01/10 Mon.-8
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もう、一瞬だって我慢できなかった。
これ以上、役所の職員なんかにいちゃもんをつけられたら、カイトの神経はすべて弾け飛びそうだったのだ。
だから、それを窓口に叩き付けるなり、彼は踵を返した。
ぎゅっとメイの手を握りしめたまま、車に駆け戻ったのである。
そして、彼女を車の中に押し込むと――とにかく、家路を目指した。
身体中の血が騒いでいるのが分かる。
ついに。
ようやく。
やっと。
彼女との婚姻関係が成立したのだ。
これで、社会的にメイはカイトのものになった、ということである。
その事実に、身体が震えそうだった。
途中、何度も彼女の気持ちが心配になった。
自分だけが、突っ走っている気持ちにさせられた。
でも、譲れなかったのだ。
絶対にもう、二度と離れていたくなかったのである。
強引なのは、百も承知だ。
しかし――これで、彼女と同じ家で生活をするのも、抱きしめるのも、咎められることなどない。
その権利を、ようやくカイトは手にしたのだった。
そして。
ついに、彼女をあの家に連れ戻すことが出来たのである。
※
家に帰り着いて、呆然とした事実があった。
これから、何をどうすればいいのか、分からないのである。
太陽は、また高い位置にあった。
時計を見ると、昼になったばかりだ。
「あ、あの…お昼ご飯作ります!」
メイも落ち着かない様子で、しかし、いいことを思いついたとばかりに、調理場の方に駆けていった。
逃げられてしまった気持ちだ。
ま、待て!
慌てて追いかける。
しかし。
困った顔のメイが、冷蔵庫の前で振り返った。
「か…買い物に!」
今度は、そんなことを言い出した。
そうなのだ。
彼女が出ていってから、一度だってこの冷蔵庫をカイトが開けたことはない。
中にあるものを使ってもいないし、足してもいないということだ。
メイが、何日間かは知らないが、ここに家政婦に来ていたようだが、食事の用意は仕事には含まれていなかったはずである。
だから、冷蔵庫の中身が増えているはずもなかった。
カイトの視線から逃れるように、今度は買い物にでも出る気なのか。
買い物。
イヤな記憶が、プレイバックする。
彼女は、あんな白菜のために、道に迷ってしまったのだ。そして、心臓がつぶれそうな思いを味わった。
飛び出して行こうとする、メイの身体を――抱きしめて止めた。
こうしないと、すぐにでもこの現実が消えてしまいそうだったのだ。
「あのっ…あの…」
カイトがそこにいる、という感触に慣れないのか。
それとも結婚した事実が、今頃一斉に襲いかかってきたのか、とにかく彼女はひどく落ち着かない様子だった。
そんなのは。
カイトも一緒だ。
夫婦というものが、普通はどういう風に生活をしていくものなのか、たくさんの実例を見てきたワケではない。
自分の両親のような平凡すぎる関係か、ソウマとハルコのような、無言でも分かり合っているような関係か。
でも。
自分たちがこの家で、どんな夫婦になればいいのか、まったく想像できなかったのである。
『結婚!』というものだけを目標に、今日のカイトは突っ走り、それが達成されてしまったのだ。
先のことまでじっくり考えていなかった。
これで、一緒に生活が出来る。
そう、生活がやってくるのだ。
「んなこと…すんな」
抱きしめたまま、メイにそう言った。
買い物の件である。
彼らは、結婚したばかりなのだ。
しかも、思いは昨日確かめ合ったばかりで――まだ、それが完全に身体の中に吸収されきっていないのである。
それなのに、『じゃあ、夫婦としての生活をスタートさせてください』、と言われても、うまく出来るはずなどないのだ。
「で、でも…買い物をしないと、夕ご飯も…明日の朝ご飯も、何も作れないから…」
おろおろした声が、胸の中から聞こえてくる。
彼女の口から、『明日』という文字が出た。
そして、それを激しく実感出来たのである。
メイと一緒に始まる明日が、ちゃんと存在するのだと。
彼女も分かっているのだと。
そっと腕を解いた。
「行くぞ…」
カイトは、そう言った。
買い物なら一緒にでかければ済むことだ。
彼の車があれば、きっとメイが重くて大変なことにはならないだろう。
自分が一緒なら、黙って迷わせたりするはずもなかった。
「え? え?」
意味が分からなかったのだろう。
さっさと出ていこうとするカイトの後を、驚いた声でついてくるメイ。
カイトだって、自分が信じられなかった。
食事の買い物なのである。
カイトが。
女と一緒に、スーパーに行くというのだ。
そんなことを、自分からするようになるとは思ってもみなかった。
今だって、本当はイヤなのだ。
誰も目撃するな――というのが、正直な気持ちだ。
でないと、その知り合いを抹殺したくなるからである。
しかし、メイが一人で遠くまで出かけたり、重い袋をさげて帰ってくる方が、もっとイヤだった。
玄関のところで車の鍵を取って振り返った時、ようやく彼女は一緒に来てくれることを理解したのだろう。
足を止めて、カイトを見た。
「えっと…その…大丈夫だから」
まだ悪そうに遠慮する唇。
カイトは、イラッとした。
何で、この気持ちを分からないのか、もどかしかったのだ。
全然まだ、彼女と心を交わしきっていないように思えた。
それが苛立ちになったのだ。
当たり前である。
いくら婚姻届を出したからと言って、それでいきなり相手の心の全部が分かるようになるワケではないのだ。
免許皆伝の巻物とは違うのである。
しかも、彼らはいままで、積み重ねてきたものが余りに少なかった。
どういう風に物を考え、どういう風に相手のことを思っているのかさえ、きちんとした確信を持たされていないのである。
相手が自分を好きで、自分が相手を好きなら、何の問題もない。
カイトは、そんな極端な考え一つしか、いま手の中に握っていないのだ。
それが、こんな苛立ちになったり焦りになったりする。
「オレが…」
クソッと、心の中で乱暴につぶやく。
「オレが…大丈夫じゃ、ねぇ…」
どうしてこの世の中は――言葉の方が、気持ちを伝えることに適しているのか。
※
野菜を選ぶ目は、真剣そのものだった。
カイトは、不思議なものを見る目で、メイの横顔を見つめた。
こんなに真剣な表情で、ほうれん草を吟味している彼女を見るのは、当然初めての出来事であった。
いままで一緒に暮らしていた時も、そんな風に買い物をしていたのだろう。
驚きの事実だ。
確かにカイトにとって、あの料理はおいしいものだった。
彼女が作るから、というのも当然あったのだが――おいしくならないハズがなかった。
こんなに一生懸命、材料を選んでいるのだから。
一つ、新しいメイを見つけた気がする。
黄色い買い物カゴを持ったまま、カイトはついつい彼女をじっと見つめてしまった。
「あっ…」
さんざん迷いに迷った挙げ句、はっと隣のカイトに気づいたようで、慌ててほうれん草をカゴの中に入れた。
恥ずかしそうに赤くなって、別の棚の方を向いてしまう。
ばっと愛しさが跳ね上がる。
社会的な空間というものが、こんなにムカついたことはなかった。
もしも、ここに他の誰もいなかったというのならば、きっとカイトは彼女を抱きしめていただろう。
そんな衝動をこらえなければならないのだ。
それが、まるで結婚前の――更に前。
心が通じ合わずに一緒に暮らしていた時の気持ちによく似ていて、彼はすごくイヤな思いを味わった。
もう、ぎゅっと抱きしめるのに、何の障害もない。
こらえる必要などない、と思ったのに。
しかし、こらえなければならなかった。
こんなスーパーの野菜売場で。
カイトは、カゴを持って彼女についていかなければならないのだ。
鮮魚売場に近づくと、メイがサカナの切り身をじっと見つめる。
また、どれがいいか悩むのだろうかと思っていたが、今度は我に返るのが早かった。
ちらっと彼の方を見たかと思うと、慌てて一つのパックを取り、カゴに入れようとしたのだ。
カイトは。
カゴをひょいと横に逃がした。そのパックを入れさせないようにする。
そして、無言でじっと彼女を見た。
「え? え? このおサカナ…嫌い?」
パックとカイトを見比べて慌てる顔。
んなんじゃねぇ。
うまく伝えられる言葉を探そうとした。
別に、サカナに好き嫌いはない。
ただ、カイトが一緒にいることで、追い立てられるように選ぶ必要はないのだ。
いつも、1人で買い物をする時のようにしていればいいのである。
「…ゆっくり…見ろ」
そっぽ向きながら、その気持ちを短い言葉の中にぎゅうぎゅう詰めにした。
「で、でも…おなかすいてるんじゃ?」
一瞬、嬉しそうな表情を作りかけたメイは、ぱっと表情を隠すようにその言葉を続けた。
でも、少し頬が赤くなっている。
彼の言葉を喜んで、でも、それに甘えてはいけないと自分を押しとどめたのだろう。
ガツン!
頭に衝撃が走る。
また、愛しさの扉が無断で開いたのだ。
もっと甘えろ!
扉を、言葉の体当たりで必死で閉ざす。
耐えられないもどかしさだ。
衝動が押さえきれない。
そうなのだ。
特売品の卵じゃなくて、もっと高い卵を買えばいいのである。
ほんの何十円かの差だが、それでカイトの甲斐性が決められてしまうような気がするのだ――違う、いまは特売品の卵は、直接的な問題ではない。
もっと自分に甘えて、寄りかかって欲しいのだ。
ずっと思っていた。
一緒に住んでいる頃も、もっと甘えてくればいいのだと。
こんなはっきりした言葉ではなかったが、漠然とそう考えていたのだ。
しかし、あの頃はそれは不可能だった。
メイの性格もあったが、何よりも彼らの関係に、一文字の名前もついていなかったからだ。
今は違った。
メイは、カイトの妻という言葉でコーティングされているのだ。
どんなに甘えてもいいはずである。
もっと甘えてくれたら、本当に自分が彼女を幸せにしている実感を掴むことができるのだ。
しっかりと噛みしめることができるのに。
それを分からせたい。
彼女の全身に。
髪の先にまで、この気持ちを焼き付けたい。
しかし、やはり――こんなところでは、気持ちのカマドにマキをどんどんくべられるだけで、蒸気機関車を出発させることは出来なかった。
我慢が頭打ちを始める。
「クソッ!」
ついに。
ちぎれ飛んだ。
カイトは、忌々しい買い物カゴを床にダンと置くなり、メイの腕を掴んでその店を連れ出したのである。
「あっ! 何? 何で? カイト???」
頭の後ろの方から、驚きと戸惑いの声があがった。
それをまったく無視して、商品搬入口のようになっている建物の陰に連れ込んだ。
誰もいなかった。
「…!」
驚きに固まったままのメイを――抱き竦める。
彼女に向かって持て余した衝動は、どうあってもこうしないと、おさまらなくなってしまったのだ。
抱きしめていると、自分の中の暴れ狂う気持ちが、メイの中に吸収されるのではないかと思うくらいに。
「カイ…ト?」
抱きしめている身体が、ふっと柔らかくなったのが分かった。
驚きが、はがれたせいか。
「…」
彼が、何も言えるハズがなかった。
スーパーで抱きしめたい衝動を抑えきれず、買い物を中断して、こんなところに連れ込んで、メイを抱きしめているのだ。
変に思われたって仕方がないだろう。
抱きしめるということを、我慢してきた日々があった。
きっと、その反動なのだ。
もう、絶対に我慢なんかしたくなかった。
わがままなのは、百も承知だった。
けれど、腕を離せない。
離せるとしたら――メイの拒絶があった時だけだ。
「カイト……人が来るかも…」
「黙ってろ…」
いま、彼はメイという存在を、この身体で抱きしめているのである。
もっとしっかりと、愛しさの形を感じていたかった。
「えっと…買い物…」
「後だ!」
愛しさとイライラというのは、どうしてこんなに仲良しなのか。
カイトは、その二つにいま振り回されているのだ。
愛しさという精霊は、きっとメイと同じ姿をしていて、イライラという精霊は、カイトと同じ姿をしているに違いない。
言葉の響きと、彼らの様子はぴったりだった。
愛しさの周囲を、まるでロープでぐるぐるにするようなイライラの衝動。
彼の衝動に、まだ全然慣れていないメイを、とにかく自分自身が落ちつくまでずっと抱きしめていた。
買い物の続きは、ずっと後になった。
しかし。
彼女の選んだホウレン草の入った黄色いカゴは、運良く同じ場所に置き去りにされたままだった。
持ち主不明のそれは、さぞや他の買い物客には不審がられただろう。
2人――恥ずかしさが押し寄せてしまって、後は、まったく無言のまま買い物をした。