01/10 Mon.-9
●
夜が来る。
メイは、戸惑っていた。
夕食が終わって後かたづけをしていても、カイトはそばから離れてくれなかった。
今日は本当に一日、ずっとそうだったのだ。
この後片づけだって、最初は「すんな!」と言われたのである。
久しぶりにその言葉を聞いた。
どうしても片づけをしないと気持ちの悪いメイは、何とかお願いして片づけさせてもらったのである。
その間、ずっと監視されていた。
後かたづけが終わって、濡れた手をタオルで拭きながら振り返ると、すぐにカイトに手を捕まれた。
もう、これ以上の仕事をさせないという確固たる意思の背中が、彼女を二階に引っ張っていく。
あ。
どうしよう。
メイは、物凄く心配になった。
今夜、自分はどこで過ごせばいいのか分かっていなかったのである。
いままでなら、彼の部屋の前を通り抜けて、奥の方にある客間で夜を過ごしていたのだ。
しかし――彼らは、今日婚姻届を出してきたのである。
ということは。
夫婦なのだ。
カァッ。
恥ずかしさに体温が上がる。
夫婦ということは、同じ部屋で寝泊まりするということになるのではないだろうか。
いや、カイトは部屋で仕事をするかもしれない。
その時に、自分の存在で気が散るのではないだろうか。
いろんな憶測が、頭の中で飛び交った。
ついに、カイトの部屋の前に到着する。
彼が、ドアを開けようとした時。
メイはビクリと震えてしまった。
彼は動きを止める。
そして、ゆっくりと振り返った。
「あ、あの…私…」
結婚した、と言っても、したてホヤホヤだ。
しかも、昨日の段階では、こんなことになるなんて思ってもいなかったのである。
そんな突然に夫婦になったからと言って、当たり前みたいな顔をして、同じ部屋に入っていけなかった。
確かに、彼と過ごした夜もあった。
一番最初の頃だ。
まだ、客間が使える状態にはなっていなかったので。
でも、あの時と今度は、全然意味が違う。
あの時は、まったくの他人で、彼は決して手出しはしてこなかった。
今度は。
もう戸籍上、夫婦だ。
そして――同じベッドで眠る、という意味も全然違うのである。
その現実的なものが、一斉にメイに襲いかかってきたのだ。
結婚して初めての夜。
初夜。
などという単語が、頭を掠めてしまったのがマズかった。
彼女は、ますます真っ赤になってしまったのである。
身体が全然動かなくなってしまった。
すると。
カイトもそれが伝染してしまったのだろうか。頬の端を少し赤くする。
そんな顔も、見られたくないように横の方にそらす。
しかし、彼は握っていた手を離さなかった。そして、決意したようにドアを開けたのである。
ぐい、と引っ張られる。
もつれる足で、部屋に入った。
「あ…」
思わず、声をあげてしまう。
部屋は――昨日、彼を食事に誘いに来た時と、まったく変わっていなかったのである。
何もかも、昨日のままだ。
彼らだけが、昨日と大きく違ってしまったのである。
どうしよう、どうしよう。
心臓が、バクバクと走り抜けていく。
中に引っ張り込まれて手を離された。
カイトは、ドアの方に戻る動きを見せたが、それをバタンと閉ざすとすぐに帰ってくる。
この人と。
近づいてくるカイトを見る。
この人と、ホントに結婚しちゃったんだわ!
彼は、メイの目の前で止まった。
どういう表情をしていいか分からないのは、相手も同じのようで。
唇を何度か開けようとした動きはあったが、きゅっと閉ざして横を向いてしまった。
何を、どう切り出したらいいのか、分からないのだろう。
それは、彼女も一緒だ。
「あ! コ、コーヒー入れてきます!」
そうだ。
彼女には、お茶の時間という強い味方があったのである。
前は、食後にそういう時間を取っていたではないか。
メイは、言うなり部屋を飛び出して行こうとした。
この張りつめた、居心地の悪い空気に耐えきれなかったのだ。
しかし。
その身体は、遠くまでいけなかった。
すぐに、何かに引っかかって止まってしまったのである。
え。
おそるおそる振り返る。
「今日は…お茶はナシだ」
カイトが――彼女の手を掴んでいた。
※
お茶はナシだと言われても。
メイは、もじもじしながらソファに座っていた。
カイトは、窓辺の方にいる。
何かを手に握っていれば、もしくは、ほかにすることがあれば落ち着くというのに、今はそれさえ出来なかった。
ただ、じっとしているだけ。
何か、話しかけなきゃ。
そう思っていたが、いい言葉なんか全部どこかに隠れてしまっている。
いま口を開いたら、どんなマヌケなことを言うか分からなかった。
向こうも。
そう思っているのだろうか。
ちらちらと、こっちの気配を伺っている気がする。
でも、話しかけて来る様子はなかった。
はぁ。
ついに耐えきれなくなったメイは、深い吐息をこぼす。
それにさえ、カイトがびくっとした反応を返してきたので、逆に彼女の方がびっくりしてしまった。
緊張で、押しつぶされてしまいそうだ。
何か話しかけなきゃ!
もう、この空気に我慢できなくなった。
いい話題がないかと、慌てて彼女は周囲を見回す。
一つのドアが目に入って、そこに光明を見い出すことが出来た。
「お…お風呂! お風呂の支度しますね!」
いきなり立ち上がると、メイはバタバタとバスルームの方に逃げ込んだ。
今度は、手を捕まれるほど近くにいなかったのが幸いしたのか、止められなかった。
急いでお風呂の掃除をする――と言っても、バスタブの方は使われていなかったらしく、きれいなものだ。
軽く流してから、お湯を張り始める。
その水音を聞きながら、彼女はお風呂場でぼんやりした。
ここで戻ったら、またあの空気に耐えなければならないのだ。
初めての、夜。
きゃー!!! と、メイは走り回りそうになった。
昨日の記憶も一緒に戻ってくるものだから、頭の中はとんでもない騒ぎになる。
本当に、心臓が弾け飛んでしまいそうだった。
半分ほどたまったところで、ようやくそんな心臓を抑えることに成功して、メイはゆっくりとした足取りで、部屋の方に戻って行った。
しかし、そんな努力はカイトを見るなり吹き飛んだ。
彼は――バスルームに入る扉の、すぐ前まで来ていたのである。
目の前に、すぐカイトの身体があるのだ。
「あ…えっと…お湯もうすぐたまるので…どうぞ…」
最後の辺りは、消えてしまいそうな音量になる。
恥ずかしさが強すぎて、まっすぐに彼の方が見られないくらいだ。
「先に…入れ」
うつむいたメイの視界で、彼がぐっと拳を作ったのが分かった。
しかし、すぐに身体が反対を向いて、どこかに行ってしまう。
顔を上げると、カイトの背中がソファに向かっているのが分かった。
わざわざバスルームに近づいてきた、ということはお風呂に入りたかったのではないだろうか。
彼女は、その背中をじっと見つめた。
うまく翻訳しようとしたのだ。
「早く入れ!」
動かない後ろの様子が分かったのだろう。
背中を向けたまま、カイトは強い声を出した。
弾かれるように、メイは脱衣所のドアの内側に飛び込んで、それを閉めた。
どうやら彼女が先に入らないと、カイトはお風呂に入ってくれないようだ。
おぼつかない指で、自分のブラウスのボタンをはずそうとした時。
あることに気づいた。
あっ!
すっかり、忘れていた。
メイは――パジャマどころか、着替えがなかったのだ。