01/10 Mon.-7
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両親のところではなかった。
カイトに連れてこられたのは、ソウマの家だったのだ。
メイにとっては、足を向けて寝られない家ナンバーワンだった。
ソウマたちにからかわれる度に、カイトはいまにも噴火しそうな勢いだったが、それをこらえているのが分かった。
いつもの彼ならきっと、相手を追い出しているか、自分が出て行くかしていただろうから。
婚姻届のために――我慢しているのだ。
ああ。
どうも彼の態度への翻訳が、自分に都合のいいものになっているような気がしてしょうがない。
どうしてもカイトが、自分と結婚したがっているように思えるのだ。
こんな人だったなんて。
一緒に暮らしてる時には、全然分からなかった。
彼が恩返しというウソ(?)をついていたせいで、どんな優しさも、それを裏付けているにすぎないと思っていたのだ。
けれど。
そのウソがなかったと考えたら。
メイは、ぷるっと首を左右に振った。
やっぱり、自分に都合のいい考えにたどりついてしまう。
「でも…嬉しいわ」
ハルコにそう声をかけられて、いま一緒にお茶の準備をしていたことを思い出す。
はっと我に返って、隣を見る。
彼女はお湯を沸かしながら、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
嬉しい?
正直、メイはまだ混乱していたのだ。
だから、その実感は全然ない。
朝、ベッドの中でカイトの寝顔を見られた時、喜びよりも安堵の方が前面に押し出されていた。
昨日起きた事件が、どれも夢でなかったということを、受け止めるので精一杯だったのである。
だから、いきなり結婚と言われても、まったく現実味はなかった。
どうしてこんなことになってしまったかさえ、まるっきり分からない。
昨日と今日では、人生が逆さまにひっくり返ってしまった。
「本当にいいんでしょうか…?」
実体のない人形を抱かされている不安で、メイはそんなことを言ってしまった。
小さな声だったので、居間の人たちには聞こえないだろう。
「…カイト君と結婚するのが…いやなの?」
彼女の不安が、伝染したのだろうか。
ハルコが声とひそめて、少し悲しそうな表情になった。
「いえ! そんなことは!」
慌てて否定したために、大きな声になってしまう。
がたっと、居間のカイトが驚いたように腰を浮かしたのが分かった。
何の話をしているかは分からなかっただろうが、心配と怪訝の入り交じったグレイの目が、まっすぐに彼女に注がれる。
「ははは、そんなに彼女が心配か? まあ落ち着いて、お茶が入るまでおとなしくお座りしてろ」
ソウマのからかいに、カイトは怒ったように赤くなった。
怒鳴り出すのではないかと心配したが、彼は横を向いてどすんとソファに戻る。
もうソウマとは、口をききたくもないような表情だ。
ハルコも、そんなカイトの様子にくすっと笑った。
その音の方を振り返る。
彼女にしか出来ないのではないかと思える、深みのある優しい笑顔が向けられた。
心を奪われてしまう笑み。
「もう離れちゃ…ダメよ」
穏やかな聞かせるような声。
何度、この声に救われてきたことか。
「は…い…」
この婚姻を、祝福してくれる人がいる。
実感はまだわかないが、本当に願って望んでくれている人がいるのだ。
本来、それはメイの両親がしてくれるはずだったことである。
しかし、不可能なことでもあった。
代わりに、姉のようなハルコがいてくれる。
その事実が嬉しくて――胸がつまってしまった。
「るせぇっつってんだ!!」
しかし、後方はとんでもない騒ぎになりつつある。
じんわりとひたっているヒマはないようだ。
早くお茶を入れて、男たちの戦いを止めに入らなければならなかった。
※
証人の欄を、ソウマとハルコが一カ所ずつ埋めてくれた。
記入の終わった用紙を持って、再び役所に向かう道すがら。
車の中は、ぶすったれたカイトの気配が伝わってくる。
あの家での出来事が、どれもこれも気に入らなかった、という様子だ。
でも、メイは行ってよかったと思った。
でなければ、きっと婚姻届けを出しても、不安だっただろう。
いや、いまでも不安がないと言えば嘘である。
出してしまっても、きっと消えないだろうが、それでもハルコと話す前よりはいい。
そうしているうちに。
ついに。
役所についてしまった。
車が止まった瞬間に、ドキッと心臓が飛び跳ねそうになる。
さっきまでは大丈夫だと思っていた気持ちが、いきなり違う方向に跳ね返るのだ。
やはり、全然覚悟が決まっていなかった。
カイトが車を降りようとする。
反射的に、彼の方をぱっと見てしまった。
気配に気づいたのか、カイトが中を振り返ってくれる。
どんな顔で、彼の瞳に映っているのだろうか。
でもきっと、この気持ちを隠しきれていないように思えた。
確かに、カイトのことは好きだ。
離れていたくない。
でも、本当にそれでカイトはいいのか。
彼は、自分と結婚するという道に、こんなに早く入って後悔しないというのか。
本当に?
普通なら、恋人から結婚までの期間は間があいている。
その空間のひずみに起きるマリッジ・ブルーというものを、いまメイはこの短い時間で引き起こしていたのである。
自分はいいのだ。
でも、カイトは?
後で後悔したと言われたら、彼女は絶対に立ち直れないのだ。
胸が、ぎゅうっと痛くなった。
「降りろ…」
カイトが、そう言った。
命令言葉ではあるが、ゆっくりとした声だ。
彼も、ひどく苦しそうな表情をしている。
命令語なのに、メイには、『頼むから、車を降りてくれ』――そう言っているように聞こえた。
少し震える指で車のドアを開ける。
足を下ろしてアスファルトに立った時。
目の前にカイトがいた。
わざわざこっち側まで回ってきてくれたのだ。
彼を見上げる。
そうしたら。
カイトは、メイの手を捕まえてくれた。
手首じゃない。手のひらだ。
ぎゅっと。
手を握ってくれた。
一瞬で、彼の体温が身体の中を駆けめぐる。
同時に。
昨夜の思いまでもが、ぱぁっと胸の中に広がった。
勇気を出して、ぎゅっとカイトの手を握ったことを。
握り返してくれた強さを。
あの時の気持ちのすべてが、彼の力で呼び戻される。
ぎゅっと――今度は、メイが握り返す番だった。
手を引かれる。
現実の足取りを、一歩ずつ教えてくれる。
この静かな祭日の役所の、穏やかな職員の人が、式で言うところの神父様だろうか。
それなら。
この短いアスファルトの道が、ヴァージン・ロードということになる。
ぎゅっと、彼の手をもっと握る。
カイトも握り返してくれる。
言葉はなかった。
でも、幸せがこみあげる。
この人で――よかった。
しかし、この人とやらは、もうあの職員の人に呼びかけることもしなかった。
勝手にガラス戸を開くと、婚姻届をバンッと置いたのである。
そして。
「ああ、ちょっと待ってくださいよ」
慌てて出てくる神父の声も聞かずに、カイトは彼女の手を引いて、すごい勢いで車に戻ったのだった。
結婚。
してしまった。