11/30 Tue.-9
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あっ。
『メイは、おどろきとまどっている』
RPGの戦闘画面なら、さしづめ彼女は先制攻撃を食らったモンスターというところだった。
カイトが、彼女の手首を掴んで引っ張ったのである。
かぁっと、一気に耳が熱くなったのが分かった。
お互い、ちゃんとした服を着て出会ったのは、本当に今が初めてのこと。
彼の前で、自分の姿の心配をしなくていいというのに、どうしても今までのことのせいで、恥ずかしかったり落ち着かなかったり、不思議だったり。
どうやって、真顔で会えるというのか。
それなのに、ハルコは彼女をカイトの前に引き出した。
しかも、どんな言葉から始めたらいいのか分かりもしないメイを置いて、帰ろうとするのである。
何故帰るのか分からなかった。
いや、それ以前に彼女の言った言葉に、不思議な単語が混じった。
『夫』?
メイは、驚いた余り声をあげてしまう。
カイトとほぼ同時に。
でも、きっと彼は違う意味で驚いたのだろう。
どういう意味かは、分からないけれども。
夫――ということは、ハルコは妻なのだ。
けれども、彼女の相手はどこか知らないところにいる知らない人のこと。
わたし…。
自分が、妙な誤解をしていたことに気づく。
カイトとハルコがどういう関係かは分からないが、少なくとも彼女の意識を掠めたものとは、まったく違っていたのだ。
早とちりだったのである。
バカみたい。
掠めた意識で、ワケもなく泣き出してしまったことを思い出すと、顔から火が出そうだった。
彼女に会わせる顔がない。
しかし、ここでハルコに帰られても困るのだ。
慌てて呼び止めようとした。
自分の中で、何が生まれるか分からない卵を抱かされている気分で、カイトと2人きりにされるのは困るのである。
それなら、まだ恥ずかしくてもハルコといたかった。
なのに、彼女は帰るのをやめる気配がない。
笑顔で、『また明日』というのだ。
そんな。
また一晩、カイトと2人きりにされてしまう。
そう思ったら、不安が津波のように押し寄せてくる。
色々カイトに聞きたいこととか、聞かなければならないことがあるけれども、それをたった1人で彼と向かい合って聞けるかというと――とてもじゃないが、自信なんてなかった。
カイトが帰ってくるまでに、ハルコからいろいろ聞こうと思ってたのだが、彼女もいろいろ用事があるようで、よく姿を消した。
自分一人に構ってもらうワケにもいかず、ぽつんと彼の部屋で待つのだ。
時々顔を出して、退屈そうな彼女に本を持ってきてくれたり、お茶を入れてくれたりした。
でも、ハルコはメイのことを詮索もせず静かに微笑んでいて、だから彼女も何も聞くことが出来なかったのだ。
そんな情報不足のまま、カイトは帰ってきてしまって。
おまけに、これから2人きりなのだ。
心の準備もできてない彼女に向かって、彼が怒鳴った。
「来い!」
メイは、ビクッとしてしまった。
すぐ側で銃声を聞いたような気分だ。
本当に、短くて強い音。
でも、まっすぐ彼女にだけ向けられた言葉。
コイ。
近づけということ。他には、池と人の心に住んでいるもの。
どうして、カイトは彼女を呼ぶのだろう。
硬直したままでいると、彼は駆け寄ってくる。
ぶら下げたネクタイは、まるで朝の姿を思い出させる。
彼女が締めてしまったネクタイだ。
そのネクタイが、本当に目の前に来たのが分かった。
手をちょっと上げるだけで、いやでも触れるくらい近く。
心臓が止まりそうだった。
彼の衝動を感じさせるオーラが、メイを取り巻いたかのように思えたのだ。
一瞬だけ。
そのまま、彼に強く抱きしめられるかと思った。
直後。
バカッ!
メイは、自分を叱った。
何てことを思うのか、この頭は。
そんなことがあるハズもないのに。
また、自分を叱らなければならない。
何てことを考えるの、と。
昨夜、何もしないでくれたカイトに向かって。
それが、どういう意味かはまだ分からないが、もしかしたら彼にとってひどく失礼なことを考えているのかもしれないのだ。
もしも。
もしもだが、カイトが若い男ではなく女性だったり、老紳士だったりしたならば、彼女だってもっと違うように考えられたかもしれない。
お金持ちのきまぐれな優しさとか、そういうものに。
でも、カイトは若く力強く――どうしても男の匂いがした。
色気をまき散らすような男じゃない。
そうじゃなくて、もっと不安を感じさせるような、何が起きるか分からない力を感じる。
そう。
爆弾。
いまにも爆発しそうで、メイは身構えてばかりだ。
こんな側で爆発されたら、きっと彼女は粉々になってしまうだろう。
グイッと腕が引っ張られた。
力と体温を、手首に感じる。
「あっ」
思わず、声がこぼれてしまった。
突然のことに、驚いたのもあった。
自分の想像のせいでもあった。
彼の感触の全てが、全身に走り抜ける。
それからは、足を踏み外さないように階段を下りるので精一杯だった。
カイトが、ぐいぐいと引っ張るせいだ。
意思の強さを感じられる背中ばかりが、目の前で上下に揺れる。
けれども、たった一カ所つながった手だけは離れない。
痛いくらいに、すごく強い。
階段が、まるで違うもののようだった。
安定しない視界と、自分の意思ではない力と、自分の胸と彼の背中と。
最後の一段のところで、ようやくメイの視界に、背中以外のものが飛び込んできた。
ハルコだ。
玄関のところで、こっちを見て微笑んでいる。
メイは、またうつむいてしまった。
彼女は、何も知らないから,ああいう微笑みを浮かべられるのだ。
昨夜、メイが働いていたところを知ったら。
ジク。
身体の中に、膿があるように思えた。
それを知っているのは、カイトな。
目の前の背中。
彼は、自分がどういうところで働いていたか知っている。
そういう女だと思われたっておかしくない。
誰かに言ってしまうかもしれない。
ハルコが何か言ったが、カイトは足を止めなかった。
前よりも、更に力が手首にかかる。
もっと早くなる足取り。
背中が――彼の背中がぼやけそうになった。
輪郭がにじんで幾重にも見える。
やだ。
自分の胸を掠める不安の全部がイヤだった。
カイトが、その不安な綱の上を歩くんじゃないかと思うと、胸が苦しかった。
そんなの…いや。
メイがぐっと奥歯を噛んだ時。
バンっ、と目の前のドアが開いた。
ハルコが暖めていったのか、廊下の冷ややかさとは違う熱が頬を叩く。
やっと足が止まった。
しかし、メイは急には止まれなくて、彼の背中にぶつかってしまう。
奥歯をぎゅっと噛んでいたので、声は出さずに済んだ。
けれど、その背中にぶつかったまま。
メイは動けなかった。
ぐす。
鼻をすすると、もう触れんばかり目の前にある、自分の髪で影まで出来るくらい側の、彼の肩が震えたのが分かった。
また怒られるんじゃないかと、身構えそうになったが、カイトはそのまましばらく振り返らなかった。
手も、離されなかった。