を出す。
このままにしておけば、片づけて出てくるに違いないと思ったのだ。
だから、予防するつもりだった。
「え、あ…はい」
慌てて丈のありそうなシャツを、一枚取る。
残りのシャツを。
カイトは、パワーショベルのように腕を回し、一度に抱え上げると、それの入っていた引き出しの中に全部つっこんだのである。
「え!」
驚いた声をあげるメイを無視して、彼はそのまま押し込むような動きをしてから、引き出しを閉めたのである。
彼女の方を向いて――言った。
「絶対、開けんな」
※
やはり――女の風呂は長かった。
おかげで30分以上の時間、彼をイラつかせたのである。
しかも。
「あの…どうぞ」
ドアを開けて出てきた彼女の姿は。
ドキーン!!!!
心臓が握りつぶされそうだった。
そう、メイは彼のシャツ一枚の姿で、出てきたのである。
見たのも、これが初めてではない。
シャツを渡したのは自分なのだから、どういう結果になるかということは分かっていたはずなのだ。
しかし、正確なビジュアルは想像出来なかった。
というよりも、想像しないようにしていたというか。
その不意打ちの現実を、目の前にドーンと置かれたのである。
シャツの裾から頼りなく伸びた白い脚が、目に焼き付く。
カイトは、慌てて目をそらした。
見てはいけないような気がしたのだ。
シーン。
重い沈黙が、足元からズブズブとカイトを沈めようとする。
彼は、それを振り切らなければならなかった。
メイの脇を通り過ぎて、風呂場に逃げ込んだのである。
やべぇ。
脱衣所のドアを閉めたカイトは、深々とため息をついた。
我慢する必要がないのは分かっていた。
分かっていたのだが、こんな生活を毎日続けようものなら、本当にどこかで心臓が止まってしまいそうだったのだ。
きっとメイは、彼をいろんな角度から撃ち抜くに違いないのである。蜂の巣は間違いナシだ。
とりあえず、今夜すら――どういう風に乗り切ればいいか、カイトはよく分かっていないのである。
暴れる心臓を無視するよう努力しながら、彼は服を脱ぎ始めた。
風呂に入らなければならない。
けれど。
ゆっくりバスタブなんかに、つかっていられそうになかった。
※
10分とかからなかった。
彼は、ずぶ濡れの全身を、タオルで急いで拭いた。
まだきちんと拭き終えていないのは分かっていたが、どうしてもはやる心を抑えきれず、パジャマを着込んだ。
ボタンなんかとめているヒマはない。
メイは逃げないというのに、カイトの心は急いでいたのである。
髪からしとしとと落ちる水滴が、パジャマの肩を濡らすのも気にならなかった。
タオルだけひっかぶると、そのまま部屋に戻る。
バタン!
勢いをつけたものだから、ドアは大きな音を立てた。
ソファに座っていたらしい彼女が、びくっと慌てて立ち上がる。
それが、タオルの影から見えてほっとする。
タオルで、がしがしと髪を拭きながら。
しかし。
次にどういう行動を取っていいのか分からなかった。
食事も済んだ。
風呂にも入った。
となると。
あと残っているのは。
カァッと、頭が熱くなったのが分かった。
そうなのだ。
後は、寝るくらいしかすることはないのである。
いや、普通ならゆっくり語らってみるとか、お酒を飲んでみるとか、いろんなことを想定出来たかもしれない。
しかし、いまのカイトに、そんなゆとりあることは考えられなかった。
何しろ――結婚して、これが初めての夜なのだから。
初夜。
どどーん。
その文字が、いきなりフォント7倍角で、カイトに襲いかかってくるのだ。
しかも3Dで奥行きがあって、まるで岩を切り出して作ったような文字だった。
そうなのだ。
これから寝るということは。
おそらく間違いなく、そういう意味での『寝る』、ということなのである。
今夜そうなるだろうことは分かっていたのだが、ここまでしっかりと認識していなかった。
どちらかというと、見ないように横の方を向いていたのだ。
だが、しかし。
メイは、あんなシャツ一枚でそこに立っていて。
赤い顔のまま、カイトを見ているではないか。
ぴりっと、頬に電流が走った気がした。
全身が緊張したのである。
彼は。
慎重な足取りで、メイの方に向かって歩き出した。
途中、手の方に神経を裂くのを忘れていたので、タオルがぱさっと床に落ちたが、そんなものに構っている暇はなかった。
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
まだ、髪からしずくが落ちていく中――彼は、メイの目の前に立ったのである。
言葉は、やっぱり探せなかった。
同じように緊張してしまっているような彼女に、そっと手を伸ばすしか出来ないのである。
手を。
握る。
最初に、彼女にそうしてもらった時。
あの時から、カイトにとって手を握るという行動が、特別な意味を持つようになった。
手の温度は、彼の方が高かった。
風呂から上がってすぐなカイトと、時間がたった彼女との違いだろうか。
その手をゆっくりと引いて歩いた。
「寝るぞ…」
ようやくその言葉が、出せた。
「…はい」
消え入りそうな彼女の声。
そして、どうやって行動を起こしたらいいか分からないうちに、二人ベッドの上に乗ってしまう。
とりあえず、布団の中に入るのがいいのか。
それとも、ここで抱きしめたらいいのか――カイトは緊張のあまり、かなり混乱していた。
黙り込んで、動きも止めてしまったのだ。
昨夜は、本当に何も考えずに身体が動いたというのに。
いざ、『はいどうぞ、ご自由に』という状況だと、戸惑いまくるのである。
いままでの、触れられなかった期間の後遺症だろうか。
動いたのは、メイの方が先だった。
彼女は、突然ベッドの上で、彼に向かって手をついたのである。
驚く間もなかった。
「あの…ふつつかものですが…末永く…よろしくお願いします」
ペコリと、頭を下げたのである。
まるで、どっかのドラマか何かで聞いたことのある言葉を言いながら。
カイトは、固まってしまった。
まさか、こんなに改まって挨拶されるとは思ってもみなかったのである。
メイにしてみれば、言わなければならないことだったのだろうか。
もしかしたら、彼が風呂に入っている間に、そんなくだらない文句を考えていたのかもしれない。
どういう理由にせよ。
カイトが更に、混乱の泉に突き落とされたことだけは間違いなかった。
いきなり相手に改まれると、彼はどうしていいか分からなくなってしまう。
何か、返事を言わなければならないのか。
改まった返事というものはどういうものなのか、カイトは知らなかった。
ドラマだって、メイの言った言葉は聞いたことがあるが、返事の方は聞いたことがなかったのだ。
もしかしたら、彼女はこういうところをちゃんとしていないと、イヤなのかもしれない。
だから、いまカイトの言葉を、期待を込めて待っているのかも。
しかし――完全に、カイトの言語中枢は停止していたのだった。